アドラー心理学についてよく見られるご質問と、それぞれへの私たちの見解をQ&A形式で簡単にまとめました。皆さまの率直な疑問にお答えするため、アドラー心理学に批判的なご質問や、誤解に基づくと思われるご質問も、あえてそのまま掲載しています。内容はさらに網羅的に充実させたいと考えております。
なお、各項目についてより踏み込んだ回答をお求めの場合、あるいはより分かりやすい説明をご希望の場合は、よろしければ『AIJアドラー心理学基礎講座』の受講をご検討ください。
基本前提
アドラー心理学とは、個人を「分割できない全体」として捉え、その行動は未来の「目的」に向かって個人が主体的に決定し行うものと考え、個人は仮想の世界に暮らしており、なおかつ社会に組み込まれた存在だとする心理学です。他者と協力し社会(共同体)に貢献することを善とする「共同体感覚」の育成を重視する点が特徴です。
アドラー心理学は、オーストリアの精神科医アルフレッド・アドラー(Alfred Adler, 1870-1937)が創始した心理学です。
人間の行動や心理を理解するにあたり、個人を自ら主体的に動く、分割できない全体として捉え、フロイトの精神分析などが過去の原因を重視するのに対し、アドラー心理学は、未来の目的や目標に向かって個人が現在の行動を決定すると考えます。また個人は主観的に意味づけられた仮想の世界に暮らしており、なおかつ、対人関係や社会に組み込まれた存在であると捉えます。したがって個人の人生における課題も目標もそれぞれ仮想であって、それらは社会的な文脈のなかにあると考えます。
またアドラー心理学は心理学でありながら、他者と争うのではなく協力し合って社会(共同体)に貢献することを善とする「共同体感覚」の育成に向けて、自分自身と他者を勇気づける、哲学的・思想的実践としての側面を持っています。
「個人心理学」とは、その語源(ラテン語の「individuum(分割できないもの)」)が示す通り、人間を心や身体などに分割せず、ある目標に向かって動く「個人」全体として理解しようとする考え方を意味します。
アドラーは自分が創始した心理学の体系を「個人心理学(Individual Psychology)」と呼びました。「individual」とは、ラテン語の「individuum(分割できないもの)」に由来します。これは、人間を心と身体、意識と無意識、理性と感情といったように部分に分けて分析するのではなく、「個人」という、それらが統一体として機能する全体として捉えるという意味です。個人は、自らが設定した目標に向かって、全体として調和を保ちながら自ら動くものであると考えます。このため、個人の行動や感情についてある一部分だけを取り出して評価するのではなく、その人のライフスタイル(目標とそれに向かう手段)や社会的文脈などと関連させ、その人全体として理解しようとします。
アドラー心理学でいう「個人の主体性」とは、人は過去の経験や感情などに支配されるのではなく、それらさえも道具として使いながら、自らの行動や人生の意味づけを「自ら主体的に選択している」という考え方です。
アドラー心理学における「個人の主体性」とは、個人は自らの行動やありかたを自ら決めている、という考え方です。私たちは心や体に使われて動いているのではなく、私たちが、私たちの心や体を主体的に動かしている、と考えるのです。
心理学の中には、感情や病気、過去のトラウマ、子ども時代の出来事、性格、習慣などが人間を動かす、と考える立場をとるものがあります。しかしアドラー心理学は、そのような立場をとりません。そうではなく、私たちが感情やトラウマ、過去の経験、性格、習慣などを「使い」ながら、いつでも主体的に物事を決めているのだと考えます。こうした「個人の主体性」という考え方に基づけば、個人は、自分が決めれば自分自身の性格や、ものの見方や行動パターンも変えることができ、にも関わらず、変えられないと思い込んでいる、あるいは変えられない「ふり」をしている、ということになります。
アドラーは、「我々は人生の主人公である」と述べました。アドラー心理学では、個人は自分自身の人生の脚本家であり、監督であり、主役なのだと考えます。人生で遭遇するできごとが良いことか、悪いことなのかも、運命がそれを決めるのではなく、個人がその人自身の価値観を参照して、良い・悪いと意味づけているのです。また、遭遇したできごとにどう向かい合い、どのように対処するかも個人の主体的な選択に基づくものであり、その結末は、個人自身がいづれかの形で引き受けることとなります。個人の性格についても、ライフスタイルが個人に人生を歩ませるのではなく、個人がライフスタイルを道具として用いて人生を歩むのであり、いわゆるペルソナも、個人がその人自身の目標に向かって主体的に選ぶのだと考えます。したがって、もし個人が変化し成長しようと願い決心するのなら、ライフスタイルそれ自体さえ変えることができるでしょう。
個人はまさに「人生の主人公」として、自らの責任で、かけがえのない自分自身の人生を生きているのです。
アドラーの「目的論」とは、現在の行動は未来の「目的」を達成するために個人が主体的に選んで起こすものだと考えるのに対し、フロイトの「原因論」は、現在の行動は「過去の原因」(トラウマなど)によって決定されるものだと考える点に違いがあります。
アドラー心理学の「目的論」とは、人間の行動や感情は基本的に、過去の原因や環境によって起きるのではなく、何らかの目的を達成しようとするために個人が起こすのだ、と考える立場です。例えば子どもが不適切な行動をする場合、目的論の立場では、過去の出来事や環境が子どもに不適切な行動を行わせると考えるのではなく、その行動には子どもにとって何らかの重要な目的があると考えます。
フロイトの精神分析に代表される「原因論」的心理学では、現在の問題やさまざまな行動を、過去の経験、特に幼少期の経験をめぐる内面的な無意識の葛藤などといった原因によるものととらえます。それに対してアドラー心理学では、「目的論」に基づいて、個人の行動は、個人自身が主体的に選び取った、意識的あるいは無意識的に定めた仮想的目標を達成するための動きである、すなわち、その個人にとっての相対的マイナスから相対的プラスに向かうための運動なのだと強調します。
なおアドラー心理学は、過去の出来事や環境の影響を完全に否定するわけではありません。成長過程における身近な人間との葛藤がライフスタイル形成に影響するなど、過去の出来事の間接的な影響を認めています。また強いストレスへの生理的反応としてPTSD等の急性または慢性的な症状が現れることや、発達障害による行動特性が子どもの行動に様々な傾向性を与えることなどについても然りです。アドラー心理学はそうした先天的、後天的な影響にも充分注意が必要だとしながらも、なおかつ、個人は仮想的目標に向かう個人自身の主体的選択によって一つ一つの行動を決定すると考える、「やわらかい決定論」の立場に立ちます。
アドラー心理学の「全体論」とは、人間を心や身体、理性や感情といった部分の寄せ集めではなく、それらすべてが相互に関連し、ある目標に向かって機能する「分割できない統一体」として捉える考え方です。
アドラー心理学における「全体論」とは、人間を身体の諸組織やそれらの機能、あるいは理性と感情、意識と無意識といった様々な要素の、単なる寄せ集めだとして考えたり、あるいは特定の部分が残りの部分を一方的に統括していると捉えるのではなく、それらが相互に深く関連し合って、分けることのできない有機的な統一体として機能していると捉える考え方です。人間の行動や感情はもちろんのこと、時として身体症状でさえも、その人全体の持つ目標やライフスタイルと切り離して理解することはできないと考えます。
そのため、例えばある人が抱える不安という感情は、その人が無意識的に設定している目標(例:失敗してはいけない、嫌われてはいけない等)と関連して生じことがあると考え、また身体的な不調についても、心理的な問題の表現である可能性を考慮して捉えるのです。このようにして、個人を常に全体として捉えようとするのが、アドラー心理学の基本的な立場です。
なおこれは、身体や精神の不調が、身体に備わった諸器官や諸機構の不調から起こることを否定するものではありません。アドラー心理学は様々な医療分野の知見や、そこで標準治療とされているものを否定する立場にありません。特に身体の調子の異変を自覚した場合は、心の問題を考える前に、まずは早めにかかりつけ医あるいは専門医療機関で受診されることを強くお薦めします。
アドラー心理学では「認知」を、客観的な事実そのものよりも個人の感情や行動を左右する「主観的な解釈や意味づけ」であると捉えます。
アドラー心理学では、人間の感情や行動は、客観的な事実そのものよりも、その人がその事実をどのように主観的に解釈し意味づけするか、つまりその人が持つ仮想、あるいは認知によって大きく左右されると考えます。アドラー心理学ではこれを「仮想論(あるいは認知論)」と呼びます。
例えば、同じ失敗を経験したときに、ある人は「自分はもうダメだ!」と悲観的に捉えるのに対し、別の人は「私は良い教訓を得たようだ」と前向きに捉えるかもしれません。客観的な事実よりも、その出来事に対する個人の意味づけ(仮想、認知)こそが、人のその後の感情や行動を方向づけると考えます。
アドラー心理学のカウンセリングでは、その人独特の思考の筋道(私的論理)やそれに影響している個人の価値観(私的感覚)に気づき、必要に応じてより建設的な捉え方へと変えていくことを援助します。
「認知論」という言葉が固定的な信念を想起させがちなため、主観的な現実は社会的文脈の中で動的に構成されるというアドラー本来の考え方をより正確に表す、彼自身の用語「仮想論」が再び重視されるようになりました。
アドラー自身は “fictionalism” という用語を使用していましたが、「認知論(cognitive theory)」は彼の没後、特にルドルフ・ドライカースらによってアドラー心理学に導入されました。その当時「認知論」という言葉は、アドラーの思想を簡潔に伝える上で分かりやすい面があったのです。ただその反面、個人が不変の「信念」を内面に持っていて、それに基づいて客観世界を解釈し行動している、といったような印象を与えがちでした。
しかし1990年代以降、世の中の学問的潮流はそのような「認知主義」から離れていき、人間を取り巻く世界は私たちの認知や思考との相互作用によって構築されるものであり、なおかつ、私たちの主観的なあり方もまた固定的なものではなく、周囲との関係性の中で絶えず「作り直されていく」、と考えられるようになりました。この点を踏まえてアドラー心理学でも、そもそもアドラー自身が強調していた、個人の主観的現実が社会的文脈の中でダイナミックに構成される、といった側面をあらためて重視するようになったのです。そのため、アドラーが「人は意味づけの世界に生きている」という言い方で述べたこの考え方をどう呼ぶかについても、もともとアドラー自身が使っていた、「仮想論(fictionalism)」という言葉をあてたほうが適切だとする動きが大きくなってきました。
「仮想論」の根底には、ハンス・ファイヒンガーの『かのように』の哲学があります。アドラーはこの影響を受け、人間は客観的な現実そのものではなく、現実に対して自らが与えた「意味づけ(フィクション、仮想)」、すなわち主観的に「こうであるかのように」と捉えた「仮想」の世界に生きていると考えました。この「私的意味づけ」が私たちの行動や感情を方向づけるため、「仮想論」はこの「意味づけの世界に生きる」という人間のあり方を基本前提として捉え直そうとするものです。これに関連して野田は、認識の偏りや誤りを指す従来からの「認知バイアス」という用語についても、人が、自己や世界がどのようである「かのように」振る舞っているか、を捉えるには、アドラーが本来用いた、より能動的な外界把握を意味する「統覚バイアス」という言葉に戻すのがよいと考えていました。
アドラー心理学の「対人関係論」とは、劣等感や人生の課題を含む人間のあらゆる問題や目標は、根本的に対人関係の中に存在すると捉える考え方です。
アドラー心理学では、人間のあらゆる問題は、対人関係の中に存在すると考えます。この考え方を「対人関係論(interpersonal theory)」と呼びます。個人の行動のきっかけとなる劣等感も他者との関わりから生じるものであり、個人が意識的・無意識的に目指している目標も、つきるところ対人関係上の文脈に位置しています。すなわちいかなる人生の課題であれ、個人にとっては対人関係(仕事、交友、愛)の問題に他なりません。したがって、個人の問題を理解し解決するには、その人が他者といったいどのような関係を築いているのか、その人の対人関係における目標は何か、といった観点から取り組むことが重要となります。
なお現在では「対人関係論」は、アドラー心理学の理論的枠組みをアドラー自身の言葉に立ち返り、より俯瞰的かつ現代的な視点から再構築しようとする動きの一環として、「社会統合論(social embeddedness)」と呼ばれるようになりました。
「対人関係論」は二者間の分析に偏り、個人を「社会全体に組み込まれた」存在とするアドラー本来の視点を過度に単純化する懸念があったため、その思想の深さと広がりをより適切に反映する「社会統合論」が使われるようになりました。
アドラーは人間を社会的な存在、すなわち社会の中に位置づけられてこそ、その人の行動に意味が得られるものであるとする、”Social Embeddedness” を強調しました。しかしながらアドラーの没後、この概念を示すものとして、特にアメリカの臨床心理学の文脈でルドルフ・ドライカースらにより導入・強調された「対人関係論」は、親子関係や教育場面など二者間の相互作用の分析には有効かつ実践的であったものの、アドラーが本来意図していた、個人をより広範な「社会全体に組み込まれている」存在とする視点や、社会という複雑なネットワークの中で個人が相互に多様な影響を与え合う側面が、過度に単純化される懸念がみられました。
「社会統合論」は、個人を対人関係の中で行動するものと考えるだけでなく、アドラーが唱えていたように、社会(共同体)に「組み込まれた」存在として捉え直します。個人は家族など身近な共同体や、さらに広範な社会の「雰囲気」や価値観に様々な仕方で関わりながら、自分自身と世界がいったいどのようであるかという意味づけをし、そうした意味づけに基づいて自らの行動の目的を定めます。すなわち個人は社会のなかで、社会の様々な文脈を主体的に用いて、判断をし行動するのです。
したがって個人の思考、感情、行動とそれらの目的は、孤立して静的に存在するのではなく、もちろん環境によって一方的に定まるわけでもなく、社会の文脈とそれに対する個人の決断に応じた動的な意味づけに基づいて成り立っています。この視点は個人のあり方を、相互の葛藤まで含めて一層的確に説明するとともに、その行動を家族など直接の対人関係だけでなく、地域社会や文化など、より複雑な社会的ネットワークのなかで捉えることを可能にします。その意味において「社会統合論」は、アドラーの思想本来の深さと広がりを、より適切に反映したものということができるのです。
「社会統合論」は、個人のあり方が社会との関係性の中でダイナミックに形成されると捉える点で、人間の認識や現実は社会的な相互作用や文脈の中で「構築される」と考える現代の「構築主義」とも親和性を持ちます。さらに、個人の社会(共同体)への所属のあり方を説明する点で「共同体感覚(Gemeinschaftsgefühl)」の理論的基盤にも深く関連するといえます。ただし後者に関しては、「社会統合論」が基本前提すなわちアドラー心理学理論に位置するのに対して、「共同体感覚」は「人はこう生きるべきだ」とするアドラーの哲学・思想に位置づけられる点には注意されねばなりません。
主要概念
「共同体感覚」とは、「自分は社会(共同体)に所属しており、人々は仲間であり、自分は人々に貢献できる」という感覚のことで、他者と協力して幸福に生きるための最も重要な指標であり、アドラー心理学の究極的な目標であるため重視されます。
「共同体感覚」(独: Gemeinschaftsgefühl、英: Community Feeling / Social Interest)は、アドラー心理学における中心概念であり、個人の精神的な健康の最も重要な指標とされています。これは、「自分は社会(共同体)に所属しており、人々は仲間であり、自分は人々に貢献できる」という感覚を指します。
人間は『より良く生きたい』と願います。しかし、そこで自分一人の成功を目指すのではなく、「他者の目で見、他者の耳で聞き、他者の心で感じ」他者と協力し合いながら、社会の中で実際に自分の負うべき役割を果たし、『みんなのしあわせ』へと向かってこそ生きる意味が見つかってゆきます。
「共同体感覚」とはこうしたアドラー心理学の考え方を示す言葉であり、野田俊作はこれをわかりやすく、「『これはみんなにとってどういうことだろう。みんながしあわせになるために私はなにをすればいいだろう』と考えること」と表現しました。
後述の「勇気づけ」は、この「共同体感覚」の育成を目的とする働きかけです。共同体感覚が育まれると、困難な状況に直面した際も、共同体感覚に基づいて判断することで、より広い視点から物事を捉え、建設的な解決策を見出しやすくなります。アドラー心理学の究極的な目標は、いっそう多くの人々が共同体感覚を成熟させ、調和のとれた社会をともに営み幸福な人生を送れるよう援助することにあります。
共同体感覚を持つためには、他者を尊敬・信頼することを基本とし、『これはみんなにとってどういうことだろう。みんながしあわせになるために私はなにをすればいいだろう』という視点で考えて、日々のささやかな貢献を地道に積み重ねていくことが大切です。
共同体感覚の育成とは、どのようにすれば社会(共同体)に貢献できるかについて、その判断の仕方と実際の行動を実践的に学び、身につけていくことを意味します。共同体とは、家族であろうともっと大きなスケールの社会であろうと、そこへ所属する人々の、様々な貢献によって支えられています。人々を互いに結びつける他者への尊敬と信頼を基本とした、様々な有益な行為の積み重ねによって、たとえば勇気や慈愛に満ちた行動や、経験と知恵に基づいた洞察、謙虚で誠実な話し合い、広い視野に立った判断などで、共同体は成り立っています。したがって、共同体への貢献の仕方を学ぶということは、そうした倫理的・道徳的ともいえる行動を、日々の実践を通じて自分のものにしていくことに他なりません。
まず普段からの心がけとして、他者を尊敬し信頼することが基本です。そして日々遭遇するひとつひとつの物事について、『これはみんなにとってどういうことだろう。みんながしあわせになるために私はなにをすればいいだろう』といった観点から考えることが大切です。ここで『みんな』というのは抽象的な何かではなく、自分自身と身近な人々を含む、具体的な『みんな』のことであり、しかも、より広い世の中まで、さらには社会全体や後の世代の人々までもが含まれます。個々の『みんな』が関わり合い結びついて広く世の中をかたち作っているのですから、特定の『みんな』を大切にするためには、その人々が所属する、より大きな社会も大切にしなくてはなりません。日々の子育てや親孝行のなかで、あるいは職場や学校の仲間や、地元や他の場所で出会った様々な人々との関係のなかで、ささやかなことからで構わないので、「みんなが幸せになるために私にできること」を実行していきます。そうした地道な積み重ねこそが、共同体感覚の育成へとつながっていくのです。
なお、こうしたことを心がけて暮らすことは、あくまでも自分自身が決心して自分自身が行うことであって、決して他者に強いることではありません。他者にこれを強いれば、それは「共同体感覚」を育成することとは、正反対の生き方になってしまいます。
アドラー心理学でいう「劣等感」とは、「自分は他者よりも価値がない」という思い込み・感覚だけを指しているのではなく、その人が理想とする状態とは違う現実に遭遇したときに起きる感覚も指しています。アドラー心理学では前者を後天的に意味づけられた幻想であり、人々を終わりのない「優越性の追求」という不毛な努力へ駆り立てる原動力になるものと捉えます。
アドラー心理学における最も重要な概念は「共同体感覚」ですが、有名であるという点では「劣等感」が一番かも知れません。
