同型の変移(2)

 歴史上ある出来事があって、振り返ってみると、ずっとむかしにその発端となる出来事があったように思われる。そのような場合について、先にあった方を《原因》、後で起こった方を《結果》と考えることがある。もちろん、前者と後者の間に物理学的な因果関係は実証できないかもしれない。けれども、人間はそういう「立証」をするのが好きだ。そうしておいてから、ある種の結論を見出す。

 例によって抽象論に陥りそうなので、具体例をあげる。昨日はたまたま木曽義仲がある主張をして覇権をとなえ、やがて滅びた話をした。この主張自身が実は怪しいのだけれど、まあそうであったことにしてみよう。それから何百年かたって、別の武将が同じような感じで覇権をとなえ、同じような感じで滅ぼされた。すると、「木曽義仲の罠」にはまったのだと分析されても、そう不思議ではない。そうなると、「木曽義仲の罠」は、木曽氏だけでなくて、何百年後日の某氏にも同じようになり立っていることがわかる。しかし実は、木曽氏と某氏との間に似ている動きがあって、それを「同じパターン」だと言っているだけで、実際にはそれほど似ていないのかもしれない。「似ている」というのも人間の思い込みであって、そう思うからそう見えるだけのことかもしれない。

 こうして、一方に極端な実在論、すなわち「すべてはわれわれが観察している通りに存在する」という議論、一方に極端な虚無論、すなわち「すべてはわれわれの主観的思い入れであって、われわれの観察結果はそれほどアテにできない」という議論が成りたちうるし、その中間あたりの議論も無数に成り立ちうる。

 で、私はどうなのかというと、極端な実在論者でもないし、極端な虚無論者でもない。また、その真ん中あたりのどれかの折衷論者というわけでもない。要するに、さまざまの因果性が複雑に関係しあっていて、人間はその全体を記述できないと思う。しかも、因果性を記述しないと歴史が読解できないので、なんらかの形で歴史性を仮定する。そうして歴史を見て、そこに「本当の」歴史を読み解く。それは現実のある面を読み解いているかもしれないけれど、決して現実の全体を読み解いているわけではない。