昨日の結論、すなわち、「あの時代の人々みんながそこ(日本の「こころ」)に戻って考えていたなら、戦争はまったく違った展開になっていただろう」というのは、わかりにくいかもしれない。満州事変・支那事変から大東亜戦争にかけての時代には、複数の思惑がもつれあいながら展開していた。ひとつは日本の「こころ」にもとづくアジア解放の願いで、これは確かに存在した。ひとつはアジア征服の帝国主義的野望で、これが存在したことも否定できない。ひとつは、日本共産化の目論見で、これも確実に存在した。これらが複雑にからまりあっていたのだが、帝国主義や共産主義は西洋近代文明の産物で、日本の「こころ」とは関係がない。そういう部分がなければ、日本は違った行動をしていただろう。中国大陸奥地への侵攻もしなかっただろうし、英米相手の開戦もしなかっただろう。それで日本が栄えたか、あるいは滅びたか、私にはわからないが、とにかく違う挙動をしただろう。あの戦争の論理的根拠になったのは、日本の「こころ」とは無縁の、日本が輸入した西洋近代思想なのだ。
子規万葉ぶりの末裔である斉藤茂吉や『アララギ』の歌人たちの多くは戦争に賛成であった。どうしてそうだったかについて、保田與重郎は次のように書いている。
アララギの一時代前の人々の考へ方としての写生は、要するに人為人工を以て、自然の真実に至るといふにあつたが、このゆくところ、一種の支配となり、自然への小ざかしい侵略を意図しつゝ、なほ結果的には、一種の文学的文様化、形式化にならざるを得ぬ。(中略)アララギの一時代前の人々、何時の日にも文学者と云ひうる人々の場合に於て、その写生説のもつ、自然に対する不遜なヒユマニズムの主張が、写生を云ひ、観察を云ひつゝ、それらを行へば必ず気づく筈の謙虚さが、ほとんど喪失している状態を指摘するにある。(中略)彼らが別個の俗なヒユマニズム観念を新しく提出したといふだけのことを、芸術の理論上では、さほどに革命的なものとして肯んじ得ない、といふ意味である。且つ、その心情について、神と共にある詩及び詩人の立場、総じて文学の立場から反対するのである。(保田與重郎『日本に祈る』新学社,pp.208-209)
わかりにくい言い回しだが、次のように整理できるかな、1)『アララギ』の歌人たちが言うところの「写生」は、実は人間中心主義(ヒューマニズム)であり、西洋近代思想にもとづくものである。2)つまり、彼らは「神なき人々」である。3)彼らの作品は、西洋の近代絵画と同じ位置にあって、自然の侵略であり自然の支配であり、自然との共存ではない。4)元来、日本の伝統文学は神とともに生きる者が神とともにおこなう営みであって、そういう立場から『アララギ』のあり方は非日本的である、ということだろう。
そうであったからこそ、たとえば斎藤茂吉は軍国主義者、あるいは社会主義者にたやすく「だまされて」、戦争賛美の歌を詠うことができたのだろう。もっとも、戦後に茂吉やその他の「戦争協力者」たちを批判した勢力も、同じように人間中心主義者であったので、同じ穴のムジナだ。その人たちは保田與重郎をも「戦争協力者」として批判しているのだが(たとえば杉浦民平)、茂吉と保田を同列に述べること自体が、彼らの遠近法がいかに狂っているかを証明している。保田は、日本の「こころ」の立場から、つまり伝統主義の立場から、天皇陛下が戦をするとおっしゃるなら民としては戦うしかないと覚悟して、
いづことてわが大君のしろしめすみいくさなりきおもふことなし
と詠んだわけだし、「されば我らは言挙せずに、時々刻々の皇御軍(すめらみいくさ)に仕へ奉るのみである」(『校訂 祝詞』)とも言った。しかし一方では、反近代主義の立場から、帝国主義的野望に反対して、
かくまでにますらたけをのいのちおもふきびしき道をしろしめすらむ
と詠んだわけだし、「我々は戦争の言挙に奔走してはならぬのである。さうしたことは、崩壊する国の文化人の、その日暮しの暮し方である」(前掲書)とも言ったわけだ。戦時中は後者が理由で軍部に睨まれて懲罰徴兵されてしまったし、戦後は前者が理由で「戦争協力者」と批判された。戦時中に保田を批判していた勢力と、戦後に保田を批判した勢力は、同じ論理にもとづいていて、どちらも西洋近代思想の信奉者であり、神とともに生きる人々ではなく、自然や社会の支配をもくろむ人々であった。これに対して、保田は、大衆がどのように言おうが、それとはかかわりなく、神とともに生き、「八百萬(やおよろず)の神々を信じてゐる。しかも信ずるとさへ言挙げせず、その神々の天恵に万古不動の信頼を持してゐる」(前掲書)生活を維持しようとしていた。
