日本アドラー心理学会の総会は終わった。3日間、「澄んだ」話もあれば「濁った」話もあった。もっとも「濁って」いるからといって、会員の反発を買ったわけでもない。というか、会員は私と同じ基準で演題を「澄んでいる」だの「濁っている」だの区別してないのだと思う。
たとえばどういう話が「濁って」いるかというと、ライフスタイルについて十分考えないままで話をするような場合だ。「十分考えて」話をするというのは、ある個人の「悩み」について、それに対応する目標を考え、その目標が競合的であって「相手に勝つ」ことを目指しておれば、その人のライフスタイルは「競合的」だと考える。つまり「私が勝つ/相手が勝つ」という競合関係でものごとを裁こうとしており、うまく「私が勝つ」に到達できないので、相手を攻撃してエピソードを終りにしている。このような関係はアドラー心理学的に見ると「濁って」いる。
実例をあげるとわかりやすいのだが、あまりわかりやすくては人々が困ってしまうだろう。なぜなら「およそ悩みがあるかぎり、ライフスタイルは競合的であり、競合的であるかぎり協力的ではないから」だ。だから、もったいないけれど,実例はあげない。どうしても話を聞きたかったら、実際にお会いしたときに実例をめぐって分析してもいい。分析すると、いままで「協力的」だと思っていたエピソードが、実はきわめて「競合的」だとわかって、ちょっとがっかりなさるかもしれない。しかし、出発点はそこなんですよ。
自分の「濁り」に気がついていない人は、陰性感情を持ちながら、「そりゃそうですよ。こんなことされたら、誰だって陰性感情を持ちます」と思っている。そうではないんですよ。陰性感情は競合的なライフスタイルがあるから生まれてくる。そこがちゃんと見えるようになると、「競合性を取り除くしかないんだな」とわかってくる。そうして探し始めると、かならず協力的な目標が見つかる。そうなったとき、アドラー心理学的な人間関係を築く可能性が生まれる。逆に、競合的な目標に向かって生きている間は、どんなに工夫しても協力的にはなれない。
ボタンをかけ直す場所はきわめて近所にある。それがわかると、私がイヤミを言っているのではないことがわかる。それがわかるまでは、根気よくライフスタイル診断の技術を学ぶことだ。ある「ひっかかり」さえとれれば、ライフスタイルを協力的に変えることは、けっして難しくないのだから。