アドラーは「劣等感」を、「不完全である成就していないという感覚」と述べました。ドイツ語での原語「Minderwertigkeit」は、字義通りに訳せば「価値がより少ない感じ」となります。すなわち、アドラー心理学における「劣等感」とは、一般に言われる「自分は他者よりも価値が少ない」という思い込み・感覚だけでなく、もう少し広く、その人が理想とする状態とは違う現実に遭遇したときに起きる感覚も指しています。しかしながらこの言葉は、現代のような競合的な社会では、もっぱら前者のような「人に比べて自分は○○の点で劣っている(から自分には価値がない)」といった意味合いで使われています。ご質問はこの、世の中でいう「劣等感」についてと思われますので、そちらについてお答えさせていただきます。
人間の赤ちゃんはきっと、はじめは自分と他者の優劣を比較しない「平等」な世界のなかで、安心して生きているのでしょう。しかし子どもは成長し言葉を覚え、社会生活を送る中で、まるで当たり前のように、「自分は他者よりも価値が少ない」という思い込み・感覚を持ち続けるようになります。これについてアドラー派の心理学者は、次のようなプロセスによるものと指摘しています。
- 「区別」の学習:優れたものと劣ったものの「区別」を学ぶ。
- 「勇気くじき」:親や教師から「それじゃダメ」「なんでできないの?」といった言葉をかけられること(勇気くじき)で、「自分は他者より劣っている存在だ」と思い込む。
人は、他者に対して「私はこういう点で劣っている」という劣等感(相対的マイナス)を抱くと、世界への所属感や安心感といった、「平等の位置」にいる感覚を失ってしまいます。そこで失った感覚を取り戻すために、世界(社会)に所属するためには「私はこうでなければならない」(例:「人の上に立たなければならない」「人に好かれなければならない」)といった、その人にとって自分の理想状態である「優越目標(相対的プラス)」を立てて、その目標を達成するための行動を起こすことで「劣等感を補償」しようとします。アドラー心理学ではこのように、人間の行動を、相対的マイナスから相対的プラスに向かう目標追求として捉えます。
しかしながら、そうした劣等感をずっと持ち続けていると、上記のような目標も、どれだけ追いかけても決して到達できない地平線のように逃げていってしまいます。そのため人は、常に不安を抱え、緊張し、努力し続けなければならない状態に陥ります。つまり一般にいわれる劣等感というものは、後天的に意味づけられた「自分には価値がない」という幻想であり、人々を終わりのない「優越性の追求」という不毛な努力へ駆り立てる原動力になるものと捉えることができます。
「劣等コンプレックス」とは劣等感を言い訳にして人生の課題から逃げる状態を指し、「優越コンプレックス」とはその劣等感を隠すために自分が優れているかのように振る舞う、劣等感の裏返しである状態を指します。
アドラー心理学における「劣等コンプレックス」とは、人が自分の持つ「劣等感」を、人生の課題から逃れるための口実として利用している状態を指します。これは、困難に対して建設的に取り組むことを避けている自分を、正当化するための自己欺瞞に他なりません。このような嘘の目的は、自分の現状維持がたとえ失敗を招いたとしても、その責任を自分以外のものに転嫁することにあります。この「劣等コンプレックス」は、過度に「心の傷」や被害者意識などを訴えることで周囲の同情を引いたり、相手を感情的に支配するための手段として使われることもあります。
では、人はどのようにして「劣等コンプレックス」を使うに至るのでしょうか。誰しも、生まれながらにして「自分は劣っているに違いない」と感じているわけではありません。したがって人は成長の過程で、家庭や学校、社会などでの様々な要因の影響により、劣等感を持つようになると考えられます。子どもは言葉を覚えるにつれて、物事の「違い」を「優劣」として区別し始めます。その際に、親や教師が「どうしてできないの?」「もっと頑張らないとダメ」といった、本人への否定的な言葉(アドラー心理学で言う「勇気くじき」)を投げかけると、子どもは「自分は人として劣っている」という、いわゆる劣等感を抱くようになります。この「劣等感」を、自分の課題に向き合うのを避けるための理由として使うことを、「劣等コンプレックス」といいます。たとえば、「私は頭が悪いから/身体が弱いから/不器用だから、~~をやらなくていいんだ。誰かにやってもらおう」と、劣等感を理由に課題から逃れることはこれにあたります。
この「自分は人として劣っている」という感覚は、客観的な事実ではなく、作られた思い込み(フィクション)です。しかし、この劣等感から逃れるために、人は「優越の位置」という架空の目標を立て、それに向かって努力を始めます。この「劣等の位置から優越の位置へ」という動きそのものが、ライフスタイルの基本構造となります。この動きは当初の意図としては前向きといえますが、しかし幼い頃の思い込みに基づく行動ですから、多くの場合、初めからピントのずれた努力に陥りがちです。
およそ人が持てるものは何であろうと、身体的な特徴(器官劣等性)、性別、生まれ育ち、経済状況、さらには家族や上司といった人間関係まで、本人が「劣等感」をもちさえすれば、ありとあらゆるものがこの劣等コンプレックスの材料となり得ます。たとえば現代社会のように「老い」がネガティブなものと捉えられる社会においては、高齢者が大きな「劣等感」を抱えやすい状況にあるため、「老い」が劣等コンプレックスとして使われることにつながりやすくなります。
アドラー心理学では、いわゆる「神経症」というのは、人が劣等コンプレックスを、人生をやっていくための主要な手段として用いている状態だと考えます。神経症的な人は休みなく劣等コンプレックスを実践しており、自分が作り出した口実に完全に騙されている状態にあります。アドラーはこの状態を「犬が自分の尻尾を追いかけてぐるぐる回っている」と表現しました。この自己欺瞞のサイクルに囚われている限り、人生の問題の真の解決には至りません。
劣等コンプレックスから抜け出すためには、まず、その自己欺瞞の輪から外へ出なくてはなりません。そのための一歩として、次のようなものが考えられます。
- 共同体への貢献
他者や社会に貢献すること(それらにプラスになることを始めること)は、内向きの関心を外に向け、自己欺瞞のサイクルを断ち切ります。 - 「劣等」という幻想に気づく
私たちが抱くいわゆる「劣等感」は、実は社会全体が共有する壮大な誤解に過ぎないのかもしれず、客観的な事実ではありません。 - 「勇気づけ」
「勇気づけ」は、人が自分の人生を自分の責任で生きる選択をするためのはたらきかけです。たとえば、子どもが貢献してくれたことに感謝を感じたなら、「お手伝いありがとう」「あなたがいると助かる」といった言葉を伝えてみることができます。こうしたことによって、子どもは、自分は他者の役に立つ存在であると感じることができ、そこから、自分の力を他者のために使う勇気を持つことができます。
つまり、人としての優劣という幻想の物差しから降り、他者と対等な立場で協力関係を築いていくことが、劣等コンプレックスを克服する道となるのです。
一方、「優越コンプレックス」は、劣等感の補償の一つの方法として、あたかも自分が優れているかのように振る舞う状態です。自慢話を繰り返したり、他者を見下したり、権威を誇示したりする行動がこれにあたります。野田は「優越コンプレックスは結局、劣等コンプレックスと同じ」と言っていました。優越コンプレックスは、「自分は優れているんだ。だから、~~をしなくていいんだ」という自己欺瞞的な私的論理として現れます。これも、他者との調和を欠き、対人関係の摩擦を生じやすいあり方といえます。また「優越コンプレックス」は、対人関係において片方が相手への劣等感を過補償し、それに対して相手がさらに大きな劣等感を持ち、それを過補償し、といったように繰り返されていくことで、両者の争いが際限なく拡大する原因でもあります。
アドラー心理学における「補償」とは、人間が持つ劣等感を克服し、より完全な状態を目指そうとする努力や行動のことです。
アドラー心理学における「補償」とは、人間が持つ劣等感を克服し、より完全な状態を目指そうとする努力や行動のことです。例えば、身体的に虚弱だった人が熱心に運動して健康な身体を手に入れたり、ある分野でうまくいかなかった人が別の分野で成功を収めようと努力したりすることが補償にあたります。アドラー自身も幼少期にくる病を患い、弟の死を経験したことなどから劣等感を抱きましたが、それを契機に医学を志し、偉大な心理学者となりました。補償は人間の成長と発展に不可欠なプロセスであり、建設的な形で行われる限りにおいて、人生を豊かにする力となります。ただし、補償の方向性や手段が適切でなければ、個人にとって、あるいは共同体にとって破壊的な結末に至ることもあります。
なお、アドラーが器官劣等性と補償について書いたのは1907年と比較的初期であり、そのため、これらの考え方には原因論的に捉えられる余地がわずかに残っている、と指摘することができます。
アドラー心理学の「ライフスタイル」とは「性格」や「人格」にあたるもので、遺伝や環境に一方的に決定されるのではなく、子ども自身が家庭環境やきょうだい関係に影響を受けながら、試行錯誤や模倣などを通じて主体的に「選択」して形成するものです。
「ライフスタイル」とは、一般的に使われる「性格」や「人格」に相当する、アドラー心理学の中心的な概念です。アドラーが「性格」や「人格」という言葉を使わなかったのは、「性格」という言葉が持つ遺伝がその人のすべてを決定するようなニュアンスと、「人格」が持つ、逆に遺伝的要因を軽視しすぎるニュアンスの両方を避けるためでした。アドラー心理学では、ライフスタイルは遺伝や環境に影響はされるものの、それらによって一方的に決定されるわけではないと考えます。この独自の立場を明確にするために、「ライフスタイル」という言葉が選ばれました。
ライフスタイルの形成過程についてですが、ライフスタイル形成における最も重要な原則は、子ども自身が主体的な「選択」によってライフスタイルを選び取る、という点です。子どもは以下の3つの方法を通じて世界を学び、自らの生き方(ライフスタイル)を能動的に構築していきます。
- 試行錯誤:様々な行動を試し、その結果(親やきょうだいに受け入れられたか、願いが叶ったかなど)から、うまくいく方法を法則として自ら発見します。
- モデル(模倣):親やきょうだい、物語の登場人物など、他者の行動を真似ることで学びます。
- 言葉:親や教師から話を聞いたり、本を読んだりして、言語を通じて学びます。
いずれの方法においても、子どもは教えられたことをそのまま受け入れるのではなく、自分が学びたいことを選び取って、自身のライフスタイルを形作っていきます。子どもがライフスタイルを「選択」する上で、特に大きな影響を与えるのが「家庭環境」と「きょうだい関係」です。
「家庭」は通常、人が生まれて初めて所属する社会であり、人間として育つための最も基礎的な共同体です。「家庭環境」の中では親の持つ価値観「家族の価値」と、その価値観を実現する方法である「家族の雰囲気」が、子どものライフスタイル形成に影響を及ぼすものとしてアドラー心理学では重要視されます。
「きょうだい関係」ですが、アドラーは、親よりもきょうだいの影響を重視しました。なぜなら、いってみれば親は獲得すべき「賞品」であるのに対し、きょうだいは同じ賞品を奪い合う「競争相手」に位置し、生き方の作戦(ライフスタイル)を立てる上で、より決定的な影響を与えるからです。アドラーによると、誕生順位によって以下のような典型的な傾向が見られるとされます。
- 長子:親の愛情を独占した後に王座を奪われる経験から、賢さや能力を誇示する、あるいは乱暴になるといった作戦をとる傾向があります。
- 中間子:注目を独占した経験がなく、家の中より外に活路を見出したり、人間関係の中で自分の位置を確保するために工夫を凝らしたりします。
- 末子:常に年長者に囲まれ、可愛がられる術を身につけますが、主体性に欠ける可能性があります。
- 単独子:末子に似ていますが、競争相手がいないため、許される範囲の「限界」を知らない傾向があります。
ただし、こうした誕生順位によるライフスタイルの傾向は、単に一つの例であって、可能性にすぎないものです。個人のライフスタイルはその人独特のものであるが故に、誕生順位以外の様々な情報を知ることによって、はじめて個人のライフスタイルを理解することができるのだとアドラー自身が述べています。
たとえば、性別やきょうだい間の年齢差、個々の子どもが利用可能なリソースによってもまったく違ってきます。
また、家庭以外でライフスタイルに影響を及ぼす要因としては、学校や、その他ライフスタイル形成期に子どもが所属する集団や、子どもが接する様々な情報(メデイア、出版物、インターネットなど)も、ライフスタイル形成に影響を与える要因となります。
「私的感覚」とは、出来事に対して「良い(プラス)」「悪い(マイナス)」を瞬時に判断する個人独自の無意識的な価値判断であり、これが個々のエピソードにおける表層的な反応(私的論理)を生み出すのに対し、「ライフスタイル」は、複数のエピソードに共通するその人固有の「私的感覚(=私的意味づけ)」の背後にある、パーソナリティ全体を貫く根源的な思考・行動パターン(深層構造)を指します。
「私的感覚(Private Sense)」は、価値判断です。これは、ある出来事や状況に直面した際に、「何が良いこと(プラス)で、何が悪いこと(マイナス)か」を瞬時に判断する、個人の行動の背後にある「黒幕」のようなものです。
私的感覚は、具体的な出来事の中で次のように機能します。
- ある出来事が起こると、人は無意識に自分の「私的感覚」に照らし合わせます。
- その出来事が理想から外れている(マイナス)と判断されると、「劣等感」が生じます。これは「他人より劣っている」という意味ではなく、「自分の理想とはちがう現実が起きている」ことを指す感覚です。
- この劣等感は具体的には、不安、怒り、後悔などといった「陰性感情」として感じられます。
- そして人は、その理想と違う状況を解決し、理想状態(プラス)に近づけるために「対処行動」を起こします。
そのため、ある人の「私的感覚」を理解するためには、まず具体的な「エピソード(一回限りの出来事)」の分析から始めます。そのエピソードにおいて陰性感情が最も強いところや、あるいはエピソードの中で初めて陰性感情が出たところ、続いていた陰性感情が急に強まったところなど、「そのエピソードが一番ドラマティックに展開をみせたところ」を起点に、以下の3つの要素を分析します。
- ライフタスク (Lifetask / LT):
その「対処行動」を取らなければならなかった、困った現実のこと。私的感覚のマイナス面に触れた出来事。この現実に出会った時、人は「劣等感」(理想と現実のギャップ)を感じます。具体的には陰性感情(不安、怒り、後悔など)として感じられます。 - 対処行動 (Coping Behavior / CB):
問題を解決するために、その人が具体的に取った行動のこと。 - 仮想的目標 (Fictional Goal / FG):
その「対処行動」の結果として起きることが期待されている理想的な状態のこと。上述の「ライフタスク」が理想的に解決したイメージで、私的感覚のプラス面が現れたもの。その人が「こうなれば素晴らしい」と考える、キラキラした理想状態のイメージ。
「ライフタスク」と「仮想的目標」は、「私的感覚」という一つの価値判断から生まれています。そして「ライフタスク」という「相対的マイナス」から、「仮想的目標」という「相対的プラス」に向かっての「補償」が「対処行動」です。つまり個人は、私的感覚のマイナス面からあることがらを「ライフタスク」だと認識して「劣等感」、具体的には「陰性感情」を感じ、それを「補償」するために私的感覚のプラス面が示す理想状態を「仮想的目標」として「対処行動」を行う、と考えます。
そして、私的感覚から生まれる「仮想的目標」は、以下の2種類に分けられます。
- 競合的な目標:
相手と自分を比べ、優劣や善悪などを決めようとする目標。これは相手を「劣っている」「間違っている」と裁くことになるため、対立を生みやすくなります。 - 協力的な目標:
相手と一緒に問題を解決しようとする目標。
人間関係のトラブルは、多くの場合、私的感覚に照らして設定する仮想的目標のうち「競合的な目標」に向かって行動を起こそうとすることで生じます。その場合、解決のためには、仮想的目標を「協力的な目標」へと作り直す必要があります。
次に「私的感覚」と「ライフスタイル」の関係ですが、「ライフスタイル」とは、個人の人生を貫く、より根源的な思考・行動パターンのことです。アドラー心理学ではある個人が出来事に出会った際に持つ、「この出来事は私的感覚に照らすと『ライフタスク』だ。私的感覚が示す『仮想的目標』を実現するために、これこれの『対処行動』をしよう」といったような考え方の流れを「私的論理」と呼んでいますが、これが個別のエピソードにおける表層的な反応パターン(表層構造)だとすれば、「ライフスタイル」はその背後にある深層構造といえます。また、ある個人の複数のエピソードで共通して働いている「私的感覚」を「私的意味づけ」と呼びますが、その「私的意味づけ」を参照して、様々なエピソードで共通して動いている「私は~~だ。私は○○でなければならない。だから私はこれこれの行動をしよう。」というその人独特の論理を「ライフスタイル」と呼びます。
| レベル | 価値判断の体系 | 考え方の流れ |
|---|---|---|
| 表層(個別のエピソード) | 私的感覚 (Private Sense) | 私的論理 (Private Logic) |
| 深層(パーソナリティ全体) | 私的意味づけ (Private meaning) | ライフスタイル (Lifestyle) |
「私的感覚」と「ライフスタイル」は以上のような関係にあります。
なお、ライフスタイルを分析する上で有用な素材となるのが、「早期回想(子ども時代のエピソード)」です。早期回想を分析する主な理由は以下の2つです。
- 現在のエピソードと、時間的に遠く離れた子ども時代の思い出に共通のパターン(私的感覚、私的論理)が見つかれば、それは一時的なものではなく、その人の人生全体を貫く「ライフスタイル」である可能性が高まります。
- 人がわざわざ記憶し続けている数少ない子ども時代の思い出には、「この世とはこういうものだ」「自分はこういう人間だ」といった、自分自身、他者、世界に対するその人の根本的な意味づけ(「私的意味づけ」)や、「このようにしたらうまくいった」「こうすると失敗する」など、その人が、優越目標(優越の位置の私的意味づけ)を達成するための手段や教訓がよりシンプルに表されていると考えられます。
早期回想の分析方法は、さまざまです。現在のエピソードの分析と同じようにする事もありますが、通常はいくつかの早期回想を素材にして、セラピストとクライエントが対話を通じて、それらの早期回想に共通する「構造」つまり「劣等の位置の私的意味づけ」「優越目標(=優越の位置の私的意味づけ」、「優越目標を達成するために採っている手段」を言語化していきます。「私的意味づけ」と「優越目標を達成する手段」の両方でもって「ライフスタイル」を表します。
「私的意味づけ」は価値観なので、変えることはむずかしいものです。アドラー心理学の心理療法(ライフスタイル分析)では、クライエントの「私的意味づけ」を変えるのではなく、優越目標を達成するための手段について、子ども時代に選択したものよりもより共同体に貢献的なものが選択できるよう勇気づけます。また、時には自分の優越目標を達成すること、つまり「私(だけ)が幸せになること」を、ほんの少しだけ棚上げにして、「みんなが幸せになるために私にできること」を実行できるよう勇気づけます。
野田は、「普通に社会生活を送っている人は、ライフスタイルを変化させるためにわざわざライフスタイル分析を受ける必要はない」と述べました。ではどうすればいいかというと、「エピソード分析」をして、次の3つのステップを繰り返す事で、ライフスタイルは自然に変化する、ということです。
- 理解 (Understand):
エピソード分析を通じて、自分の「私的感覚」や「私的論理」のパターンを言葉にし、「私はいつもこうやって失敗しているな」と理解する。 - 行動 (Act):
理解に基づいて、より協力的な目標や、より適切な対処行動を意識的に試してみる。 - 成功 (Succeed):
新しい行動によって、実際に関係がうまくいくという成功体験を積む。
