影の炎(7)

第七部 最後の合戦

 夜明けのすこし前に、隣の部屋で物音がしましたので、見に行きました。伊賀の中忍の田代弥五郎殿が来ておられました。
 「橋の向こうに北畠の本陣があって、北畠顕能卿が入っておられます。おっしゃっていた紅毛碧眼の行者もおります」
 と弥五郎殿は言いました。
 「今日、出陣するのだろうか」
 と師の御坊が尋ねられますと、
 「そんなに急いでいる様子ではありません。今日のところは様子見ということではないでしょうか。何を考えているのかよくわかりませんが、戦支度はしております。続けて様子を探り、わかったことがあればまたまいります」
 と言います。
 師の御坊は、
 「度会の本家へ行ってくる」
 と言って、光智さまと一緒に出かけられました。

 しばらくすると帰ってこられて、
 「美紗、千代、これに着替えなさい」
 と神社の巫女の衣装をくださいました。光智さまは、神主の姿をしておられました。
 「度会家で借りてきた。これを着て、私と一緒に北畠殿の本陣へ行く。ひさしぶりに軍使をする」
 とおっしゃいます。
 歩きながらお話をされたのですが、度会家の当主の義行殿と、大中臣家の当主の康元殿にお会いして、両家の軍使の役として、北畠の本陣に使いをすることになったということです。
 「昔、後醍醐のみかどが笠置山にこもられたときに、軍使に行ったことがあるんだよ。降伏勧告にね。まったく聞いてもらえなかったがね。しかし、律僧の重要な役目のひとつが軍使なのだ。絶対に嘘をつかないことをみんなが知っているからね」
 と師の御坊はおっしゃいました。けれど、神変丸の正体が松葉であることはおっしゃいませんでしたよね。まあ、嘘は言っておられないわけですが、ほんとうのことをおっしゃらないことはあるわけです。

 昨夜の騒ぎはすっかり静まっていて、道には人通りがありません。一揆衆はどこへ行ってしまったのでしょうか。橋まで来ると、向こう岸に大軍勢がいます。数千人はいるでしょうね。旗指物がきれいです。橋を渡ると誰何されましたが、師の御坊は、落ち着いた声で、
 「度会氏ならびに大中臣氏の軍使として使わされました律僧の浄念と申します。北畠卿に取り次がれたい」
 とおっしゃいました。しばらく待たされて、四人は本陣の中に招き入れられました。幕を張った本陣の中央に若い武将が座っていました。
 「北畠顕能である」
 と名告ったので、師の御坊は、
 「律僧浄念と申します。度会氏ならびに大中臣氏の軍使としてまいりました。これらは従者です」
 とおっしゃいました。顕能卿の斜め後ろに天竺聖が座っており、その隣に僧侶がひとりいて、通訳をしているようです。おそらく入元僧と思われます。
 「して、用向きは何か」
 と顕能卿は堂々とした声でおっしゃいます。
 「昨夜の所行についてご説明いただきたく」
 と師の御坊はおっしゃいました。
 「あれは、伊勢神領地の一揆衆がかってに米や布を持ってきたのだ。だから預かった」
 「あれらは伊勢神領地の所有物です。お返し願いたい」
 「われわれが強奪したものであればそうしよう。しかし、神領地の民がみずから運び込んだのであるから、返すいわれがない」
 「そこな行者にたぶらかされましたな。『殺生をせずに財物が手に入る』などと言われて」
 「い、いや、そういうわけでは」
 「申し上げますが、その行者の思惑は、それとは違います」
 「それはどういうことか」
 「おそらくは神領地の中で血を流させることです」
 「なんと。それはまかりならぬ。血の汚れは許されぬ」
 「そうです。そのようなことをしたら、恐ろしい祟りがあります」
 「しかし、どうやって血を流すのだ」
 「それはわかりませぬが、なぜ北畠さまは、こんな大軍勢をお揃えになったのですか」
 「天竺聖がそうせよと申すからだ」
 「ということは、この後、神領地へ進軍なさるおつもりではないかと拝察いたします。そうなれば、各地の大名は、それを快いことだとは思わないでしょうから、かならず攻め寄せてきます。そうなれば早かれ遅かれ血が流れます」
 「ふむ」

 そこまで言ったときに、天竺聖がいきなり立ち上がって、呪文を唱え始めました。
 「さばびがな、びなやかん、まかがなぱてぃ…」
 師の御坊はぐらっとよろめかれました。そうして、印を結んで呪文を唱えようとなさるのですが、体が思うように動きません。跪いて、地面に手をついてしまわれました。どうなさったのでしょうか。修法で疲れはてて、消耗なさっていたためなのでしょうか、それとも、おっしゃっていたように、あらかじめ相手に正体を気づかれていたので、師の御坊の験力を封じるための処置がおこなわれていたのでしょうか。師の御坊は下を向いて大きな息をしておられますが、思うように動けないようです。わたくしは、一瞬、目の前が真っ暗になったような気がいたしました。