戦時中の保田與重郎の立場は、きわめて微妙だった。彼は西洋近代主義を批判していた。それはまず、マルクス主義だったのだが、それを換骨奪胎した国家社会主義(いわゆる超国家主義)にも反対していた。美濃部達吉の天皇機関説も近代主義だから反対していたし、それを糾弾していた蓑田胸喜のような狂信的な復古主義者にも反対していたし、『近代の超克』を唱えるいわゆる京都学派にも反対していた。当時の神道にも批判的だったし、キリスト教にも反対だったし、既成仏教にも反対だった。つまり、右であれ左であれ、当時の主流思想すべてを批判していた。その中には、西洋的な意味での民主主義や平等主義や人命尊重思想や自由主義も含まれていたので、戦時中であれ戦後であれ、彼を批判するのはきわめて簡単だった。しかし、どの批判も当たっていない。
創造といふ思想は、従って唯物論と合理主義の反対のものである。又科学主義とも反対のものである。我々の努力を神がみそなはすと信ずるか、それを信じないか、その二つの一つである。(保田與重郎「言霊私論」石川公彌子『〈弱さ〉と〈抵抗〉の近代国学』講談社選書メチエ,p.108)
ここで「創造」と言われているのは、まずは生産活動である。ただし、農業などの「天恵生産」にかぎられており、たとえば「人為人工」の工業生産はそれに含まれない。天恵による生産に従事するのが人間の喜びであり、それ形にしたものが祭であって、そこに歌が生まれる。だから、創造には、祭や文芸や音楽や絵や、その他さまざまの芸能も、天恵生産に連続したものとして含まれる。それが保田の理想世界の生活なのだ。つまり、彼は純粋な宗教思想家であって、世俗思想すべてにたいして批判的だったし、世俗思想の論理でもって批判できるような思想家ではなかったということだ。ある程度、ユダヤの預言者に似ているし、その連続線上でアドラーとも似ていると思う。
不幸なことに、保田は戦争の時代を生きなければならなかった。戦争の時代にあって創造とは何なのか、「神がみそなわす」暮らしとは何なのか。保田がたどりついた結論は、次のようなものだ。
皇軍の本質とは何かといへば、大命たゞ一途にあることである。死を察して命を下し、死を思はずに命を受ける。すなはち生も死も考へてゐないといふ神厳無双の士気である。(保田與重郎「憤激の心を己に見定めよ」前掲書,p.129)
保田は戦争に賛成だったわけではない。それは西洋近代思想に毒された国家が引き起こした大悪事だ。「正義の戦争」などというものは存在しえないので、すべての戦争は悪だ。だから、戦争はすべきではない。しかし、天皇がそれを裁可したかぎりは、神々が戦うことを選ばれたのだから、国民は総力をあげて戦わなければならない。勝つか負けるか、生きるか死ぬかは、問題ではない。ただ自分に与えられた職務を忠実に果たすことが「神がみそなはす」創造的な暮らしだ。それは、平時の生活において、生きるか死ぬかが問題でなく、ただ自分に与えられた職務を忠実に果たすことが「神がみそなはす」創造的な暮らしであることと、まったく同じことだ。「されば我らは言挙せずに、時々刻々の皇御軍(すめらみいくさ)に仕へ奉るのみである」と彼が言うときの「すめらみいくさ」とは、戦時だけでなくて、平時の生活もまた含まれているのである。
この思想は、国民に死ぬように勧めたとされて、戦後に厳しく批判される。もし保田が国民に「死ぬように」勧めているとすれば、同時に「生きるように」勧めてもいる。「死なぬように」行動すれば、「神がみそなはす」暮らしからはずれて、自分の「わたくし」を優先することになる。最大限、「生きるように」努力すべきだが、最悪の場合「死んでもよい」と覚悟するしかない。保田が言っていたのはそういうことだと、私は理解している。しかし、これは容易に誤解される思想であるし、悪用しようとすればいくらでも悪用できる思想だ。
それでも私が保田與重郎にかぎりない魅力を感じるのは、人間を疎外し道具化してしまう西洋近代思想に対する根源的な批判になっており、人がどのように生きればいいかについての示唆を豊富に含んでいるからだ。彼はそれほどはっきりした未来図を描いてくれない。それは仕方がないので、誠実に生きてみるしかよりよい未来に到達する方法はないのだ。先に未来図が見えているなら、それは西洋近代思想にもとづく設計主義でしかない。
四方の山ひかりにみちぬうつそみにかなしきものは一つなりけり
このひとつの「かなしきもの」とは何なんだろう。なんであれ、「かなしきもの」(それが「愛しきもの」であれ「悲しきもの」であれ)とともに生きるのが人の暮らしであり、それを忘れると、どんなに豊かな暮らしをしても、人は不幸になると私は思う。天恵の光に照らされながら、しかも「かなしきもの」を抱いて暮らす、陰翳のある暮らしが日本人の暮らしであり、その美しさの中で私も生きて死にたいと思っている。