この「理解→行動→成功」のサイクルが学習となって働き、個々の「私的感覚」がより協力的なものに変化することで、最終的には「ライフスタイル」そのものがより協力的な方向へ変化していくと考えられます。
ただし、これは自分ひとりで行えることではなく、周囲の協力と本人の努力があわさって、初めて可能となるものです。つまり、これは個人の成長過程であるとともに、個人が共同体に参加し、周囲と相互に貢献しあっていく過程でもあるのです。
「私的論理」が個人の独自の価値観(私的感覚)に基づく主観的な思考の筋道であるのに対し、「共通感覚」は社会や共同体で共有される、いわゆる常識という価値観(私的感覚と対応するもの)を指します。
「私的論理」とは、個人が独自の価値観、思い込みに基づいて、自分自身や世界、他者について認識し、さらに相対的マイナスから相対的プラスへ向かって行動を選ぶ際の、その考え方の筋道(論理)のことです。人は私的論理の大前提となっている、その個人特有の価値観つまり私的感覚から、「わるい」状況と判断されるライフタスクを劣等感をともないながら認識するとともに、それに対する「よい」状態といえる仮想的目標を導き出して、この目標を達成するための対処行動を選択決定します。以上の過程での思考の筋道を、「私的論理」と呼びます。多くの場合、私的論理による結論は個人的には「正しい」判断だと思われていますが、必ずしも客観的・普遍的な妥当性を持つわけではありません。
一方、「共通感覚(コモン・センス)」とは、ある社会や共同体の中で広く共有されている考え方や価値観、つまり、いわゆる常識を指し、個人特有の価値観を指す「私的感覚」と対応関係にあります。私的感覚が共通感覚から大きく逸脱している場合、対人関係の困難や不適応が生じやすいと考えられますが、ただし共通感覚もまた、共同体内で多数説であるからといって、必ずしも正しいとは限りません。歴史にみられるように、共同体全体が誤った考えにとらわれていることもあるのです。そこでアドラー心理学では、「共通感覚」は人々の暮らしの中でたえず再検討されなければならないと考えており、より大きな共同体にも有益かどうかを問う「共同体感覚」をより重視します。そして「共通感覚」であって「共同体感覚」にも沿うものを、子どもたちに伝えていくべきだと考えています。
アドラー心理学における「人生の課題(ライフタスク)」とは、人間が社会的な存在として生きていく上で直面せざるを得ず、個人の精神的健康や生き方(ライフスタイル)と深く結びついている「仕事」「交友」「愛」という3つの対人関係の課題を指します。
アドラー心理学における「ライフタスク」とは、人間が社会的な存在として生きていく上で、直面せざるを得ない「課題」を指します。タスクといっても、仕事などでよく用いられる「やるべきことのリスト」のことではなく、個人の精神的な健康や幸福、そしてその人の生き方そのもの(ライフスタイル)と深く結びついた、包括的な概念です。
アルフレッド・アドラー自身が明確に提唱したのは、以下の三つのライフタスクです。このどれもが対人関係であることは、とても重要な点といえます。またこの分類は、主として関係の継続性に基づいています。
- 仕事のタスク:生計を立てるための職業活動、学業、家事など、生産性に関わるあらゆる活動を指します。社会の一員として貢献し、自分の居場所を確保するための基本的な課題です。
- 交友のタスク:友人関係や地域社会との関わりなど、恋愛や家族関係以外のより広い対人関係を指します。他者と協力し、社会的なつながりを築く能力が問われます。
- 愛のタスク:パートナーシップや親子関係といった、最も親密な対人関係を指します。ライフタスクの中で最も困難なものとされ、深いレベルでの信頼と貢献が求められます。
これらのタスクは実生活では、現実と、本人が理想とする状態(仮想的目標)とのギャップとして現れます。そのため「課題」として認識される際に、「劣等感」、具体的には不安、怒り、後悔などといった陰性感情を伴うことが一般的です。
これらの課題にどのように取り組み、そこで他者とどのように協力していけるかは、その人の人生のあり方と不可分といえます。アドラー心理学のカウンセリングでは、個人がこれらの課題にどう向き合い、困難を乗り越えていくか、について話し合います。また、必要に応じてその人の「ライフスタイル」を分析し、より根源的な解決策を見出すことを目指します。
なお、これらに加えて、アドラー派の論者によっては「自己との課題」「スピリチュアルな課題」などを加えることもあります(ハロルド・モザックによる提唱)。
アドラー心理学の「課題の分離」とは、ある課題の結末が最終的に誰にふりかかるかという観点から、その課題が「本来誰の課題か」を判断する考え方であり、他者が本人の課題に介入したり、本来は自分の課題であるものを他者に「肩代わり」させることを防ぐとともに、必要に応じて「共同の課題」として協力し合うための準備段階として重要になります。
アドラー心理学では、共同体のメンバーが人生の課題に遭遇したときに、その課題に責任をもつ本人が対処するのに加えて、必要に応じてその課題を共同体における「共同の課題」としてとらえ、他のメンバーも協力してそれに対処しようと考えます。しかし、そうした分担を的確に行うためには、共同体のメンバーの間で、その課題が誰のどのような課題であるかについて、あらかじめ明らかでなくてはなりません。
実は、それを明らかにする作業こそが、いわゆる「課題の分離」なのです。「課題の分離」とは、共同の課題を作るための準備段階として、その課題に関する結末が最終的にふりかかるのは誰か、という観点から、その課題が本来誰の課題であるかを判断するものです。
例えば、「子どもが勉強するかどうか」という課題は、本来は子ども自身の課題であるはずです。なぜならば、子どもが勉強するにせよしないにせよ、それによって左右されるのは、他ならぬ子ども自身の将来だからです。だとすると、宿題をしないことで親自身が感じる不安を解消したいなどの理由で、子どもの考えを聞いたり話し合ったりせずに、ひたすら叱責して宿題をやらせようとしたり、勉強の仕方に一方的に口を出したりすることは、子どもの課題に勝手に介入することになったり、親自身の課題である「子どもの勉強に対する不安」を解消するために、子どもに「課題の肩代わり」をさせることになると考えます。たとえもしそれで子どもの成績は伸びたとしてもそれは、子ども自身にとって本当の意味での成長につながるでしょうか?
「課題の分離」をせずに、子どもの課題に勝手に介入することは、自分のなすべきことを自分でやりとげる、あるいは誰かと協力してやりとげるという貴重な機会を子どもから奪ってしまうことに他なりません。そのため、課題への対処を子ども自身に任せる場合も、あるいはすべて子どもだけに任せず、共同の課題にする場合にも、あらかじめそれらについて、子どもとよく話し合わなければなりません。子どもがその課題についてどのように考えているのか、なにか助力を必要としているか、などについてまずは子どもの話をよく聴き、子どもがしてほしいことで親ができそうなことを具体的に親子で話し合って決めていくのです。
なお、こうして課題について話し合いをした後も、常に子どもを見守って、場合によっては共同の課題を作り直す、という作業が必要となります。一度課題を分離したらもうそれっきりで、「あなたの課題だから」と終わりにしてしまうのなら、それでは単なる無責任な放任育児であって、アドラー心理学とはいえません。
ちなみに課題の分離について、アドラー心理学でもっとも重要な技法だと紹介されることがあるようですが、それは誤りです。たしかに重要ですが、最重要ではありません。それよりも大事なのは、課題を分離した後の共同の課題をつくる過程であり、さらに大事なのは、そうして課題を分担し合い、協力しあってともに幸せに暮らすこと、そしてそのように育った人々が増えていくことで、次第にこの世の中が暮らしやすい世の中に変わっていくことです。大袈裟なようですが、それがアドラーの思い描いた人類の未来なのです。
アドラー心理学の「勇気づけ」とは、単なる「褒め言葉」のような小手先のテクニックではなく、尊敬に基づいた対等な「横の関係」から、相手が共同体感覚を持って協力的に生きられるよう働きかける、包括的な哲学であり生き方そのものです。
「勇気づけ」とは、相手がより共同体感覚に基づく生き方、暮らし方ができるように働きかけること、と、アドラー心理学では考えます。ある働きかけが実際に相手において、人々とお互いに協力しあって幸福に暮らしていく勇気に結びついてこそ、その働きかけを「勇気づけ」と呼ぶことができるのです。
「勇気づけ」は、まず働きかける側が自分から、人々との競合的な構えを抜けて協力的に暮らす決心をすること、あるいは「縦の関係」を抜けて「横の関係」で生きる決心をすることから始まります。なぜならば、一方的な働きかけでもなければ他人事でもない、ともに貢献し合う仲間同士としての働きかけであってこそ、相手を勇気づけることができるからです。
「勇気づけ」の技法としては、「子ども(相手)の話を聴く」ことや「お願い口調」という話の仕方、「課題の分離」、あるいは貢献や協力に注目する、過程を重視する、すでに達成できている成果を指摘する、失敗をも受け入れる、個人の成長を重視する、相手に判断をゆだねる、肯定的な表現を使う、「私メッセージ」を使う、「意見言葉」を使う、感謝し共感する、といったように様々なものがありますが、このどれもが現実の対人関係の中での、心からの相手への働きかけであることをけっして忘れてはなりません。これらは、単に言葉をなぞっただけの形だけのものになってしまえば、一見うまくいったように見えてもただ単に相手の気分をよくするだけのことにとどまり、本当の意味での勇気づけにはならないことがあります。また、相手を支配しよう、つまり、相手を自分の思うとおりに動かそうとしてこれらの技法を使うならば、勇気づけどころか逆に「勇気くじき」になってしまい、かえって相手との関係を悪くするなど逆効果になることも少なくないのです。
すなわち「勇気づけ」とは、いわゆる「声がけ」や褒め言葉といったような小手先のテクニックなどではなく、人間への深い尊敬に基づいた包括的な哲学であり、生き方そのものといっても過言ではありません。「勇気づけ」の実践は、言葉への感性を磨き、対話のプロセスを大切にし、自らの感情をコントロールし、相手の貢献を信じてその機会を作り出す、たゆまぬ日々の心がけと努力の中にあります。それは、相手と私たち自身の人生を豊かにする、生涯をかけた学びの道程なのです。
アドラー心理学では「勇気」を、単なる精神的な強さではなく、自分の課題に取り組み、他者と協力し、共同体感覚をもって共同体に貢献しようとする建設的な態度や行動の土台となるような、人生に対する姿勢や構えのようなものと考えます。
アドラー心理学でいう「勇気」とは、自らの責任を引き受けて、自分の負うべき課題に取り組み、他者と協力し合って共同体に貢献しようとする建設的な態度や行動を指します。つまりこれは単なる精神的な強さというよりも、そうした「姿勢」や「構え」に近いものです。
このようにアドラー心理学では、「勇気」という言葉を、一般とは異なる独特の意味合いで用いています。単に恐れ知らずで乱暴であることや、何もかも勝ち負けととらえて相手に譲らない姿勢などのことを、アドラー心理学では「勇気」と呼びません。野田はよく「したくてもしてはいけないことはしないこと、したくなくてもしなければいけないことをすること」と言っていました。「共同体感覚」を伴って行動する姿勢、あるいは共同体感覚を行為に移す力こそを、私たちは「勇気」と呼びます。たとえば、人々のために自分にできることを行うこと、人々にたいして対等な仲間として敬意を払うこと、人々と誠実かつ謙虚に話し合って物事にあたること、独善的とならず公正に行動すること、心をこめて人々への配慮を重ねていくことなど、行動にあたって共同体に有益な行為を選択することを、アドラー心理学では「勇気」と考えます。
こじれたコミュニケーションの5つの段階
アドラー心理学では、子どもの不適切な行動を単に罰するのではなく、その背景にある、「所属(居場所)」を得ようとする目的(賞賛・注目・権力争い等)を理解しようとし、それはしばしば大人との「こじれたコミュニケーション」の現れであると捉えます。
アドラー心理学では、子どもの不適切な行動(問題行動)に対して、いきなりその行動自体を罰したり禁止したりするのではなく、まず背景にある理由を理解しようと努めます(ただし他者に危害が及ぶなど緊急避難が必要な場合は、その限りではありません)。
子どもが不適切な行動をする理由は、いくつも考えられます。アドラーの直接の弟子であるR.ドライカースは、子どもが人々の間に居場所(所属)を得る目的で不適切な行動を起こすことがあると考えて、そうした行動と目的を「子どもの行動の誤った目標」と呼び、以下の4段階に分類しました。
- 注目・関心を引く
- 権力争い
- 復讐する
- 無能力を誇示する
その後、野田をはじめとする多くの現代の研究者は、上記の最初の段階として、
- 賞賛を求める
という項目を追加しています。それぞれの段階における基本的な対応は、それらの行動とは別の建設的な方法で、人々の間に所属を得ることができると子どもに学んでもらえるよう、親や周囲の大人、あるいは専門家などから勇気づけを行うことです。
ところで、「子どもの行動の誤った目標」という呼び方について野田は、その呼び方では親などの大人が、「子どもの行動がこのように不適切なのであって、そのように思う私の判断は適切だ」と受け止めて、その結果、子どもを一面的かつ一方的に裁くことにつながりかねないと懸念しました。というのも、ある子どもが上記の段階のうちのいずれかの振る舞いを見せたとしても、別の場所や異なる相手に対しては、全く違う振る舞いをすることが少なくないのです。本当に子どもの側だけに問題があるのなら、子どもは常に、あらゆる相手に対して同じように振る舞うはずです。
野田は、ある大人に対して子どもが不適切な振る舞いをするのは、その大人と子どもとの間に、そのようなコミュニケーションの構造があるからだ、と指摘します。上記の5つの段階についても、「こじれたコミュニケーションの5つの段階」として説明しました。改善すべきなのは、親と子どもの競合的なコミュニケーションのあり方であって、そうした一環として、子どもには家族や社会への建設的な所属の仕方を学んでもらうのです。大人もまた、競合的でないコミュニケーションの仕方を学ばなくてはなりません。
なお、子どもの不適切な行動の理由は、ここで述べたコミュニケーションの問題以外にも考えられます。たとえば発達段階の途上で何が不適切な行動かを知らない場合、不適切だと知っていても、本当にどうすればよいか分からない場合、あるいは障がいを原因とする様々な困難を抱えている場合などです。実際の育児では、これらの要因を除外した上で、はじめてこの「こじれたコミュニケーションの5つの段階」を検討していくことになります。
「賞賛を求める」とは、こじれたコミュニケーションの第一段階で、子どもが「褒められない自分には価値がない」という考えから、賞賛されることによって集団内の居場所を得ようと「適切な行動」をとる状態であり、賞賛が得られなくなるとその行動をやめてしまうため、その行動自体ではなく他の貢献的な行動に注目して勇気づける必要があります。
こじれたコミュニケーション(子どもの不適切な行動の目的)、その第一段階が「賞賛を求める」です。子どもは大人(特に親や教師)に褒められることで集団の中に居場所を確保しようとして、「適切な行動」をとろうとします。つまり、「褒められない自分には価値がない」という考えに基づいているため、これはすでに勇気がくじかれた状態と捉えられます。ここで注意すべきは、子どもが適切な行動そのものではなく、それによって賞賛されることを重視しているという点です。
こうした子どもの行動は、表面上は不適切な行動に見えません。大人は当初、こうした行動に喜びなどの陽性感情を抱き、褒めてあげたいと感じるものです。しかし、子どもが繰り返し賞賛を求めてくると、次第にそれを煩わしく感じるようになっていきます。そして、子どもは賞賛が得られなくなると、ただちに適切な行動をやめてしまいます。子どもを褒めて育てる場合の弊害がここにあります。しかし、だからといってここで単純に褒めるのをやめてしまったり、あるいは子どもが競争に負けるなどして賞賛を得られなくなったりすると、次の段階の行動に移行してしまうおそれがあります。
ここでの対応として重要なのは、子どもが賞賛のために行っている行動を褒めるのではなく、その子が意識せずに行っている共同体への貢献的な行動に注目することです。その子自身が「(褒められなくとも)自分には価値があり、ここに居場所がある」と感じられるよう、援助していくことが求められます。
「注目・関心を引く」とは、こじれたコミュニケーションの第二段階で、良いことや普通のことでは注目されず価値がないと感じた子どもが、いたずらや騒ぐといった困った行動をわざと行うことで、たとえ怒られてでも「無視されるよりマシ」と大人の関心を引こうとする状態です。
こじれたコミュニケーション(不適切な行動の目的)、その第二段階が「注目・関心を引く」です。これは、子どもが良いことで注目されない、あるいは普通にしていても注目されないと感じたときに、悪いことや困った行動をすることで、大人(特に親や教師)の関心を引こうとする行動です。例えば、わざといたずらをする、大声で騒ぐ、ふざけるといった、大人の側でうるさく感じられ、つい介入したくなるような行動がこれにあたります。注意をすると子どもはその行動をいったんやめますから、大人の方はイライラしますが本気で腹は立ちません。
ここで子どもは「自分には良いことができないし、普通にしていても誰にも見てもらえない。こんな自分には価値がない。」と感じているので、これもまた勇気がくじかれた状態といえます。このような状態にあっては、「無視されるよりは怒られる方がまだマシ」なのです。
ここまでの段階では、子どもはまだ比較的肯定的な注目を求めているため、大人からの適切な注目や関心、そして勇気づけを通じて、より建設的な方法で所属を得るように促すことができます。適切な行動に対して陽性感情をもって注目(正の注目)をしつつ、不適切な行動に対して陰性感情をもって注目(負の注目)をしないという関わり方が基本となります。ただし、単に無視したり罰したりするだけでは、注目によって居場所を得ようとする子どもの目標は達成されません。子どもは自分には価値があるとますます思えなくなって、さらに次の段階の行動に進んでしまう可能性があります。
「権力争い」とは、こじれたコミュニケーションの第三段階であり、不適切な行動で注目を得ても居場所がないと感じた子どもが、特に罰や強制を用いる大人に対して「勝たないと価値がない」と考え、反抗的な態度やルール破りによって自分の力を示そうとする状態を指します。
こじれたコミュニケーション(不適切な行動の目的)、その第三段階が「権力争い」です。前の段階である「不適切な行動で注目・関心を得る」を試みても、所属が得られないと感じたり、自分には価値があると十分感じられなかった場合にこの段階に進みます。つまり、注目が得られなかったから、今度は相手に勝つことで所属を得ようとするのです。こうした姿勢は、大人が子どもの不適切な行動をコントロールしようと罰を用いたり強制したりした場合に現れやすくなります。子どもは、大人に勝たないと自分には価値がなく、自分の居場所がないと感じます。そこで大人に対して反抗的な態度をとったり、指示に従わなかったり、わざとルールを破ったりすることなどで大人と戦い、自分の力を示そうとします。
この段階は、いわゆる「ケンカ」の形のコミュニケーションです。大人の側では腹立たしく感じられますが、だからといって正論や力で押さえつけようとすれば、子どもの抵抗はさらに強まり、次の「復讐」の段階に進んでしまいます。重要なのは、コミュニケーションが権力争いの形になってしまったことに気づいたら、その争いから降りることです。もしどうしても感情的になる場合にはその場を離れ、冷静になってから改めて話し合うことが大切です。その際には、大人が自分の意見を言う前に、相手の話を裁かず十分に聞くこと。そして、子どもの行動の適切な側面を探したり、子どもはそもそも何を解決したかったのかを考え、そのために大人が協力できることはないか相談したりすること。これらが、こじれたコミュニケーションを改善するために重要となります。