 そのとき、神主姿の光智さまが、
 「ひと、ふた、み、よ、いつ、むゆ、なな、や、ここの、たりや、ふるへ、ゆらゆら」
 とゆっくりと小さな声で唱え始められました。すると、天竺聖の呪文が止まりました。何度かその歌を唄われてから、
 「やまとは、くにのまほろば…」
 と、別の歌をゆっくりと歌い始められました。天竺聖の呪文が止まったので、動けるようになった師の御坊が、
 「美紗、千代、舞え、舞うのだ」
 と、苦しそうな声でおっしゃいました。わたくしと千代はゆるやかな歌声に合わせて舞い始めました。天竺聖は、放心したように舞を見ています。師の御坊がようやく立ち上がって、異国語で天竺聖に何事かを話しかけられました。天竺聖は黙って聞いています。光智さまは、さらに歌い続けられます。
 「ともしびに、われもむかわず、ともしびも、われにむかわず、おのがまにまに」
 光智さまは、高い声で、伸びやかに美しく唄われます。師の御坊は異国語で話し続けられます。北畠の人々は、呆れたように出来事を見ています。
 そのうち、天竺聖が何かを異国語で言いました。師の御坊がまた何かおっしゃいます。そうしてしばらく言葉を交してから、師の御坊は光智さまに向かって、
 「もうよろしいでしょう」
 とおっしゃいました。光智さまは最後に、
 「よどみしも、またたちかえる、いすずがわ、ながれのすえは、かみのまにまに」
 と唄いおさめられ、わたくしと千代も舞いおさめました。北畠の衆から一斉に拍手が起こりました。

 「いや、見事な歌と舞いであった。しかし、何が起こったのだ?」
 と顕能卿は問われました。
 「異国の神と日本の神が戦って、日本の神が勝ったのです」
 と師の御坊はおっしゃいました。
 「どういうことだ?」
 と顕能卿は問われるので、師の御坊は説明なさいました。

 「話をしましたところ、この男は、それほど深いことまでは知らなかったようです。つまり、神領地の民を魔法にかけて一揆を起せば、度会や大中臣の人々は一揆衆を殺して血を流すだろうと思っていたのです。そうして穢れたところに自分が入り込んで、魔法にかけた人々を使って伊勢の神々を取り除き、代わりに自分の国の神々を祭らせようとしていました。もちろん、度会氏や大中臣氏を取り除き、そこを北畠さまの領地にして、そこから全国を制覇しようと考えていました」
 「ふむ、しかし、伊勢の神々がおられなくなったのでは、もはや日本国ではないではないか」
 「その通りです。この男の狙いは、まさにそこにありました。北畠さまは、文永の役と弘安の役をご存じでございましょう。蒙古の侵入に対して日本の神々がお怒りになり、二度とも神風が吹いて、蒙古軍は全滅しました。そのとき、蒙古の人々は、この国の神々を亡ぼさない限り、日本を征服することはできないことを悟ったわけです」
 「ふむ」
 「そういうことがありましたので、わたくしは、この男が元の皇帝の回し者ではないかと疑っておりました。しかし、話をしてみると、そうでもないようで、日本の神々を亡ぼしてから、この男の故郷の神々を勧請しようと考えていたようです。それを日本の神々の代わりにこの国の神にして、日本の天皇を取り除き、自分が天皇になろうとしていたようです。そうして北畠さまを将軍にして、全国を支配しようと考えていたようです。そうなりますと、南朝だの北朝だのと言っている場合ではございませんでしたね」
 顕能卿はしばらく絶句しておられました。
 「あやうく日本国を亡ぼすところであった」
 師の御坊は言葉を継がれました。
 「しかし、この男は、最初のところで失敗したわけです。度会や大中臣の人々は、神領地のすべての財宝を奪われても、血を流そうとしませんでした」
 「どうすればよいであろうか」
 「異国人の行者にたぶらかされて、伊勢の神々を亡ぼし、皇室を取り除き、日本国を亡ぼそうとしたことが人々に知れますと」
 「私の面目はつぶれ、人々の心は私から離れ、朝廷からも激しいお叱りを受けるだろう。お叱りだけでなく、お家がとりつぶされるかもしれない。もちろんわが身も切腹、いや、切腹では済むまいな、打ち首になるだろう」
 「お父上の親房卿が書かれた『神皇正統記』を拝読いたしました。その一族から、このような所行をする子孫が出たとあっては…」
 「ご先祖へもとうてい顔向けができない。ああ、私はどうすればいいのだろう」
 「ですから、すべてを原状復帰して、なにもなかったことになさってはいかがかというのが、度会家と大中臣家からの伝言でございます。そうすれば、度会家と大中臣家では、このたびのことはなかったことにすると言っています」
 「わかった」
 「一揆衆が持ち込んだすべての財物をお返しくださいませ。できればすこし色をつけていただけると」
 「わかった」

