アドラー心理学の理論・思想・技法を誤って用いると、自分を正当化したり他者に対して批判的になったり、さらに臨床上の混乱を招く危険性があります。普及が進む現代において、誤用や悪用に対する正しい理解と警戒が必要です。
アドラー心理学を誤って理解して用いると、そのようになってしまう危険性があります。
野田俊作はアドラー心理学を、便宜上、理論・思想・技法の3つに分類しました。理論とはアドラー以来のアドラー派の心理学者が発展させた、人間行動を理解・説明するための理論体系であり、思想とはアドラーが提唱した哲学、つまり人々の人生の指針となるものであり、技法とはその名の通り治療に用いるテクニックです。この技法に限ってだけは、他派の心理療法の技法との折衷が可能です。大事なことは、この3つをそれぞれ正しく理解し、正しく用いることです。
たとえば「理論」をまるで「思想」のように、つまり人生の指針として用いるとどういうことが起こるでしょうか。つまり、ある行動が理論的に説明できるかどうかで、その行動が正しいかどうかを判断する、という用い方です。しかし、そもそも心理学理論というものは、あらゆる人間の行動を整合的に説明するために考えられたものです。したがって「理論」を自分自身の行動の指針にするなら、自分はいついかなるときでも常に正しいということになりますし、他者の行動の指針にすれば、他者のどんな非道な行いも説明がつくから正しいということになってしまいます。もちろん、どちらの場合も倫理的にたいへん問題があります。これはアドラー心理学だけに起こり得る話ではなく、他派の心理学をそのように用いた場合にも同じ結果となるでしょう。
また、アドラー心理学の「思想」は、他者と競合しようとする生き方は自己執着的で不健康な生き方であり、人々に貢献し他者に協力的であろうとする生き方こそが健康な生き方だとしています。こうしたアドラーの「思想」を中心に据えることによって、アドラー派の治療者はクライアントを健康的な方向に援助することができるのです。しかし、臨床で「思想」を矮小化し「理論」として用いるとどういうことが起こるでしょうか。つまり、「思想」に含まれている価値判断の基準を「科学的でない」「偏っている」と排除し、協力的な目標/競合的な目標などの区別を、単なる性格のタイプ分け程度のものとして扱う、という用い方です。
そうすると、他者と協力して社会を支えていくことなど顧みず、自分が素晴らしいと感じるキラキラした理想の状態ばかりを追いかけたとしても、それはそれで自然な人間的行動だということになってしまいます。自分さえ良ければそれで良い、自分の目標追求を妨げる他者はみな間違っている、という態度さえ是認できてしまいます。もちろんそうしたあり方は、社会常識的に考えて単なる「わがまま」や強欲に他なりません。そして、そのようなクライアントをアドラー心理学の強力な臨床技法で「勇気づけて」いくならば、これまた倫理上たいへん問題があると言わざるを得ません。
さらに、アドラー心理学で用いる様々な「技法」を「アドラー心理学」として紹介するケースも近年目につきます。しかし、「技法」はあくまで「技法」であってアドラー心理学そのものではありません。アドラー心理学は、その掲げる「思想」に向かって、「理論」に基づいた「技法」を使ってこそアドラー心理学といえるのです。ですから、たとえば「課題の分離」や「論理的結末」などの「技法」がまるでアドラー心理学そのもののように伝わると、学習者は混乱してしまうでしょう。また冒頭で述べたように、「技法」は心理学各派の間で折衷的に用いられますが、その場合も、臨床理論に基づくクライアントの分析や、どのような状態を目指して問題を解決していくかといった適切な判断があってこそ効果が発揮できます。一貫した理論と思想に基づかず適当に技法を混ぜて使うことは、厳に慎むべきと考えます。
様々な例を述べましたが、アドラー心理学であれ他の心理学であれ、あるいは他の学問分野であれ、使いみちを間違えて用いれば非常に望ましくない結果を招きます。野田俊作は既に1999年、『負のアドラー』を著して、アドラー心理学の誤用と悪用について大きく警鐘を鳴らしました。アドラー心理学の普及に伴い、残念ながら、今もアドラー心理学の誤用は増え続けているように思います。