この段階までは、当事者の力でなんとか解決できる可能性があります。ですが、この先の「復讐」や「無能力の誇示」の段階に進んでしまうと、解決のためには専門家など第三者の存在が必要になったり、専門家でも解決が難しくなります。ですから、この「権力争い」の段階から先に進まないようにすることは、極めて大切です。
「復讐する」とは、こじれたコミュニケーションの第四段階であり、それまでの段階(賞賛、注目、権力争い)で所属感を得られず大人に傷つけられたと感じた子どもが、自分を傷つけたと認識する相手に対し、物を壊したり嘘をついたりするなど意図的に相手が嫌がることをして仕返ししようとする状態を指します。
こじれたコミュニケーション(不適切な行動の目的)、その第四段階は「復讐する」です。これは、第一段階「賞賛を求める」、第二段階「注目を得る」、第三段階「権力争い」といったいずれの行動でも、所属感や自分には価値があるという感じが持てず、大人から傷つけられたり、不当な扱いを受けたと感じたりした場合に現れます。子どもは、直接的には相手に勝てないと悟ると、間接的な方法で相手を傷つけようと試みます。つまり、自分を傷つけたと認識している相手に対し、意図的に相手が嫌がることや困ることを相手の見えないところで仕掛け、仕返しをして相手を傷つけようとするのです。例えば、物を壊す、嘘をつく、陰湿ないじめをするなどの行動です。非行に走ったり、神経症的な症状を出す事もあります。
この段階の子どもは深い絶望感や憎しみを抱いていることがあり、その場合、罰や叱責はもちろん、普通に話しかけることさえも、かえって復讐心を煽るだけとなります。大人の側も深く傷つくことの多いこの段階は、もはや当事者どうしでは解決できません。そのため、こじれたコミュニケーションは、一つ前の「権力争い」の段階で止めておく事が極めて重要となります。この復讐の段階では、第三者であるカウンセラーや心理療法士といった専門家の介入が必要になります。あるいは第三者でこの子どもと良好な関係を築いている大人がいれば、その方の援助を仰ぐ方法があります。
「無能力を誇示する」とは、こじれたコミュニケーションの第五段階であり、それまでの段階(賞賛、注目、権力争い、復讐)でも所属感が得られず自分に全く価値がないと深く絶望した子どもが、あらゆる建設的な努力を放棄し、「自分は無価値だから放っておいてくれ」という態度を示す状態を指します。
こじれたコミュニケーション(不適切な行動の目的)、その第五段階は「無能力を誇示する」です。これは、それまでの段階(賞賛、注目、権力争い、復讐)を経ても所属している感じが得られず、自分には価値がまったくないと感じている、きわめて勇気のくじかれた状態を指します。何をしても無駄だと深く絶望し、あらゆる建設的な努力を放棄してしまい、「自分は無価値で役に立たないんだから、あきらめてほっといてくれ」という態度を示すのです。極端な場合には、犯罪を繰り返したり、深刻な精神的症状によって入退院を繰り返すといった状態に至ることもあり、親の側としてもそうした行動に絶望してしまうことは少なくありません。
この段階にある子どもへの対応は極めて難しく、専門的なトレーニングを受けたカウンセラーや心理療法士や医師といった専門家の介入があっても、改善や治療が難しい事もあります。
「不適切な行動に注目せず、適切な行動に注目する」は、正確には「不適切な行動に負の注目をせず、適切な行動に正の注目をする」といいます。不適切な行動には怒りや不安といった陰性感情をもって対応せずに落ち着いて冷静に話し合い、適切な行動に対しては、その背景にある人としての成長に対して喜びをわかち合ったり、家族や周囲に貢献してくれたことに感謝を伝えるなど、陽性感情を持って関心を示すことを指します。
アドラー心理学の育児ではいつも、子どもが「私は能力がある」「人びとは私の仲間だ」と思えるように対応します。なぜならば、子どもが将来「自立して」「社会と調和して暮らせる」人になるためには、子どもが自分や周りの人びとについて、このような信念を持っていることが必要と考えるからです。「不適切な行動に負の注目をせず、適切な行動に正の注目をする」のも、子どもがこうした信念が持てるようになるための方法です。
「不適切な行動に負の注目をしない」
これは「子どもの不適切な行動に対して、怒りや不安といった陰性感情を持って関心を示さない」ということです。決して、子どもを無視したり、見て見ぬふりをすることではありません。
アドラー心理学では、感情は「思考」をもとに生じると考えます。たとえばある出来事に対して「これは大変だ」「許せない」と考えると、そこで、不安や怒りといった感情が湧き上がってくるのです。そして親(あるいは教師)がそのような陰性感情(マイナスの感情)を持っていると、子どもを勇気づけることはできず、建設的な話し合いもできません。怒りに任せて叱っても、あるいは冷たく子どもを無視しても、子どもは「叱られた」「無視された」といったことだけを記憶し、なぜ叱られたのか、何がいけなかったのか、どうすればよかったのかについて考えることにはつながりません。むしろ「私は能力がない」「人びとは私の敵だ」という考えを持ってしまうでしょう。あるいは、子どもが「不適切な行動をすると、親や先生は自分を見てくれる。少なくとも叱られることで所属できる。」と思ってしまうならば、「不適切な行動」は増えていくことになるでしょう。
ですので、できるだけ子どもとは陰性感情を持たずに関わることが重要となります。まず親自身が、普段から子どものよいところやよい意図をさがすなどをして、子どもの行動を別の見方で捉えられるようになっておくことはとても大切です。子どもについてそのように見、そのように考えることが出来てこそ、実際の子どもの不適切な行動を前にして、陰性感情を持たずに「その行動は適切ではないと思うよ」「どうしてそうしたのか話してくれる?」と問いかけ、対話することができるのです。つまり、ある行動について「負の注目」にならずに子どもの話しをきき、解決に向かって一緒に考えることができるようになるのです。こうした対応がうまくいくと、子どもは「私は能力がある」「人びとは私の仲間だ」という信念を持てるようになるでしょう。
ただ、そのように物事の捉え方(その物事への意見、意味づけ、考え方)を変えることは簡単ではありません。なぜなら人が物事を捉える際には、その人独特の、凝り固まった価値観を基準としているからです。物事の捉え方を変えるためには、まず、自分独特のものの見方を知ること、そして、そうした自分の物の見方以外にも、他の見方もできるかもしれない、と考えてみることが大切になります。そのようにできて初めて、実際の子どもとのコミュニケーションのなかで落ち着いて子どものよい意図を探し、よいところを見つけ、そこで子どもに何を学んでもらいたいかを考えながら対応できるようになるのです。
とはいえ、その場でどうしても感情的になってしまうこともあるでしょう。そのようなときには、陰性感情をぶつけて関わるより、文字通り「注目せず」に、一旦距離を置く方が賢明です。つまり、その場を離れて冷静になる工夫をするのです。ただしこれは、あくまで一時的な経過措置にすぎません。離れたままになるのではなく、大切なのは、冷静になったあとで子どもの話に耳を傾け、必要であれば話し合うことです。そうして子どもが問題をうまく解決できるように、必要なお手伝いをします。そうすることで、子どもは「自立して」「社会と調和して暮らせる」方向に向かえるでしょう。
「適切な行動に正の注目をする」
これは、子どもの適切な行動や適切な側面に、喜びや親しさと言った陽性感情(プラスの感情)を持って関心を示すことです。これは単に「良い行い」を見つけて褒めることとは異なります。そのような対応は、いくつもの危険性をはらんでいるのです。例えば、普段勉強しない子がたまたま勉強した時に「偉いね」と褒め続ければ、子どもにとって「褒められること(ご褒美)」が目的になってしまうかもしれません。それでは親が褒めなくなればその行動をやめてしまい、子どもは、勉強をする本来の意味を理解する機会を失ってしまいます。
そのようなとき、子どもの何に注目するべきなのでしょうか。
たとえば、子どもが努力した点や成長した点に注目して一緒に喜んだり、子ども自身は意識していなくても家族や周りの人のためになる事をしてくれたことに感謝することなどができます。注意したい点は、これらの対応は決して、この「適切な行動」をもっと続けてもらうことを目的としているのではないということです。そうではなくて、子どもが「私は能力がある」「人びとは私の仲間だ」と思えるように対応することで、子どもが「自立して」「社会と調和して暮らせる」人に育つことを目的としています。
「アドラー心理学の育児が目指すこと」
アドラー心理学が考える育児の最終目標は、《共通感覚》と《共同体感覚》を持った人間に育てることにあります。
《共通感覚》
現在暮らしているその社会(例えば日本)で、良しとされる常識や価値観のこと。例えば「正直」「勤勉」「親切」といった徳目や、伝統的に受け継がれている様々な作法や美意識などは共通感覚にあたります。
《共同体感覚》
社会(共同体)にとってよいことを善とする考え方。自分とは様々な点で違っている他者と、どちらが上/下、優れている/劣っているなどを争うのではなく、お互いに協力しあって、「自分も相手も幸福になるにはどうすればよいか」を考える視点です。
社会生活の基本ともいえるこの二つを、育児の目標としてしっかりと持ち、子どもの日々の行動の中で、これらに結びつく成長を見つけた時に心から喜び、その喜びを子どもと分かち合うこと。それが、「子どもの適切な行動に正の注目をする」ことなのです。例えば「勉強した」という行動そのものに注目するのではなく、その背景にある「何かを知ろう、分かろうとする姿勢」や、「将来、社会の役に立ちたいという思い」に気づき、それを喜ぶのです。そうした意味では、普段から「いまどんな本を読んでいるの?」「どんなことに関心があるの?」「どんな勉強してるの?」といったように子どもに尋ねて、子どもが関心を持っていることに親自らが関心を持つことも、適切な行動への正の注目に結びついていくのです。
アドラー心理学の育児は、「子どもをコントロールする技術」ではありません。親自身がまず、子どもにどのように育ってほしいか、といった明確で建設的な目標を持たなくてはなりません。その上で、子どもとともに成長を喜び、子どもが何かしら困難を抱えたときには、どうしたらよいかをともに考え、将来子どもが社会に出たときに、周りの人びとと力を合わせて問題を解決していけるようにと、日々少しずつ工夫を重ねていくのです。このように、親子が共に成長していく「共同作業」こそが、「不適切な行動に負の注目をせず、適切な行動に正の注目をする」という言葉に込められた、アドラー心理学からの深いメッセージなのです。
カウンセリングと応用
アドラー心理学のカウンセリングは、クライアントが共同体感覚を育て、「競合」的な生き方から「協力」的な生き方へと移行するための「学び(再教育)」のプロセスであり、アドラー心理学の理論に沿って事例を分析し、クライアントの仮想的目標が協力的か競合的かを吟味し、より協力的な目標の実現を目指して新たな行動計画を立てる点に特徴があります。
アドラー心理学のカウンセリングは、単なる悩みの相談や気休めではなく、クライアントがより良い人生を送るための「学び」のプロセスです。洞察を重視し、必要であれば助言も行います。
その原理、具体的なプロセスは明確に示されており、カウンセラーや心理療法士には、医療関係者と同等かつ、アドラー心理学のプロバイダー(供給者)としての倫理的責任が求められます。
アドラー心理学のカウンセリングや心理療法の最終目的は、クライアントが共同体感覚を育てること、つまり「競合」的なあり方を抜け出して「協力」的なあり方を学ぶことです。アドラー心理学では、人間関係における問題や不幸の唯一の原因は、物事を「競合」的に捉えることにあると考えます。競合とは、相手と自分とを比較し、善悪・正誤・美醜・優劣・勝敗などの価値観でもって人の価値を決めようとする心の持ち方です。「相手が間違っている、自分が正しい」と裁くこの態度は、人間関係を勝ち負けの闘争にしてしまいます。それに対して協力とは、ある価値観において人間の価値を決めようとするのではなく、相手との違いを認め合った上で対等な立場で、力を合わせて問題を解決しようとする心の持ち方です。アドラー心理学のカウンセリングや心理療法は、この「競合」的な生き方から「協力」的な生き方へと移行するための再教育の場ですが、カウンセリングでは主に「エピソード分析」を用いてライフタスクに関する問題を解決することを目標にし、心理療法では、「ライフスタイル分析」によってライフスタイルに関する問題を解決することを目標にします。セッションの始まりには「前回はどんなことを学ばれましたか?」最後には「今日はどんなことを学ばれましたか?」と問われ、この学びをクライエント自身が言語化する事によって再認識できるようにします。
一般的にアドラー心理学のカウンセリングでは、ある日あるところで一度だけ起きた、陰性感情を伴う出来事の話(エピソード)を素材にします。エピソードの中でのクライエントの「思考」「感情」、「目標」を探し、分析します。そして、エピソードの中でクライエントがとった行動について、次に似たような場面があったら、エピソードでとった行動の代わりにそんなことができそうか、行動の代替案を考えます。この時出た代替案などが「宿題」となることがあります。
カウンセリングや心理療法で扱う人間の行動は、すべて「相対的マイナスから相対的プラスへの目標追求」という原理に基づいていると理解されます。人は、何か問題を感じる状況(相対的マイナス)に陥ると、それを解決し、より理想的な状態(相対的プラス)を目指して行動します。この「相対的プラス」の状態は、多くの場合、本人が無意識に抱いている非現実的で空想的な「仮想的目標」です。
この原理に基づき、カウンセリングは以下のステップで進められます。カウンセリングでは、この仮想的目標が「競合的」なのか「協力的」なのかを分析することがポイントになります。カウンセラーは、エピソードを聞き終えた時点で、このプロセス全体のシナリオを見通すこととができるよう、トレーニングが必要になります。
以下に示すのは、元来欧米の言語体系で構築されたアドラー心理学のカウンセリング手順を、日本語話者に理解しやすくやりやすく工夫した、『エピソード分析』の手順です。
- エピソードの聴取:
「ある日、ある所で、一回だけ起こった、陰性感情を伴う出来事」を、客観的な事実として正確に聞き取ります。これが分析の出発点となります。 - 対処行動の特定:
物語を最も大きく動かした、クライアント自身の具体的な行動や言葉を「対処行動」として特定します。 - ライフタスクの特定:
その対処行動のきっかけとなった、相手の言動を「ライフタスク」として特定します。 - 仮想的目標の言語化:
ライフタスクが理想的な形で解決された状態がどのようなものかを推量し、「仮想的目標」を言語化します。 - 協力的目標/競合的目標の判断:
明らかになった仮想的目標が、協力的目標(一緒に問題を解決する方向性の目標。相手も納得してくれそうな目標)または競合的目標(相手を裁いたり、上下関係を決めようとしたりする。実現すると自分にとってはうれしいが、相手は同じようにうれしいとは思ってくれなそうな目標)のどちらにあたるかを、クライアントと共に吟味します。 - 新しい行動計画の立案:
目標が協力的な場合は、その目標を達成するためにより有効と思えるような、対処行動の代替案(例:目標をそのまま相手に伝える)を考えます。
目標が競合的な場合は、その目標を無理に達成しようとすると相手との関係が悪くなります。この場合は相手も納得してくれそうな協力的な目標を探し、その目標を達成するための、対処行動の代替案を一緒に探します。
なお、すべてのセッションの全過程を通じて基本となるのが、R.ドライカースの提唱した「治療的人間関係」、つまり、「相互尊敬、相互信頼、協力、目標の一致」という良い人間関係を終始築き、カウンセラー(心理療法士)とクライエントの共同作業を続けることです。アドラー心理学のカウンセリングは、教育的ではありますが、教示的ではありません。
アドラー心理学のカウンセラー(心理療法士)であるためには、まず自分自身の私的感覚や競合性を知り、日常生活でアドラー心理学の理論と思想にもとづいて物事を考え行動できるようになること、自分の私的感覚や私的論理を脇に置いて相手の話を聞いたり物事を考えられるようになることが必要です。
アドラー心理学のカウンセラーは、単なる技術者である「ユーザー」とは一線を画す、「プロバイダー(供給者)」として、以下の三つの重い倫理的責任を負っています。
- 理論への忠実性:アドラー心理学の「基本前提」を正しく理解し、それを崩さずに伝える責任。もし同意できないなら「アドラー心理学」を名乗るべきではありません。
- 思想の実践:「共同体感覚」という思想を、自らの実生活の中で実践し続ける責任。日常生活で競合的に暮らしている人に、協力的なカウンセリングはできません。
- ムーブメントへの貢献:アドラー心理学を、より良い世界を実現するための社会運動(ムーブメント)と捉え、それに貢献する責任。これは、過去から未来にわたる世界中のアドレリアンに対する連帯責任を意味します。
この責任を果たすためには、海外の技法を文化的な風土を無視して輸入するのではなく、日本の文化に根差した実践(例:日本における「課題の分離」の重視など)が求められます。また、アドラーや他の先達の著作を「聖典」のように深く読み込み、その思想だけが人類を救済するというほどの確信と、自らの人生を懸けるほどの「覚悟」がプロバイダーには不可欠であるといえます。
「治療的人間関係」とは、アドラー心理学カウンセリングの基本となるルドルフ・ドライカースが提唱した「よい相談関係」を指し、カウンセラーが能動的に関わる「相互尊敬」「相互信頼」「協力」「目標の一致」という四つの条件を満たすものです。
専門的なご質問なので、少しばかり踏み込んだ回答となります。
「治療的人間関係」とは、カウンセリングにおける「よい相談関係」を指し、構築にあたっては、ルドルフ・ドライカースが提唱した「四つの条件」がその核心となります。これはカール・ロジャーズが提唱した「受容」や「共感」といった姿勢とは異なり、カウンセラー側がより能動的に関わっていく点を特徴としています。カウンセラーはこれらについて、カウンセリングが上手くいかない場合はもちろん、セッション前からセッション中、そしてセッション後にわたって常に自己点検しなくてはなりません。「治療的人間関係」を構成する四つの条件は以下の通りです。
- 相互尊敬
これは、相手を単に敬うことではなく、「一回性(Einmaligkeit)」を持つ、すなわち一度きりのかけがえのない「歴史的存在」として捉えようとする、深く能動的な姿勢を指します。相互尊敬とは、語源である「re-spect(再び見る)」が示すように、相手を一人の人間として改めて見つめ直し、その人の人生の歴史全体を、丸ごと掴もうとすることなのです。この姿勢を通じて、相手の現在の言動が、その人自身がそれまでの人生を通じて形成してきたライフスタイルに根差していることを理解し、その人のさまざまな言動は、「所属」のための力一杯の努力なのだ、という視点でその人と向き合います。なお相互尊敬の「相互」は、まず自分自身が相手の人を尊敬することから始めます。相手から尊敬されたらこちらも尊敬する、という向き合い方では決してありません。 - 相互信頼
これは、クライアントがどのような状態にあっても、その人は基本的に自分の問題を自分の力で解決する力があるのだと無条件に信じることです。野田やアドラー心理学の教師はよくこれを「白紙の小切手を切る」と表現しました。とはいえ、人はすべての問題を自分1人の力で解決できると、アドラー心理学は考えていません。相手が問題を解決するにあたって、何らかの手助けが必要かもしれないのです。それは何だろう、と、クライエントとともに考えていくことがカウンセリングの一つの重要なプロセスになります。なお「相互信頼」も「相互尊敬」と同様に、まず「私」の方から相手を信頼します。その結果、相手もこちらを信頼してくれるならば、そこで「相互信頼」が成立します。「そちらから先に信頼してよ」とか「あなたが信頼してくれれば私も信頼しましょう」というような向き合い方は、「信頼」ではない、とアドラー心理学は考えます。 - 協力