 顕能卿がそう言ったとき、
 「早馬がまいりました」
 という言葉があって、一人の武者が幕の中に入ってきました。
 「津で熊野水軍が暴れております」
 師の御坊はおっしゃいました。
 「軍使にまいりましょうか。騒ぎを大きくすると、今回のことが天下に知れてしまいます」
 顕能卿は、
 「いや、こちらにも律僧がいるので軍使を出そう。海賊のことだから、なにがしかの財宝をやれば、手を引くだろう」
 と言って、ため息をつかれました。そのときまたもや、
 「早馬がまいりました」
 という言葉があって、別の武者が幕の中に入ってきました。
 「伊賀に近江の佐々木勢が攻め入りました」
 顕能卿は、
 「なんということだ」
 と頭を抱えられました。
 「わたくしは佐々木道誉さまとはすこしご縁がございますので、私が行けば丸く収まると思います。ただし、多少の領地の割譲は認めていただきませんと」
 と師の御坊はおっしゃいました。
 「しかたあるまい。家老をひとりつけて、そなたと一緒に使わすので、よろしくとりまとめてくれ」
 と顕能卿は肩を落として言いました。そして、突然思い出したように、振り返って天竺聖を指さし、
 「その男を打ち首にせよ」
 と言いました。師の御坊は、
 「お待ちください。殺生はいけません。先ほど説き聞かせましたので、この男も反省していると思います。できれば、わたくしにさげ下していただけませんか。まっとうな日本人になるように、教え導こうと思います」
 とおっしゃいました。
 「わかった。そなたに下げ渡そう。どこへなりと連れて行くがよい」
 と顕能卿は言いました。

 北畠家の家老の藤方喜泰という人とその家来二人が、師の御坊について佐々木方へ使者に行くことになりました。馬を貸してくれたので、わたくしたち四人も馬に乗り、天竺聖も馬を借りてついてきました。佐々木軍がいる名張へ向かう道には桜が咲き始めていて、奇妙に静かな日でした。山々には春の霞が出て、雲雀も鳴いておりました。

 「ニホンノ、カミガミワ、オソロシイ」
 天竺聖はたどたどしい日本語で師の御坊に言いました。
 「それはわれわれが日本にいるからだ。そなたの国へ行けば、そなたの国の神が強い」
 と師の御坊はおっしゃいました。
 「日本の国は、人と神とが一緒になって守っている。それはどこの国でもそうなのであろう。そうでなくなって、神々がいなくなると、国は滅びて、外国に併合されてしまう」
 「ワタシノ、クニハ、カミガミガ、いすらむニ、ホロボサレタヨ」
 と天竺聖は悲しそうに言いました。
 「そなたは、日本を元に売り渡す気でいたのか」
 と師の御坊がおっしゃると、
 「ソウデハナイ。ワタシノ、クニノ、カミヲ、マツッテ、ワタシノ、クニニ、シヨウト、オモッテイタ」
 と天竺聖は言いました。
 「日本の神々は、そなたの国の神々も受け入れてくださる。だから、そなたが祭ればいい。そうして、そなたの国の神々は、日本の神々になればいいのだ」
 「ソレハ、ドウイウ、コトダ」
 「日本に住むなら、日本人になれ。人間もそうだが、神々もそうだ。日本に住むなら、日本の神にならなければならない」
 「日本ニ、スミタイ。コノクニハ、ウツクシイ」
 「それだったら、自分の神々と一緒に、日本の神々を拝め。日本の人も日本の神も、日本人として暮らすことに決めたものは受け入れる」
 「ワカッタ、ソウスル。ワタシワ、マチガッテイタ」

 その日の夕刻には、名張郊外に陣を張った佐々木の軍勢が見えてきました。陣幕の中に入ると、佐々木の殿が座っておられました。金襴の鎧で、それはそれは美しい軍装でした。
 「ご無沙汰しております」
 と師の御坊が挨拶されると、
 「おお、このたびはご苦労であった」
 とおっしゃいました。その後、北畠殿の家来と交渉があって、領地の割譲が決まったようです。約定書が書かれたのはもう暗くなってからのことでした。藤方殿は、名張の味方の家に泊まるというので去っていかれました。
 「戦わずして領地を手に入れた。いったいどういうことになっておるのだ」
 と佐々木の殿はにこにこしながらおっしゃいました。
 「それは、城に帰ってからゆっくりとお話をいたしましょう」
 と師の御坊はおっしゃいました。

 その夜は宴になって、かがり火が赤々と焚かれ、光智さまと千代が唄い、わたくしが舞いました。

  四海波静かにて
  国も治まる時津風
  枝をならさぬ御代なれや
  あひに相生の
  松こそめでたかりけれ
  げにや仰ぎても
  こともおろかやかかる代に
  住める民とて豊かなる
  君の恵みぞ有難き
  君の恵みぞ有難き

 舞いおさめると、佐々木の殿がおっしゃいました。
 「浄阿、巫女姿も美しいのう。どうだ、おれと寝んか」

= 完 =