これは、カウンセラーとクライアントが、問題解決に向かって「共に働く(ドイツ語: Mit-arbeit)」という対等な共同作業を行うこと、またはそうした関係性を意味します。カウンセラーとクライアントは、どちらかが「主」でどちらかが「従」といったような縦の関係ではなく、役割は違っても「人生の一時期を共に歩む」、一緒に問題を解決する対等な仲間として横の関係を築きます。共に作業し、共に時間を過ごすことを通じて、クライアントのその後の人生に良い影響が残ることを願う、温かい関わり方を指します。 - 目標の一致
これは、クライアントとカウンセラーの間で、カウンセリングで何を解決するか、つまりカウンセリングの目標を明確に話し合い合意することです。先の三つの項目「相互尊敬」「相互信頼」「協力」の上に、この「目標の一致」がなされます。日本文化に見られがちな「仲間だから」「察して」といった曖昧な了解ではなく、カウンセリングの解決目標、互いの役割、協力する範囲やしない範囲などを、明確に言葉にして合意します。人間は一人では不完全であり、問題解決のために他者との協力を必要としますが、その協力関係が明確な合意に基づかなければ、誤解やトラブルの原因になると考えます。カウンセリングの冒頭で「何を目標とするか」を合意することで、その後のプロセスが不当な介入や単なるお説教になることを防ぎ、建設的な協力関係を築きます。また、この「目標」は一度設定したら変えられないものではなく、カウンセリングの中で必要な時はいつでも両者の間で話し合い、見直していくものです。
この「相談的人間関係」は、カウンセリングに限らず、様々な領域でアドラー心理学を実践する場合に必要です。たとえば育児、教育、医療・福祉などはもちろん、日常的な、友人関係や職場での人間関係などでも、相手と「相談的枠組み」にある場合は、常にこの「相談的人間関係」を意識する事が極めて重要となります。
「横の関係」とは、社会的な、あるいは組織上の役割の違いや責任の大小を認めつつ、互いを尊敬し、人間としての価値に優劣をつけず、対等な個人として関わっていく心のあり方です。それは、全員が「同じ」であると主張する「同等」の関係ではなく、それぞれの違いと役割を尊重した上で成り立つ、成熟した協力関係の基盤となるものです。
「横の関係」とは、アドラー心理学における人間関係の理想的なあり方を示す重要な概念です。これはアドラー自身ではなく、彼の弟子であるリディア・ジッヒャー(Lydia Sicher)によって提唱されました。この概念を深く理解するには、対の概念に位置づけられる「縦の関係」との比較、そして、よく似た日常語である「平等」や「同等」との正確な区別が不可欠です。
まず「縦の関係」とは、世の中の様々な価値観における自分と他者の優劣を、そのまま人間としての価値の優劣だと捉える関係をいいます。ジッヒャーはこうした関係を、心のなかに価値観という「はしご」を立てて、自分と他者とをそれぞれ上下の段に位置づけている状態になぞらえました。そのような捉え方のなかでは、同じ場所に立てる人は一人しかおらず、したがって人は常に他者との競争状態にあり、時として自分が上に立つため他者を蹴落としたり、引きずり下ろそうとします。。
一方「横の関係」とは、「縦の関係」とは対照的に、価値観の「はしご」を心のなかに立てずに、自分も他者も人間としての価値には優劣をつけない関係をいいます。そのため「横の関係」では、人々は同じ平面に一緒に立つことができ、そこでそれぞれ協力したり、あるいは別個に役割を果たしながら、互いに対等な立場で自分の人生を生きていくことができます。「横の関係」の中でも、ひとりひとりの人間は様々な点で優れていたり劣っていたりするでしょう。しかしそれらは「違い」なのであって、人としての価値の上下を意味するものではないのです。なお「縦の関係」「横の関係」は、英語ではそれぞれ Vertical Plane / Horizonal Plane と呼びます。
ここで注意が必要なのは、「横の関係」は、しばしば日常で使われる慣用語のイメージと混同されて、意味合いを大変誤解されやすい点です。たとえば、「横の関係」は、社会や組織にタテの序列や指示系統があってはいけない、などということではありません。企業における上司と部下のように、能力や適性などに応じて権限や責任が異なるのは、組織が円滑に機能するため必要となる役割分担であって、「横の関係」の観点からは、互いに役割は違えど人間としては対等だと捉えることができます。
問題なのは、そうした役割の違いを人間の価値の優劣と結びつけてしまうような、他者と向きあう上での心のあり方としての「縦の関係」です。そこで仮に「上司は上司だから人間として偉い、部下である私は人間として劣っている」あるいは「上司である私は当然人間として偉い、部下たちは人間として劣っている」などと考えたとしたら、それは「縦の関係」を自ら作り出していることになります。
また「横の関係」は、すべての人が「同じ(同等)」であることを意味するものではありません。これは最も重要な点です。個性や能力の違いや、男性と女性、若者と高齢者、親と子、あるいは教師と生徒などといった、生物学的違いや社会的立場の違いを無視して、人が全く「同等」に扱われると、ひとりひとりにとってはむしろ不公平で過酷となり、その結果、社会秩序も乱れることになるかもしれません。人はみな「違う」けれど人間としての価値は「平等」であると考えます。こうした「横の関係」の上に成り立つ社会、みなが決定に参加できる社会を作り、そうした社会の中で生きていくことが人間として幸せな状態であるとアドラー心理学では考えます。
そのような都合のよいものはありません。「コツ」をつかんで上手に毎日を乗り切ろう、という安直な考え方こそが、家族の人間関係を悪くするのです。
「ふーん、アドラー心理学は家庭内では役に立たないんだ・・・」と、思わないでくださいね(笑)。家庭内でアドラー心理学を実践する際の「基本」は、ちゃんとあります。
- まず自分の方から相手を「尊敬」「信頼」すること。
- そうして家族と、「どちらが正しいかを決めようとする競争相手」として暮らすのではなく、家庭内やその他の問題を「どうなったらよいのか」といった目標を考える方向で「力を合わせて解決する仲間」として暮らすこと。
- そのために、自分の陰性感情に気をつけること。陰性感情があるときは、協力ができない状態になっています。
- いつも家族の「よいところ」を見ながら生活をすることは、上の項目を実践するための大きな助けになります。
このような事に気をつけながら実践することで、はじめて、アドラー心理学の育児本などで紹介されている様々な技法が有効に使えるようになります。
たとえば、
- 話の聴き方:
アドラー心理学の実践の第一歩は、相手の話を聴くことです。そのときに、上のようなことに気をつけながら聴きます。何のために相手の話を聴くのかというと、相手の考えを理解した上で、「一緒に問題を解決するため」です。決して、自分の考えを押し通すためや、相手の考えに、自分の価値判断でもってよしあしの判断を下すためではありません。
話の聴き方は、実はこれが上手にできると、それだけで相手にとって大きな勇気づけとなる事があるほどです。また、以下に続く技術を効果的に行うためにも不可欠です。 - 「勇気づけ」:
よく誤解されるのですが、「勇気づけ」というのは単に相手の気分をよくすることではありません。また一定の言葉がけや、特定の決まった行動でもありません。この2点には充分な注意が必要です。詳しくは、「勇気づけ」に関する各項目をご覧ください。 - 課題の分離と共同の課題:
アドラー心理学の育児等の技術として「課題の分離」が有名になっているようですが、実は「課題の分離」は、それだけではアドラー心理学の技術とは言えません。「課題の分離」とは、その後の段階で「共同の課題」をつくるための準備作業にすぎないのです。したがって「共同の課題をつくる」ことの方が、本来、アドラー心理学の実践として重要となります。詳しくは、「課題の分離」についての項目をご覧ください。 - 目標の一致:
課題を解決するにあたって、相手と自分の目標が同じ方向を向いているかどうか確認したり、その方向をすりあわせることを、アドラー心理学では「目標の一致」と呼んでいます。ある課題について、双方の目標が一致していれば、その課題を「共同の課題」として、協力し合って解決することが可能となります。
まず相手の話をよく聴き、そのあとで自分の考えを相手に伝え、お互いの目標が同じ方向を向いているかを確認をします。例えば、子どもが九九を覚えたいと望んでいて、親も子どもが九九を覚えることに賛成の場合などは、目標が一致している、と考えるのです。双方の目標が確認でき一致していると思われたならば、あるいは目標の方向に同意できたり、すりあわせることができたなら、次には、目標に向かって誰がどういう事をしていくかを話し合うことができます。 - 目標が一致できなかった場合(「結末を体験する」):
相手と自分の目標が違う方向を向いていて、どうしても目標の一致ができなかった場合には、無理に一致させようとするのはやめて、しばらくはそれぞれ自分自身の課題に向き合います。
育児に関しては、この段階でやっと使えるのが「結末を体験する」方法です。
- 「結末を体験する」方法:
育児中の親子の場合、親は、育てている子どもにいろいろなことを教えなければなりませんし、子どもは社会に出るまでに、親からいろんな事を学ばなければなりません。アドラー心理学では、親は子育てという貴重な機会に、生活の知識などとともに、社会で大人たちが大切にしている「共通感覚」と、社会で協力しあって暮らすための「共同体感覚」を、子どもに伝えなくてはならないと考えます。
子どもに物事を学んでもらうための方法の一つに、自分の行動の「結末を体験する」というものがあります。これは、使い方に細心の注意が必要な技法です。注意せずに使うと「勇気づけ」にならないどころか、子どもにとって「罰」になってしまい、親子関係を壊してしまうからです。そのため『パセージ』ではこの一部をコースの後半で学び、残りは『パセージ・プラス』で学ぶというように、特に時間をかけ段階を踏んで丁寧に学ぶ項目としています。
野田俊作はここでいう「結末」について、次の3通りに分類しました。
・自然の結末:自然の法則によって起きる結末。
例)雨の日に傘をささずに外へ出ると濡れる。
・社会的結末:法や慣習、伝統などよって起きる結末。
例)どろぼうをすると警察に捕まる。
・論理的結末:論理的に導き出される結末。
子どもが「自然の結末」を実際に体験することで、よく学ぶことのできる事柄は少なくありません。ただし場合によっては、子どもの身に危険がふりかかったり、子どもには結末がふりかからないが他人には迷惑をかけてしまうなど、この方法によって学んでもらうのに不向きな事柄もあります。そうしたケースでは「社会的結末」あるいは「論理的結末」といった技法を用いることができますが、しかし、親や教師がさせたいことを子どもにさせようとしてそれらの技法を使うと、かえって関係は悪くなってしまいます。
たとえば、それらの技法のなかでは親から子どもに行動の選択肢を示して、その結末を体験してもらうことがあります。しかし、選択肢は何でもいいから示せばいいわけではありません。子育てのなかで子どもに伝えるべきことを考えて、「共通感覚であって共同体感覚に沿っているもの」を選択肢として設定する必要があります。また、選択肢と結末の間には社会の共通感覚からの必然、または厳密な論理的関係がなくてはなりません。それらを親や教師の好みや勝手な都合など(私的感覚)で設定すると、それは「結末の体験」ではなく「罰」、しかもかなり厳しい「罰」になってしまうのです。
このように、これらは適用が難しく副作用が極めて大きな技法ですので、使用にあたっては細心の注意が必要となります。
- 「結末を体験する」方法:
以上の技法は、ここでは概略をお伝えすることしかできません。ここから先は、本やネットで見聞きした知識よりも、現実の育児に即した繰り返しの練習こそが大切になるのです。私どもの育児学習コース『パセージ』と『パセージ・プラス』ではここにあげている技法を含め、アドラー心理学による育児を実践的に学ぶことができますので、ぜひ受講をご検討ください。
身近な方からのご相談では、それがどんなご相談なのか、その相談で何を目指すのかを丁寧に確認します。相手への尊敬と信頼を忘れずに、自分の価値判断で相手を裁いたりせず、なるべく具体的なエピソードに沿いながら話を伺い、相手の方が何に困っていてどう解決したいのかを明確にします。ここで大切なのは自分に陰性感情がないかを終始観察することです。陰性感情があれば、よい相談にはなりません。
身近な方からの相談に乗る際のアドラー心理学からのアドバイスとしてはまず、それはどのような相談なのか、この相談で何を目指すのかを、相談する方とされる方両者が共有することです。
相談に乗ることになったら、相手への「尊敬」と「信頼」を持って、まずは相手の話を自分の価値判断で裁くことがないように、相手の話をよく聞きます。そして、相談する人が何に困っていて何を解決したいと考えているのかを明確にします。具体的な「エピソード」を素材にすると、問題の「原因」ではなく「どうなればいいのか(解決像)」を明らかにすることで、その解決像を実現するためにどのようなことができるかを一緒に考えていく事ができます。大切なのは、自分に陰性感情が出ていないかを終始観察することです。自分に陰性感情がある時は、よい相談はできません。
- 相談の時は「相談的人間関係」を保持する
相談に乗る時に大切なのは、技術はもちろんですが、相手に対する向き合い方が極めて大切です。
アドラー心理学では、相談にあたっての人間関係を「相談的人間関係」と呼んでとても重視します。これは、カウンセラーとクライエント、医師と患者、医療関係者と利用者、教師と生徒、などの「相談する/される」関係においてはもちろんですが、友人同士、夫と妻など、普段は「相談する/される」関係にない場合でも、「相談していい?」「いいですよ。何ですか?」という一往復の会話であってもお互いが「相談する/される」関係になったその瞬間から必要になります。
また、相談に乗る側が、善かれと思ってつい「自分が相手を助けてあげなければ」「正しい道に導いてあげなければ」といった、相手への支配的な考え方にとらわれてしまうことがあります。このようなときは相談がうまくいきません。こうしたときも「相談的人間関係」について点検すると、道が開けることがあります。
「相談的人間関係」については 「Q アドラー心理学カウンセリングにおける「相談的(治療的)人間関係」とは何ですか?」をご参照ください。 - まずは相手の話を聴く
相手がこちらにどんなことを望んでいるのか(聴くだけでいいのか、アドバイスがほしいのか、一緒に解決を考えてほしいのか、など)、相手が何を問題と考えているのか(現状)、相談の結果どうなったらよいと考えているのか(目標)、などをききましょう。相手の話を、途中で遮らずに、最後まで聴きます。もし相談内容が自分では対応が難しい場合や、自分には無理と思われた場合は、相談を引き受けるのを断るほうが、おたがいにとって建設的である場合もあります。 - 自分の陰性感情に注意する
相談をしていて、あるいはされていて、どうしても陰性感情が出てきてしまうことがあります。陰性感情を持ったままでは、なかなかよい結果にはつながりません。どちらかが陰性感情を持つときには大抵、もう片方も陰性感情を多少は持っていて、なんだかうまくいかないな、とお互いに感じていることが多いのです。相談中どうしても陰性感情を持ち続けてしまうようなら、一旦相談を中止して落ち着いたら再開するか、あるいは別の人と相談をすることにするかなどを検討する方がよいことがあります。 - 「どこから」ではなく「どこへ」を探す
アドラー心理学の基本前提に「目的論」という考え方があります。人の行動の原因よりも目的を見ようとする考え方です。相談の時にも、今起きている問題について、その原因を探して除去しようとする方向ではなく、今の状態が結局どうなればいいのか、解決像を見つけてそれを実現するための行動を考える方向で進めると、できる事が見つかりやすいです。
このほか、具体的な技術に関心をお持ちの方は、まずアドラー心理学基礎講座応用編などを、カウンセリングについて勉強されたい方は基礎講座の後カウンセリング講座などを受講されることをおすすめします。
高齢の親とも、他のすべての人間関係と同様、「縦の関係」を抜けて「横の関係」で暮らすことができることが望ましいとアドラー心理学は考えます。まずは子どもである私たちのほうから親を「尊敬」「信頼」することが大切です。具体的には、日常の出来事を共有したり、相談したり、親の経験から来る意見をきくことなどを通じて、親にも「私は能力がある」「人びとは私の仲間だ」といった「自尊心」と「所属感」を保ってもらえるようなコミュニケーションをすることをアドラー心理学は提案します。
高齢者、特に自身の親と良好な関係を築くためには、テクニック以前に、まず私たちの対人的な構えを見直すことが大切です。そこでの基本的な考え方は、アドラー心理学における子育ての考え方と多くが共通しています。つまりそれは、自分たちのなかでどちらが「正しい/間違い」などを決めようと争う、競合的な「縦の関係」ではなく、同じ家族として遭遇する日々の問題を一緒に解決しようとする、協力的な「横の関係」を築くことです。しかし親との関係には、次の2つの難しさがあります。
《寛容さの違い》
私たちは子供の未熟さや失敗には辛抱強く寛容であれますが、自分の親に対しては感情的になりやすく、寛容さを失いがちです。特に、配偶者の親(姑・舅)に対しては、その傾向がさらに強まることがあります。
《長年繰り返してきたコミュニケーションを変える難しさ》
親子はこれまでとても長い時間をかけて、今のコミュニケーションを作り上げてきています。それは実際には、過去のある時にできたコミュニケーションの「ひな形」を繰り返していることが多いのですが、長い間繰り返してきたコミュニケーションのパターンを変えるためには、とても大きな勇気が必要となります。また、親はいつまでも我が子を「子供」として見てしまいがちです(例:60歳を過ぎた息子に18歳当時と同じ量の食事を用意する)。同時に、子どもの方も親に対して「自分が子供の頃の親」のイメージを引きずってしまいやすいのです。
こうしたことから抜け出して対等な大人同士として向き合うことは、難しく感じられることがありますが、焦らずじっくり取り組めば、次第に上手にできるようになることが多いのです。
それではこうした中で、実際に親と建設的な関係を築くためにはどうすればいいでしょうか。そのためには、まず親の現在の状況を理解しようとすることと、普段の過ごし方がとても大切です。ただし、普段はどんなに関係がよくても、たとえ親の事をよく理解していると思っていたとしても、それでも親と衝突してしまうことはあるでしょう。そんなときは、衝突したときのできごと(エピソード)から何が起きているのかを理解することが重要です。
- 親の状況を理解する
例えば、親が「不平不満や悪口をいう」などといった、私たちが陰性感情を持つような行動をする背景を考えてみます。
人は、高齢になるとたとえば「前はできたことができなくなっている」とか「聞き取りづらい」、「見えにくい」、「(若い人の)会話について行けない」などといった、アドラー心理学で言う「劣等感」をもつ状況が増えて行きます。このような「劣等感」を持つ状況は、いわば本人にとって「相対的マイナス」の状況ですから、人はその状況を「相対的プラス」に変えるために、何らかの「行動(対処行動)」を起こします。(「Q アドラー心理学で言う「目的論」とは何ですか? フロイトの「原因論」との違いは何ですか?」参照)
その「行動(対処行動)」にあたるのが、「不平不満や悪口を言う」などといった、一つ一つの行動と考えます。
アドラー心理学では、人の究極的な目標は(社会に)所属することと考えますから、こうした行動は最終的には、相手と自分が「所属している」状態の実現に向かって行われていると考えます。
たとえば、不平不満をいうと、相手は否定的な反応をするかもしれません。それでも、なにか反応をしてもらったということは、たとえネガティブな形であれ、自分とその相手はともかく「所属している」のです。
このネガティブな形での所属がポジティブな形の所属に変わるようにコミュニケーションを変えることで、問題が解決へと向かうとアドラー心理学では考えます。
このように問題を理解することが、問題が起きる前の「予防」と、起きてしまった後の「対処」につながっていきます。
まずは普段のコミュニケーションが大切!
普段から高齢の親とプラスの面でつながり、コミュニケーションを取る機会を増やすようにすると、親に「私は能力がある」「人びとは私の仲間だ」感じてもらいやすくなるかもしれません。そのための働きかけとしては、たとえば以下のような事が考えられます。
- 共通の話題を継続的に提供する
日々の出来事をメールやSNSで報告したり、電話で話したりして、近況を共有することができます。「今度、あそこへ行くんだ」とか「今日の朝ドラ見た?」といった日常的な雑談ができることは、何気ないことのようですが、人と人との関わりにおいてはとても大切なことだと言えます。 - 親の知識や経験は貴重なもの。様々なことを相談する
冠婚葬祭のしきたりやおせち料理の作り方など、親が得意とする分野について「教えてもらう」ことや「意見を聞く」ことも、親が「私は能力がある」「人びとは私の仲間だ」と感じることにつながります。もちろん、相談したり教えてもらったことすべてに従わなければならないというわけではありません。そのような場合には、例えば後で「教えてもらったのとはちょっと違うけど、今回はこういう風にしたの。あのときは助かったわ、ありがとうね。また何かあったら相談するね。」などと伝えられると、また会話をするきっかけにもなるでしょう。
問題が起きた時は陰性感情に注意!
たとえば親が「不満を言う」など、子どもが陰性感情をもつような行動を始めたときも、感情的になってすぐに反論してしまうと「権力争い」というこじれたコミュニケーションに陥りかねません。とても大切なことは、自分に陰性感情があると思ったらまず「土俵から降りる」ことです。「戦わない、降参しない(Never fight Never give in!)」です。たとえば、その場を離れるなどして、陰性感情を落ち着けます。相手(ここでは高齢の親)を言い負かすことよりも「もう一度、仲間になること」を目標にすると、できることが見つかりやすいです。
陰性感情が落ち着いている時には、次のような方法で相手の話を聴いてみることができます。そのときに、自分の正しさを主張しようとして話を聴いては何にもなりません。ですから、話を聴きながらも、終始自分の陰性感情に注意することは極めて重要です。話しを聴く目的はあくまでも、親の考えを理解し協力することにあるのです。
- 相手の話を最後まで聞く
相手の方に心と体を向けて、相槌を打ちながら、話を遮らずに最後まで聞きます。それだけで相手の気持ちが落ち着くこともあります。また、相手の話を最後まで聞いてはじめて、相手にもこちらの話を聞いてもらいやすくなります。 - 「開いた質問」を使って、相手に話してもらう
「開いた質問」つまり「はい/いいえ」で終わらない質問(例:「へえ、例えばどんなことがあったの?」)をすることで、相手は自分の気持ちや状況をより自由に話すことができます。 - 相手の言葉の背景を理解する
相手の不満話を聞いているうちに、不満の裏にある相手の望みや目標、良い思い出などが語られることもあります。例えば「夫の金遣いが荒い」という不満も、見方を変えれば「気前が良い」という長所を語っていることに気づくかもしれませんし、話を伺っているうちに「将来に備えて今できるだけ貯金しておきたい」などという相手の望みが語られるかもしれません。じっくり話を聞くことで、相手の考えをより深く理解することができますし、建設的な目標が見つかれば、それに向かってともに協力してできる事が見つかるかもしれません。
尊敬と信頼の出発点は?
親に対しても、他の人間関係と同じく、「相互尊敬」「相互信頼」「協力」「目標の一致」の「相談的人間関係」が大切です。まずは、こちらから親に対して尊敬や信頼を始めることが、相互尊敬や相互信頼の第一歩となります。
親子関係にはそれまでの長い関係の歴史があって、その上に今現在の状態があります。ですから、実を言うとアドラー心理学的には、エピソードや個々の事例の状況を聴かずに一般的なアドバイスだけする、などということはできないのです。
実際のところ、相手を尊敬したり信頼することがとても難しいという関係の親子もあると、認めざるを得ません。そういう場合は、今すぐに協力的な横の関係を築くのは容易なことではないでしょう。しかしそれでも「親とよりよい関係を築きたい」という願いがあるならば、たとえ親がどのような行動をしたとしても、「これに対して今ここでどのように行動すると自分の望むようなよい関係に近づけるか?」と考えて、ごく些細なことから、今までとはほんの少し違ったことをはじめてみることができるかもしれません。
認知症への応用
認知症には特有で不可逆的な症状があります。そうした症状に対してどのように対応するとよいかは専門家の意見を聞かれることをおすすめします。そのうえで、ここでご紹介した考え方は、親が認知症になった場合でも応用できます。病気自体が治せなくても、私たちの向き合い方で、日常生活の様子や症状が変わってくることはありえます。けっして容易いことではありませんが、どのような状態であろうとも相手を尊敬・信頼し、相手に「私は能力がある」「人びとは私の仲間だ」と思ってもらえるようなコミュニケーションを続けることが大切だと私たちは考えます。
付記: 「終活」について ~現代社会における「家族」のあり方~
アドラー心理学は、自分の人生をどのように終わりにするかも究極的には自分が決めるのだと考えています。これが個人の尊厳だと考えます。
たとえば、病院のベッドの上ではなく、住み慣れた家で、家族に囲まれて最期を迎えたいと願っている人もいるでしょう。また、できるだけ人に関わられずに、静かに逝きたいと望む人もいるでしょう。可能なら臓器を提供したいと考える人もいるでしょうし、それは絶対にイヤだと考える人もいるでしょう。一方で家族の方にも、どうしてほしい、という願いがある場合もあるでしょう。これらは、どの願いが正しいとか、よいとか、どうすべき、とかいうものではありません。ただ確かなことは、どのように亡くなるかについて、亡くなる側ただ一人で上手に決められるケースは、少ないということです。
このようなことについて親子や家族の間で話をしておくことは、とても大切なことだとアドラー心理学では考えます。もちろん命と、それぞれの人生がかかった話し合いなのですから、軽々しく行うことはできません。そのため、こうした話をお互いに包み隠さず率直にできる、とてもよい家族関係を普段からつくっておくことが極めて大切になります。
その人が望む最後の迎え方を家族が理解することができれば、家族は可能な限りその実現に協力することもできるでしょうし、家族の方も、望みがあれば伝えてもかまわないのです。そうした話し合いができておれば、現行の社会制度や持っている資産をどのように活用するかなども、冷静かつ現実的に考え、相談しながら決めることができるでしょう。
高齢者との付き合いは、単なるさしあたってのコミュニケーション技術の問題ではありません。「お年寄りとどう暮らすか」ということは、私たちがどういう方向を目指して家族を、ひいては社会をつくって行くのかという、より大きなテーマの一端なのです。尊敬、信頼、そして協力を基盤とした人間らしい関係を、私たち自身の決意によって見直し築いていくことが人びとが幸福に暮らせる社会を築いていく上で極めて大切だと考えます。
アドラー心理学を教育現場で活かすには、アドラー心理学の理論、特に「目的論」に沿って様々な問題を考えることと、教師が生徒に対して「協力的な横の関係」でコミュニケーションをすること、この2点に注意が必要です。この土台の上に立つことによって、教科や人との関わり方など、将来社会をつくって行く人として必要な様々なことを、「賞罰」ではなく「勇気づけ」で学んでもらうことができます。
アドラー心理学を学校教育の現場で活かすためには、さまざまな機会に次の二つの点に注意することが重要です。
一つはアドラー心理学の理論、特に「目的論」にもとづいてものごとを考えているかに注意することです。
もう一つは、教師自身の、子どもたちをはじめとした他者との向き合い方にいつも注意を向けていることです。教師が「縦の関係」をつくる「競合的」な構えを持っていると、クラス全体も競合的な雰囲気になってしまって、いわゆる問題行動をする子どもが出てきたり、子ども同士の仲が悪くなってしまうことにつながります。反対に、教師が「横の関係」をつくる「協力的」な構えを持っていると、クラス全体が「協力的」な雰囲気になり、あたたかく、お互いに助け合うクラスになりやすいです。
ではそれぞれの注意点について、もう少し深く見ていきます。
- 「目的論」で問題を見る。
アドラー心理学の基本前提のなかに「目的論」という考え方があります。
クラスで起きた問題について考える時に、何が原因かではなく、どういう風になったよいのかを考える視点につながります。また、生徒の問題行動について考える時も、その子は何が原因でその行動をするのか、よりも、何のためにその行動をするのか、について考えると、問題解決の糸口が見つかりやすいとアドラー心理学は考えます。
教師が問題だと感じるような行動をする生徒がいるときに、その行動の原因を考えてそれを取り除こうとしても、物理学や化学のようにははっきりとした原因が見つからないことが多いです。原因が見つからないときに原因を取り除くことは無理でしょう。行動の原因ではなく目的を考えるなら、その目的(目標)が、実現しても問題のないものであれば、目標が実現できるような他の行動を考えればよい、ということになります。
人のすべての行動の究極的な目標は「所属」だ、とアドラー心理学は考えます。つまり、人の行動の目的は集団(社会)の中に自分の居場所を確保すること、と考えるのです。居場所を確保すること自体は、よい目的(目標)です。ひょっとしたら、生徒の「問題行動」も、クラスへの「所属」あるいは教師との「所属」という、本来よい目的(目標)のために行われているのかもしれません。そうであれば、生徒にその行動を改めさせる、という方針よりは、別の(問題とならない)行動で目標実現ができるように援助する方が、その生徒にとってもクラス全体にとってもプラスの方向へ向くと考えます。
さらに関心がある方はぜひ、「Q こじれたコミュニケーションの5つの段階」をご参照ください。
- 「競合的な構え」と「協力的な構え」、「縦の関係」と「横の関係」
競合的な構えは縦の関係をつくり、協力的な構えは横の関係をつくり出します。
競合的な教育の中には、「権威的」な教育と「放任的」な教育があります。
権威的な教育では、教師が生徒に命令し管理し生徒を支配しようとします。生徒は恐怖心から規律を守りますが、「権力を手に入れて弱い者を支配しよう」「強い者の前ではいい子でいて、陰では何をしてもいいや」などと考えるようになります。
放任的な教育では、生徒のすることを何でも容認します。一見優しそうに見えますが、ウラを返せば無責任ということになります。限界を設定しないので、生徒は「自分がやりたいことは何をしてもよいのだ」と考えるようになり、自分で責任を取ることや、社会の中でしてはいけないことを学べません。また、自分がしたいことができないと、「自分がやりたいことができないのは○○のせいだ」などと、他者や社会を責めたりするようになるかもしれません。
協力的な教育は「民主的」な方法をとります。教師は「教師と生徒は立場が違うが人間としては対等である」と考え生徒を「尊敬」「信頼」し「横の関係」を築きます。教師としての責任を果たし、生徒とたえず協力して問題を解決しようとします。そのような教師のあり方から生徒は責任を学び、教師とも、生徒同士も、協力し、話し合って物事を解決しようとするようになるでしょう。
競合的で権威的な教育で使われるのが「賞と罰」という方法で、協力的な教育で使われるのが、「勇気づけ」です。
アドラー心理学を教育現場で活かすために不可欠なのが、以上の2点です。
次に、これらの点に注意しながらどんなことをしていくのがよいか、について述べます。
アドラー心理学では、人間が協力的な横の関係にもとづいて暮らせるのがよいことだと考えています。「勇気づけ」を行っていくことは、アドラー心理学を教育現場で実践することに他なりません。
「勇気づけ」の基礎と応用
それでは、「勇気づけ」というのはもう少し具体的にはどういうことでしょうか。アドラーをはじめアドラー心理学の先人たちは「勇気」や「勇気づけ」について様々な表現を用いています。野田俊作は育児学習コース『パセージ』で「『勇気づける』というのは、子育ての心理面の目標、1)私は能力がある。2)人びとは私の仲間だ。に向かうように、子どもを援助することです。」と述べています。
『パセージ』ではそのための実践的な方法を、段階を踏んで学んでいきます。
そのうちここでは最も基本的なことだけをご紹介しますと、
- 子どもの話を聴く
- 子どもの適切な行動や適切な側面を探す
この2つとなります。
「勇気づけ」というのは、ある特定の「言葉がけ」や行動などでは決してありません。ある言葉や行動が勇気づけになるかどうかは、教師の「構え」によっても違いますし、個々の子どもによっても違います。
たとえば子どもの話を聴くときに、「この子は困った子だ。なんとかしてあげなければ。」と思いながら聴くのと、「この子は困った行動をしたけれど、悪い子ではない。よいところもたくさんある。この子は何を望んでいるのだろう?」と思いながら聴くのでは、「勇気づけ」になるかどうかが全く違ってきます。また、たとえば「がんばれ!」という言葉が勇気づけになる子どももいますし、この言葉で勇気をくじかれてしまう子どももいます。ですから、何がその子にとって勇気づけになるかを知るためには、いつでも子どものことを観察していることと、プラスの感情を持って子どもとコミュニケーションすることがとても大切になります。
上述のような注意点や小さな実践を基礎としながら、さらに発展した実践として「クラス会議」を行う事ができます。
クラス会議は、みんなで自分たちのクラスをよりよいものにしていくためのものです。教師と生徒や生徒同士が協力的な横の関係で行われると、とてもよい勇気づけの場になります。ここでは教師は「ボス」ではなく「コーディネーター」の役割になります。クラスは、お互いに援助し会う場になり、クラスのルールなど決め事もここでみんなで決める事ができるようになるので、生徒は「民主的」な方法を学ぶ事ができます。
こうした事を実践するためには、文字情報ではなく講座で体験から学ぶのが効果的です。まずは基礎講座のご受講をおすすめします。
参考図書:『アドラー心理学でクラスはよみがえる』野田俊作・萩 雅子,創元社,2017
アドラー心理学では賞罰に代わる教育法としてこの「結末から学ぶ技法」を重視します。米国のドライカースは「自然/論理的結末」を提唱しましたが、文化の違いや誤用によって支配や罰の道具になりかねない課題がありました。これを受け、日本の野田俊作は日本の文化特性や臨床リスクに配慮し、「自然/社会/論理の結末」の3つに再定義して導入しました。特に「論理的結末」は成熟した親子関係が前提の高度な技術であり、ハラスメント化するリスクを避けるためにも段階的な学習が不可欠です。
一般に人がものを学ぶ方法には、ことばを通じて学習する、親や先生などのモデルを見て学ぶ、試行錯誤をしながら体験を通して学ぶ、という3種類の学び方があります。人が子どもから大人へと成長していくには、このいずれの方法も大切となります。ですが、このなかで最も効果的に、子どもが自ら学び成長できる学び方は、試行錯誤をしながら行動の結末の体験を通して学ぶ方法に他なりません。アドラー心理学ではこうした教育法について、アメリカにおいてはドライカースが「自然の結末」と「論理的結末」から学ぶ技法を提唱し、日本においては野田俊作が「自然の結末」「社会的結末」「論理的結末」の3つから学ぶ技法を提唱しました。
まずは野田のアイデアから説明します。「自然の結末」とは、「自然の法則」、すなわち物理学的な法則や生物学的な因果関係によって起こる結末のことです。たとえば、雨が降るのに傘を持たずに外に出れば、「自然の法則」によって服が濡れますから、「自然の結末」を体験することになります。さらに、そのために冷えて風邪をひくかもしれませんが、これも「自然の法則」によるものですから「自然の結末」です。子どもは「自然の結末」を自ら体験することで、学び、成長することができます。「自然の結末」の体験に際して、子ども自身と他人の身に危害がおよぶとか、取り返しのつかない結末とかでない限り、親などはできるだけ介入しないほうがよいとアドラー心理学では考えます。
しかし、子どもの教育を「自然の結末」だけに任せていては、子どもは生きていくのに必要な、社会のルールや常識を学ぶことができません。人は社会的な動物ですから、子どもに社会と調和して生きる大人に育ってもらうことが大切です。子どもたちは社会を生きていくため、法律はもちろん、ルールや約束、さらに慣習や文化などに由来する「社会の法則」を学ぶ必要があります。「自然の法則」によって望ましくない「自然の結末」を体験することがあるように、もし「社会の法則」に反する行為を選択すると、なんらかの「社会的結末」を体験することになるでしょう。たとえば、他人のものを断りなく自分のものにすると、「社会の法則」によって叱られる、あるいは罰を受ける、といった結末を体験するのです。このように「社会的結末」を体験することによって、子どもは自らの行為に対する責任を学ぶことができます。
では、3つめの「論理的結末」とはなんでしょうか。これは「論理の法則」によってもたらされる結末です。「論理の法則」とは、親も子どもも、それ以外の誰であろうと、話し合えばともに納得できる「筋の通った」法則性のことです。たとえば食事中に遊ぶのは、常識に照らして好ましくない行動ですし、まわりの迷惑にもなりますから、そのようなことをしてはいけないと子どもに学んでもらわなくてはなりません。「食事中は遊ぶのをやめてください」と親が子どもにお願いしても繰り返されているとしましょう。その場合、親は「食事をするなら遊ぶのはやめてください。遊ぶのなら食事をやめてください」と提案します。これに対して子どもが納得して「遊ぶのをやめる」と言えば、親子で合意したこの法則性によって起こる結末を、「論理的結末」といいます。つまり、それで本当に子どもが遊びをやめるなら食事が続きますが、子どもが遊びを続けるようなら、親は「遊ぶことに決めたようですから、食事は終わりにしましょうね」と言って食事を片づけるという結末になります。
さて、ドライカースの育児法においても、子どもに「自然の結末」を体験させることがなるべく重視されます。ただし彼のいう「自然の結末」とは、野田の言う「自然の結末」、すなわち物理学的な法則や生物学的な因果関係によって起こる結末ではありません。子どもが自らの行為によって自然と起こる結末のすべてを指します。ただし、育児において、子どもの行為の中には、取り返しがつかなかったり他者に危害が及ぶような結末を招くものもあり、そうした可能性は、親が「介入」し回避しなければならない、とドライカースは考えました。そこで、自然に起こる結末「自然の結末」のかわりとして、子どもの行為が原因となって起こるはずの出来事のなかで、危険がなく子どもにとって教訓的な結末を親が「演出」し、それを子どもに体験させることを「論理的結末」と呼び、提案しました。
ドライカースの「論理的結末」は、「自然の結末」のかわりに親が結末を「演出」するわけですから、子どもの行為と結末との間には、「自然の法則」の場合と同様の、誰であろうと納得できる原因とその結果という、厳密に論理的な関係がなくてはなりません。なぜなら、行為と論理的に結びつかない結末を子どもに課すことは、親の恣意的な罰に過ぎず、子どもはそこから、どのように行為すればどのような結果に至るのかといった物事の道理を学ぶことができないからです。しかしながら、親が自分では「論理」と思い「演出」しているつもりでも、実際には単に親の私的感覚に基づくものであったり、社会の共通感覚に反していることがあります。そのため残念なことに、アメリカではこの技法が子どもを支配する技術として悪用される、あるいはそのように意図しなくとも使い方を誤って罰や支配の道具となってしまう、等の問題が起こりました。
それに加え、日本人は親も子どもも、そもそも欧米人ほど論理的ではありませんし、欧米のように、情よりも論理に価値を認める文化ではありません。また私たちが思考とコミュニケーションに用いる日本語それ自体が、英語ほど明確な論理的構造を持っておりません。にもかかわらず、親が「論理的結末」を「演出」し、平然とポーカーフェイスで子どもに経験させる、というアプローチは、はたして日本で可能でしょうか。
そのため野田俊作は、アドラー心理学による育児を日本に導入するなかで、日本人が分かりやすく、なおかつ安全に実践できるように、「自然の法則」「社会の法則」「論理の法則」に基づく結末をそれぞれ「自然の結末」「社会的結末」「論理的結末」と名づけて定義し直しました。このように、ドライカースのアイデアと日本で教えている「結末」との間に大きな違いがあるのは、臨床上の問題点に配慮しながら、各国の文化的な特性に対応するため工夫を重ねた結果です。ただし、どちらにしましても、賞罰とは決定的に異なる、子どもが自ら学び、成長を促す技法であるという点には変わりありません。
なお、親子の関係が成熟しないままで「論理的結末」の技術を使うと、ハラスメントやDV、あるいは病的な親子関係となってしまうことさえあります。
たとえば、他の子どもを叩いてしまう子どもと、その親の間で、次のような約束をしたとします。「もしあなたがお友だちを叩いたら、私はあなたを家に連れて帰ります。もしあなたがお友だちと仲良く遊ぶなら、ここで遊ぶことを許します」。これは直ちに「論理的結末」といえるでしょうか。もし親が冷静に、そもそも友達とは叩いてよいものではなく、叩かないのが世の中の常識であり、お互いに叩かずにいてこそ友達同士として仲良く一緒にいられる、と子どもに伝え、子どもがそれを理解して、その結末として上記のような約束を交わしたのであれば、それは紛れもなく「論理的結末」といえるでしょう。しかし、子どもと冷静に話し合うことをせず、子どもが納得しないまま「あなたはどちらを選びますか」と選択肢を提示し、無理やりどちらかを選ばせたのなら、これは押し付けられた罰にほかなりません。子どもはいったんは親の言うことを聞いて叩くのをやめるかもしれませんが、人と仲良くするためにはどう行動すればよいかという、最も学んでほしいことを学ぶことができないでしょう。ましてや、連れ帰られた場合には、不平不満だけが残るでしょう。
このように、親子が仲間でない状態で使おうとすれば、「論理的結末」という技法は100%失敗します。「論理的結末」は、親子の関係が成熟してはじめて使える技術なのです。AIJでは、子どもがそのような悲劇に陥いることのないように、「論理的結末」は『パセージ』の上級編である『パセージ・プラス』で扱うこととし、『パセージ』では、理解しやすくリスクも比較的低い「自然の結末」と「社会的結末」について、練習を交えながら丁寧に学んでいただきます。
現代社会とアドラー心理学
アドラー心理学を学ぶことで、自己理解が深まります。人間関係において「相互尊敬」「相互信頼」「協力」「目標の一致」「勇気づけ」「葛藤解決」などを学ぶことを通じて、自分の人生を主体的に切り開き社会と調和した生き方について知ることができます。
アドラー心理学を学ぶことで期待できる個人の変化は多岐にわたります。
まず、周りの人との関係において、相手と協力的な関係になるには自分はどうしたらよいかを知ることができます。人間関係は、例えば子育てや家族関係、教師や保育士など子どもに関わる方の人間関係、職場の人間関係などで、困りごとや悩みについて解決に向け、実際に起きた「エピソード」を基に学ぶことができます。
自己理解が深まり、自分の行動や感情の背後にある目的や自分自身が大事にしている価値観に気づくことができ、相手と協力できる目標を見つけることができるようになります。これにより、実践を重ねていくうちに、不適切な行動のパターンを抜け出して、より建設的な生き方を選び取る力が養われます。
また対人関係において、相手を尊敬し信頼し協力し目標の一致をとることや葛藤の解決方法などを学ぶことで、競合的な関係から協力的な関係に変容し、不必要な摩擦や悩みが軽減されるでしょう。さらに、「共同体感覚」を学び「勇気づけ」を実践することで、自分自身や周囲の人とともに人間的成長が得られるかもしれません。例えばアドラー育児を学び、親子で話し合い、親子で一緒に成長するように。
総じて、自分の人生を主体的に切り開き、社会と調和した生き方を実現するための知恵と勇気が得られるでしょう。
アドラー心理学は、他者との優劣を競うのではなく、個々の違いを認めながらも、人としての価値は平等(equal)であるという立場に立ちます。他者との比較から自己の成長と人々への貢献へと視点を移し、寛容さと建設的な対話を育むその姿勢は、現代の生きづらさを乗り越える示唆を与えます。
アドラー心理学は、現代の生きづらさに対するアンチテーゼであるとともに、建設的な生き方への処方箋でもあります。
まず、アドラー心理学でいう「平等(equal)」とは、「誰もが同じ(same)」であることではありません。そうではなくて、「それぞれの違い」を認めながらも、「人としての価値は平等(equal)」と考えるのが、アドラー心理学のいう「平等」です。体格や能力、文化、価値観などがひとりひとり違うのは当たり前であり、それらによって、人としての価値が決まるわけではありません。こうした考え方に基づくことで私たちは、「人と同じでなければならない」「人より優れていなければならない」という思い込みを捨てることができます。なおこれはお互いの違いのみを強調して、ひとりひとりを引き離し、孤立させようとするものではありません。異なる能力、体格、価値観などを持つ者同士が共存し協力しあうためにこそ、私たちはお互いを対等な人間として尊敬し理解しようとするのです。
またアドラー心理学は、自分と違う意見や価値観に出会ったとき、直ちにそれを「間違い」だと決めつけるのではなく、「そういう考え方もある」と受け入れる寛容な姿勢を育みます。これは、人間関係の摩擦を減らし、建設的な対話を可能にします。ただしこの寛容は、他者への寛容を認めない姿勢や考え方までを認めるものではありません。アドラー心理学は「不寛容」に対しては「不寛容」なのです。これは昨今の虚無主義的な風潮と、アドラー心理学を明確に分かつ点ともいえるでしょう。
そしてアドラー心理学では、たとえ競合的な社会のなかであっても、他者との比較や争いに明け暮れるのではなく、仲間同士のお互いの成長や、人々が暮らす社会への貢献を大切に考えます。これは努力を否定するものではなく、破壊的な競争ではない、社会に対して建設的な貢献の道を、それぞれが見つけることを意味するのです。これらは、現実離れした理想論だと批判されるかもしれません。しかし、現実(ザイン sein)だけを見ていては社会は良くなりません。アドラーのように、人間が協力し、調和して生きるという理想(ゾルレン sollen)を掲げ続けることが、より良い未来を創造する原動力になるのです。
アドラー心理学では職場の人間関係を「仕事のタスク」と呼び、比較的扱いやすいと考えます。具体的な状況やエピソードを聴いた上で個別の対応策を検討します。
アドラー心理学では、個人をめぐるすべての対人関係を「愛のタスク」「交友のタスク」「仕事のタスク」の3つに分類します。一般に「愛のタスク」と「交友のタスク」は一生にわたって継続するものですが、職場での対人関係は、ふつうそこまで長続きしません。このような永続しない対人関係を「仕事のタスク」と呼びます。「仕事のタスク」は人格的なふれあいを前提としませんので、濃密な関係である「愛のタスク」などに比べると、比較的扱いやすい課題と言うことができます。
とはいえ、たとえ永続しない人間関係であっても、同僚や上司・部下の方との人間関係が良好であれば、それにこしたことはありません。ご質問が広いため具体的なアドバイスを申し上げることは難しいですが、アドラー心理学のカウンセリングでは、まず丁寧にお仕事の内容や職場の状況、組織における役割などをお聴きし、その上で相手の方との具体的なエピソードをお聴かせいただきます。具体的なやりとりを伺ってはじめて、個別の対応策・代替案を考えていくことができます。
トラウマ・原因論の否定について
アドラー心理学は、トラウマが現在を決定するという原因論の立場をとらず、むしろその経験に本人自身がどのような意味づけを与え、それを現在の暮らしの中で「目的」のためにどう用いているかを重視し、その意味づけは見直し可能であると考えます。
トラウマに関しては、フロイトの精神分析学が主張するように、現在の行動や感情のすべては過去の心的外傷(トラウマ)によって直接的に決定されている、という考え方と、現代の精神医療分野の知見が示す、「トラウマ」の生理的影響からPTSD等でみられるような症状が発現したり発達過程に広範な影響を与えうる、といった点が広く知られています。アドラー心理学は後者の生理的側面の重要性を踏まえつつ、以下のように、精神分析学の主張とは異なる立場をとります。
アドラーはトラウマについて、「私たちは経験による衝撃――いわゆるトラウマ――に苦しむのではなく、自分の目的に合うようにそれを解釈するのだ。」と述べています。アドラー心理学ではこのように、個人は自分の経験する出来事を主観的に、つまり自分の「私的意味づけ」に沿うように解釈し、利用して暮らしていると考えます。
そのため臨床では、ある経験に対して個人がどのような「意味づけ」をし、現在の人生を生きていくにあたってそれらをどのように用いているかという点を重視します。トラウマの経験を用いるよりも他に、人生の目標を達成するために有効な方法があるとわかると、より建設的な生き方を見出す可能性が開かれます。このように、アドラー心理学はトラウマに関してフロイト的な原因論の立場には立ちません。
ただし、ある体験をきっかけとして人に身体・精神症状が出現することがあること自体については、アドラー心理学は否定するものではありません。深刻なトラウマ体験による影響から回復するには、専門的な治療や長期的な心理的支援が不可欠となる場合があります。出来事をきっかけに個人が緊急的な、あるいは重篤な心理的危機に陥っている場合は、まずは精神科医療や危機介入に関する心理専門職の方の介入が優先されます(アドラー心理学の適応範囲についてはAIJアドラー心理学カウンセラーにお問い合わせください)。
世間で言われているような「アドラー心理学はトラウマを否定する」というような表層的な考え方をもとに、深刻な体験をきっかけに実際に苦しんでいる人に向かって「トラウマなんて気のせい」などと伝えるようなことは、あってはなりません。
アドラー心理学は、強い生理的ストレスや長期的なストレスが脳に生理学的変化を与えるといった科学的な知見を否定してはいません。また、過去に経験した出来事が現在の個人の思考、感情、行動に影響を与えることも、否定していません。なお、ある出来事がきっかけとなって緊急的あるいは強度の心理的危機状態にある場合は、まずは精神科医や危機介入を専門とする心理職の介入が優先されるべきと考えます。
アドラー心理学が否定するのは「トラウマ」に関する原因論的な見解であって、過去の出来事が現在の個人の思考・感情・行動に与える影響を完全に否定するものではありません。強い生理的ストレスが脳の生理学的変化やトラウマ記憶の特殊な処理への影響を招き、症状を残す可能性は認めています。そもそもPTSDに関する論文を世界に先駆けて1943年の時点で示したのは、他ならぬアルフレッド・アドラーの娘、アレクサンドラ・アドラーです。(Adler, Alexandra: Neuropsychiatric Complications in the Victims of the Boston Coconut Grove Disaster, J.A.M.A 123:1098-1101 (Dec.25)1943.)
また、アドラー心理学では個人は現在用いているライフスタイルを、おおむね子ども時代に選び取る(形成する)と考えます。ですからライフスタイル形成期における環境や経験は、間接的には、現在の個人の嗜好や感情・行動にも影響を与え続けているということができます。そうした過去の出来事(経験)をどのように活かすかを、現在の自分自身が主体的に決断し、ライフスタイルの示す「人生目標(優越目標)」達成のためにそれらを主体的に使用していると捉えるのがアドラー心理学の立場です。
なお、ある出来事をきっかけとして緊急的あるいは強度の心理的危機状態が見られる場合は、その時点ではアドラー心理学による心理療法の適応範囲にはありません。その場合は精神科医や危機介入を専門とする心理師の方の介入が優先と考えます。
アドラー心理学は、深刻な虐待や災害による苦しみを「利用しているだけ」といったような軽々しいものとは決して考えず、むしろその苦しみや不安などを、直面した脅威から「自分の身を守る」という切迫した目的のため個人全体が用いていると捉えます。
目的論に関するお尋ねかと思います。アドラー心理学では、感情や思考もまた何らかの目的を実現するために個人が主体的に用いていると考えます。個人は、自分にとって重大な意味があるからこそ他ならぬその感情を用いるのであって、「利用しているだけ」などといった軽々しいものではないのです。アドラー心理学は、深刻な虐待や恐ろしい災害に合われた方の、苦しみの現実やその深さを否定するものではありません。その後も続く気持ちの動転や強い不安まで含めて、それらは人間に本来的に備わっている、自分の身を守るための重要な仕組みであると考えます。つまり、こうした場合に出てくる様々な感情や思考も、全体としての個人が、遭遇した脅威に対応し、その先も社会の中でよりよい状態で生きていくために用いている、最大限の努力なのである、と考えるのです。
しかし、本来は身を守るためのそうした心身の働きが強まりすぎて、かえってご本人があまりにも暮らしづらさを感じておられる場合は、専門家による治療を検討されたほうがよいと考えています。ことに、非常に強い衝撃を受けるような出来事をきっかけに緊急的な心理的危機を引き起こしている場合は、一般的にはアドラー心理学によるカウンセリングや心理療法の適応とはなりません。その場合は、精神科医や危機介入を専門とする心理師の方の介入が優先されます(詳しくは危機介入というキーワードでお調べください)。
そうした上で、アドラー心理学のカウンセリングが必要とされる場合には、医療にかかっているときは主治医の承諾を得た上で、まずその方がご自分の体験にどのような意味づけをされて、それに基づいていまどのように生きておられるかについて焦点を当て、そこから、これからどうしたらより建設的な方向へ進めるかを、ご本人に寄り添ってご本人と共に考えていきます。
アドラー心理学では、たとえ問題の過去の原因が分かっても、それだけでは解決しないことが多い、という実践的な立場から、「原因探し」に終始するのではなく、本人が「どのような理想的状態に向かって行動を起こしているのか(目的/目標)」を明確にし、それが本人や人々にとって適切なものならば、その達成のために「何ができるか(行動)」について話し合い、そうした行動へと本人を勇気づけます。
アドラー心理学の臨床では、ある実際のエピソードのなかで、具体的な「対処行動」がどのような仮想的目標を実現するために行われているかを確認し、その目標やそれを実現するための対処行動が適切なものであるか、つまり、社会的に受け入れられる目標や行動かを検討します。その上で、新しい目標やそれを実現するための実際的な代替行動について話し合い、そうした目標や行動をご本人が選択できるよう勇気づけます。そこでは原因の代わりに目的(目標)に焦点を当てることで、洞察と具体的な行動変化を促し、問題解決を目指すのです。
アドラー心理学ではすべての行動に無意識的な「目的(目標)」があると考えますが、自分ひとりでそれを探るのは非常に困難です。そのため、他者の視点も介在するカウンセリングやグループワークなどで、具体的なエピソードからアドラー心理学の理論と臨床技法に基づいて分析を行い、もし必要ならばより建設的な目的(目標)を見つけ出して、その実現に向けて新しい行動をとれるよう勇気づけを行います。
人は「相対的マイナス」すなわち「現状」から、「相対的プラス」すなわち「目標/目的」を目指して行動する、というのが、アドラー心理学の基本的な考え方です。つまりアドラー心理学では、すべての行動には何らかの「目的」があると考えます。通常この目的は無意識的なものです。一つ一つの行動のレベルでもその行動の目的を考えることが可能ですし、そうしたいくつかの行動に共通する目的を考えることは、ライフスタイルを知ることにつながります。
ご質問はそうした自分の行動の目的を、自分で見つけ出すにはどうするか、というご主旨かと思いますが、結論から申し上げますと、自分自身で見つけ出すことは非常に困難です。
人の行動というものは、その人独特のものの見方に裏付けられています。行動の目的に気がつくとは、その人ならではのものの見方を探り、それに気がつくことでもあります。
しかし、自分で自分のものの見方を見ようとしても、なにしろそのときも「自分固有のものの見方」を通してそれを見ているのですから、ちょうど色のついたガラス越しに同じ色を見ようとするのと同じで、なかなかその特徴を掴むことができません。たとえ自分の周りの他人には一目瞭然でも、自分だけは、それがどういったものか分かりにくいのです。
ですから、普通の日常でのある行動の目的もそうですが、ご自身のあらゆる感情や思考、行動全体に一貫する「目的(目標)」を見つけるとなると、他者の視点を経由して探るほうが正確な答を得やすくなります。ここにカウンセリングやグループワークの意味がある、といえます。アドラー心理学のカウンセラーによるカウンセリングや、エピソード分析を学ぶグループワークでは、クライアントの実際のエピソードをもとに、アドラー心理学の理論と臨床技法に基づいて、そこでの本人の感情の動きや行動のパターンを分析し、背景にあるその人固有のものの見方や目的(仮想的目標)を、あたたかな受容的な雰囲気のなかでクライアントとともに誠実に探求します。そしてもし必要があれば、ご本人と周囲にとってより建設的といえる新しい目的(目標)を見つけ出して、それを実現するための新しい行動を選択することへの勇気づけを行うのです。
後悔という感情自体は経験を次に活かすための自然なものですが、過去に捉われて「今やるべきことができない」状態が続く場合、アドラー心理学ではそこに別の目的があると捉えます。それは、過去のせいにして無意識的に現状維持を正当化したり、不幸を強調して周囲の同情や援助を得たりすることかもしれません。そのためカウンセリングでは、後悔を未来への学びに変え、「これからどうするか」に目を向けられるよう勇気づけます。
後悔という感情自体は、他の、例えば怒りや不安などといった感情と同じように、自然なものです。通常は、次に同じような事があったときにはこのときとは別の行動を選択しよう、といったような、警告や教訓、あるいは別の行動をとるためのエネルギーとして使われます。しかし、後悔している出来事からすでに歳月が過ぎているにもかかわらず、いつまでも「あの時こうしていれば」という思考や後悔の感情をあまりにも強く持ち続け、「そのために今やるべきことができない」といった状態にある場合は、そこには何か別の「目的」が隠れている可能性があるとアドラー心理学は考えます。つまり、「あの時違う選択をしていれば、今の苦労はなかったのに」あるいは、「あの出来事のせいで今、○○ができない」と思い詰め、無意識的に、現在の困難を過去の出来事のせいにして現在の行動を正当化していたり、目の前の課題に向き合うことを避けたり、周囲に「あの時の選択や出来事のせいで、こんなに私は不幸だ」と強調することで同情や援助を求め続けていたりする可能性があり、それはあまり幸福な暮らし方ではないとアドラー心理学は考えます。アドラー心理学のカウンセリングでは、その人がその感情を伴う出来事を未来への建設的な学びに変え、「これからどうするか」に目を向けられるよう必要な時間をかけて勇気づけるでしょう。
課題の分離について
親の責任とは、課題を肩代わりするのではなく、「課題の分離」を協力への準備段階と位置づけ、子どもが自ら課題に取り組む「勇気」を持てるよう援助することです。
「課題の分離」は放置や責任放棄ではありません。「課題の分離」とは、親子あるいは仲間同士が支え合い、協力し合って暮らすための、その準備のプロセスなのです。文化的な傾向として、課題が誰のものなのか混乱しがちな日本でも、安全にアドラー心理学が使えるようにと、かつてのドライカースのアイデアを元に、野田俊作が考案しました(関連ページ)。
ときどき世の中で、「課題の分離」をアドラーの思想の核心のように説明していることがあるようですが、それは全くの誤りです。「課題の分離」はアドラー自身の主張には含まれていませんし、またこれは相手を勇気づけるためのプロセスのひとつであって、目指すべき理想や哲学ではありません。親子それぞれが自分の責任を果たしながら、協力しあって暮らしていくことが、アドラー心理学に基づく家族の暮らし方です。そうした分担と協力の準備のためにこそ、いったん課題を「分離」するのです。したがって、課題を機械的に切り離すことが「課題の分離」なのではありません。横の関係で心から話し合い、どの課題が誰の負うべき課題なのかを明らかにすることが「課題の分離」なのです。
親としての責任は、子どもの課題を肩代わりすることではなく、子どもが自分の課題に取り組む「勇気」を持てるよう援助することです。具体的には、子どもの話をよく聴いたうえで、子どもを信じ、見守り、励まし、見届ける、必要ならば子どもと話し合って勉強の環境を整える、子どもが困っている様子ならば「なにかお手伝いできることはありますか?」と問いかけ、子どもから相談されれば応じる(答えを教えるのではなく考え方を導く)などの援助が考えられます。いずれにせよ、親のどのような対応が子どもへの勇気づけになるかは、その親子それぞれで違います。しかしながら「それは子どもの課題だ」と切り離すことは、多くの場合は子どもの勇気をくじくことになり、それはアドラー心理学が伝えている「勇気づけ」とは違うものになってしまうでしょう。
「課題の分離」は無関心や放置を推奨するものではなく、相手の課題に土足で踏み込まない範囲で協力的な姿勢を示し、必要とされる場合に仲間として支援するものです。
「課題の分離」は他者への無関心を推奨するものではありません。対等な立場の仲間にたいして、困ったときは支援が可能と申し出ておくなど協力的な姿勢を示すことは、むしろ推奨される行為です。
だからといって相手の課題に土足で踏み込んだり、無断で相手の責任を肩代わりしたりすることは、相手を対等な立場で尊重しているとはいえません。チームの一員として信頼してお互いに仕事を分担しながら、相手の努力に注目し、必要とされる場合は仲間として可能な支援を行う、こうしたあり方こそが、むしろ良好なチームワークといえるのではないでしょうか。
また、本人が状況的、立場的、精神的、身体的に、助けを求めることができない場合があることにも注意が必要です。そのため、May I help you?という姿勢で「なにかお手伝いできることはありますか?」と尋ねて、相手の話をよく聴いてみることが大切になります。
社会問題は、その波及が狭い範囲で完結せず、社会的に大きな広がりがあり、しかもその結末に直面する側と、解決に向けて対処できる側が多くの場合一致しない、といった特徴を持ちます。にも関わらず「それは個人の課題だ」と片付けて、結末に直面している側だけに全てを押し付け、それ以外の人が何も責任を分担しないのは、「課題の分離」を言い訳にした責任逃れなのではないでしょうか。
世の中で一般に言われている「それは個人の課題だ」とは、その課題を解決すべきなのは課題に直面している本人に限られる、といった考え方を指すように思われます。他方アドラー心理学では、課題への責任とは応答責任(Responsibility)のことであって、本来その課題に対処すべきなのは誰なのかを意味します。
別の例ですが、子供が学校の宿題をするかしないかの結末は、主として子ども本人に帰着します。そこで、宿題という課題は子ども自身の課題であり、対応すべきなのは誰よりもその子ども本人だと考えるのです。ただしより大きな視点から考えれば、その子どもを含む、世の子どもたちが充分に勉強するかしないかは、社会の行く末をも大きく左右します。したがって社会には、子どもたちが勉強をする環境を整えることについて、一定の責任があることになります。社会の一員である親も、その例外ではありません。
このように学校の宿題という、とても個人的でシンプルな例をとってみても、その責任が何もかも、たった一人の人間に集約されるわけではありません。ましてや社会問題は、その波及が狭い範囲で完結せず、社会的に大きな広がりがあり、しかもその結末に直面する側と、解決に向けて対処できる側が多くの場合一致しない、といった特徴を持ちます。
アドラー心理学では、どんな場面でも「私にできること」を考えます。社会的な問題についても、一人ひとりが、それについてどう考えどう行動するか、を自分自身に問いかけ、ほんのわずかでも社会や人々に貢献するほうの道を選んで生きようとすることが大切だと考えています。
その通りで、課題の分離は協力的な関係のための準備作業ですから、一方的に主張するのではなく、まず相手の話を聴き、対話を通じてその課題が誰のものかを互いに確認した結果、相手に任せて様子を見る場合もありますし、「共同の課題」として役割分担をしていく場合もあります。
その通りです。そもそも「課題の分離」とは、様々な課題を本来負うべき人が負うことで適切に分担し、また必要に応じて皆の「共同の課題」として力を合わせて対処していくための、その準備作業にあたります。そのため、まずはじめに相手の話をじっくりと聴き、対話を通じて、その課題がいったい誰にとってのどのような課題であるのかを、お互いに確認することが大切になります。
したがって、ある日いきなり一方的に課題の分離を言い出して、それについて話し合いもせず、またその後を見守って適切な分担だったか確認もしないならば、アドラー心理学が目指す協力的な関係には結びつきません。それではただ、自分は物事の責任から極力逃れて、相手との関係を切り離そうとする姿勢でしかなく、それによる人間関係の悪化は、おっしゃる通り避けられないことでしょう。
承認欲求の否定について
アドラー心理学は他者からの承認を得ようとすること自体を否定するのではなく、他者からの承認を「行動の唯一の目的」とすることを問題視しており、真の貢献とは他者からの承認が得られるかどうかにかかわらず、社会(共同体)に有益な行動を選択することだと考えます。
アドラー心理学の立場は、他者から承認されようとすることを、何もかも否定するわけではありません。他者に対して貢献的な行動をした結果、他者からの承認・賞賛を得られたとしても、何も問題はありません。
問題なのは、他者からの承認や賞賛を得ることが、自分の行動の目的になってしまう場合です。そうした見返りのためだけに誰かの役に立とうとするのなら、アドラー心理学でいうところの共同体感覚に基づいた貢献とはいえません。なぜなら、周りに認めてくれる人がいなければ、その人は貢献的な行動を起こすことがないからです。そうではなく、社会(共同体)の一員として、これはみんなにとってどういうことだろう。みんながしあわせになるために私はなにをすればいいだろうと考えて、そこで社会(共同体)に有益な行動を選択することこそを、私たちは真の貢献であると考えています。
ですので、他者からの承認は、それを目的や目標にすべきものではなく、あくまで良い行動を行ったときに、相手から自然に返ってくる態度のひとつにすぎないと考えています。
人に褒められることや自信を持つことばかりを目的にすると、認められないときに落ち込んで、やる気をなくしてしまいます。認められたい気持ち自体は自然ですが、一番大切なのは褒められることではなく、周りのみんなの役に立とうとすることです。
「承認欲求(esteem needs)」という用語を最初に用いたのは、アブラハム・マズロー(1943)です。つまりこの概念はそもそもアドラー心理学の体系とは別のところにあり、アドラー心理学ではふつうこの言葉は使われません。ただ「承認欲求」という言葉は、世の中で「他者からの名声、評価、注目、尊重への欲求」という意味合いの言葉として定着していますので、ここではそのように解釈し、次のように考えます。
他者からの承認が行動の最大の目標であれば、それが得られなければ自己肯定感が低下したり無気力になったりする可能性は高いと考えられますが、アドラー心理学は自己肯定感そのものを最上の価値だとみなしません。
他者から承認されたり賞賛されたりすることを何よりも大切に思っていて、それが対人関係上の最大の目標になっていると、何かの理由でそれらが得られなくなったとき、無力感や悲しみ、悔しさなどで打ちのめされる可能性は、確かに大きいはずです。それらの陰性感情は、自分の期待が満たされない事態に遭遇した時にこそ感じる感情だからです。しかしそもそもアドラー心理学では、他者から承認されたり賞賛されたりすることだけを目標に暮らすことを、健全な生き方だと考えていません。それでは、それらが得られなければ貢献的な行動しないことになるからです。
ここで、時々誤解がみられるため申し上げますが、アドラー心理学は自己肯定感や自尊心を何よりの価値とするものではないのです。それらの維持や向上だけを目指す生き方は、アドラーのいう自己執着(Ichgebundenheit)のひとつであり、共同体感覚(Gemeinschaftsgefühl)とは明確に矛盾します。共同体感覚を平たくいえば「これはみんなにとってどういうことだろう。みんながしあわせになるために私はなにをすればいいだろう」と考えることです。他方、自己執着とは、「これは私にとってどういうことだろう。私がしあわせになるために私はなにをすればいいだろう」と考えることです。自己肯定感や自尊心を第一に守ろうとすることは自己執着であり、自己執着は共同体感覚とは反対の考え方なのです。
もちろんアドラー心理学は、人が他者からの承認を求めることそのものを否定するわけではありません。人は社会的な生き物ですから、人々に認められたいと思うことそれ自体は、ごく自然な思考といえます。また、社会(共同体)の一員として役立ちたいという気持ちから行動し、その結果として感謝や承認が得られることに、何か問題があるわけでもありません。しかし承認を得ようとすることが、人々に様々な形で役立つことよりも大切になってしまえば、それは本末転倒だと言わねばなりません。
褒められることを主目的にすると、褒めてくれる人の存在や褒められる物事に依存してしまい、個人の成長からは遠ざかると考えます。
褒められることを目標とするのではなく、人々に貢献する行動による成果や、そうした行動そのものに意味を見出すことが望ましいと考えます。行動の結果を褒められれば嬉しく感じるのは自然な感情といえますが、褒められることが主たる目的になると、褒めてくれる人が常に身近にいないと努力ができないか、あるいは、誰かに成果を褒めてもらえる物事しか行わなくなるでしょう。それでは個人としての成長からは、ほど遠いのではないでしょうか。
アドラー心理学からは、特定の場での一時的な賞賛に一喜一憂することよりも、社会に貢献することや人生の持続的な面に、より多く目を向けるよう促すことになるでしょう。
SNSの文化と構造は、他者からの承認を可視化しやすくします。それに加え、注目を集めることが広告収入やプラットフォームでの優位性につながる側面も持っています。こうした特性は、人々が他者からの賞賛に特に振り回されやすくなるという危険性をはらんでいる、といえるでしょう。
これに対しアドラー心理学は、特定の場での一時的な評価に一喜一憂することなく、長く人々と協力しあえる目標やより大きな共同体への貢献といった、社会と人生の持続的な面へ目を向けるよう促すものです。
アドラー心理学は、他者からの評価に過度に依存するのは不健全な生き方だと考えますが、かといって他者に関心を持たず、自己中心的になることもまた適切とはいえません。
むしろ、人が他者からの評価を気にせずには済まないことを説明するのがアドラー心理学だということができます。また仙人のような生活というものが、他者との関わりを絶ち孤立して生きることを指すのならば、アドラー心理学は決してそのような生活を推奨していません。
アドラー心理学では、人は社会に組み込まれた存在だと考えます。したがって、ともに支え合って生きている他者の視線や評価を意識することは、人として自然なことといえます。もちろんそこで、他者からの評価に過度に依存するのは不健全な生き方ですが、かといって他者に関心を持たず、自己中心的になることもまた適切とはいえません。
野田は「自分が人に好かれるか嫌われるかを気にするのは自己執着です。アドラー心理学では、自分が人に好かれるかどうかよりも、自分の行動が人にどういう影響を与えるかを考えたいのです。」と言っていました。
対人関係について
病気や死別、自然災害は、恐怖や身体的苦痛など生理的な苦しみとして体験されますが、その一方で、それらをどのように受け止め、どう意味づけ、そこから周囲とどう関わるかという、対人関係の文脈の中でも体験されます。アドラー心理学で解決できるのは、その対人関係上での「悩み」です。
「全ての悩みは対人関係の悩みである」とは実はアドラー自身の言葉ではないのですが、アドラーは人間が人生で直面する様々な課題について、仕事のタスク・交友のタスク・愛のタスクに分けて考えることで、多くの問題が解決できると考えました。
ただし、ここで留意しておきたいのは、ご指摘の病気や事故、災害等に遭遇した際の身体的苦痛や、それに伴う恐怖や不安そのものは、あくまで「生理的なもの」であるという点です。
アドラー心理学が対人関係上の問題だとするのは、出来事自体やそこから生じる生理的苦痛に対する本人の主観的な意味づけ、さらには起こった状況に対する周囲の反応や副次的に起こる問題に対する「悩み」です(主観的といっても、脳機能への影響から直接生じる抑うつ気分や、幻覚・せん妄・妄想等に伴う切迫感や恐怖感などについては生理的苦痛に属すると考えられます)。
たとえば、病気になったとしても、それを本人がどう受け止め、どう意味づけ、周囲とどう関わるかによって、体験の意味が変わります。つまり病気は、生理的なものとしてだけでなく、対人関係上の「悩み」、すなわち仕事のタスクや交友のタスク、愛のタスクとしても体験されるのです。また、いずれ誰にも訪れる自分自身の死にしても、それに先立つ生理的な痛みや苦しみとしてだけではなく、死に伴って避けられない他者との別離の辛さや悲しみとしても体験されます。アドラー心理学で解決できるのは、そうした対人関係上の悩みです。もっとも、対人関係上の問題が解決することで、結果的に生理的な苦痛が和らぐことも十分にあり得ます。
人間は対人関係に深く組み込まれた存在であり、あらゆる出来事は、対人関係上ないし社会的な文脈において主観的に意味づけられた形で体験されると、アドラー心理学では考えるのです。
はじめからアドラー心理学が第一選択だと決めつけずに、幅広い可能性を考慮すべきであり、アドラー心理学に基づくカウンセリングが適応とされる場合は治療的人間関係(相談的人間関係)を確立しつつ、その人に応じた個別の対応を行います。
まず大事なことは、一人ひとりの状況に応じた適切な対応をとることです。対人関係が極端に苦手であるとか、社会的に孤立しているとしても、どうしてそうなのかは様々な事情が考えられます。
周囲の状況が過酷で、そうするのがやむをえない状況なのかもしれません。場合によっては、カウンセリングよりも先に警察や法の専門家などへの相談が急がれますし、福祉的な支援が必要な場合は、精神保健福祉士やソーシャルワーカー、地域の相談支援事業所などへの相談が重要となります。
あるいは、ご本人は生得的あるいは後天的な障害、または精神疾患による困難を抱えておられるのかもしれません。そうした場合、またはそうした可能性がある場合は、まず専門医療機関(心療内科、精神科、発達専門医など)を受診し、正確な診断と適切な治療・支援を受けることを強く推奨します。すなわち、はじめからアドラー心理学に基づくカウンセリングだけを第一選択とせず、あるいは単独で行うのではなく、幅広い可能性を考慮した対応が望まれます。
アドラー心理学に基づくカウンセリングの適応がある場合は、治療的人間関係(相談的人間関係)のなかで、ご本人のお話をしっかりと聴きます。治療的人間関係(相談的人間関係)とは、相互尊敬、相互信頼、協力、目標の一致ができている関係のことです。カウンセリングでは一人ひとりの個別性を重視し、ある日のひとつのエピソードから、協力的な暮らし方を考えていきます。
ただちに他者との比較や競争意識を完全になくすことは、非現実的かもしれません。それでもなお、お互いに助け合い、協力して暮らしていくことが、幸せへの道だとアドラー心理学では考えます。私たち一人ひとりがお互いへの構えを競合から協力に変えていくことで、未来には協力的な社会が実現すると考えているのです。
まず、ご質問にある「競争社会」という前提自体を検討しなければなりません。というのも、世の中の競争は、むしろ協力関係を伴うことで成立しており、100%純粋な競争社会というものは考えられないからです。
実際の人々の暮らしをよく見てみると、競争の中にも協力関係がしっかりと息づいていることが分かります。競争が激しいビジネスの世界でも然りです。そもそも自由競争とは、公正なルールがあってこそ成立します。そして公正なルールは、人々が協力し合い支え合ってこそ維持できるものです。長年の積み重ねで商取引や雇用、製造等についての法や各種の規定が整備され、また、人々の間で公正な商慣習が積み重ねられてきたからこそ、健全な競争を続けることができるのです。仮に、誰もが協力し合うことをやめ、ルールを形骸化させてしまえば、競争は直ちに無秩序な収奪か、「万人の万人に対する闘争」に姿を変えてしまうことでしょう。しかし幸いにして、私たちが暮らす社会は概ね、そこまで極端な状況にはないと思われます。つまりいわゆる「競争社会」という捉え方は、世の中を一面的に捉えた、かなり偏ったものの見方といえるのではないでしょうか。
とはいえ、世の中に行き過ぎた競争があることもまた確かなことでしょう。それらは、「自分が必ず他者より上でなければならない」「必ず勝たねばならない」といった、個人の競合性によって生み出されると考えられます。ここでいう「競合」とは、自分と他者との間で、どちらが上でどちらが下か、どちらが正しくてどちらが間違っているか、どちらが美しくてどちらが醜いかなどを決めようとする態度のことです。アドラー心理学では、そうした他者との比較や競争意識は、個人の「劣等感」に関係すると考えます。「劣等感」とは、個人が理想とする状態とは違う現実に遭遇したときに起きる感覚のことです。その感覚は往々にして、「私は〇〇の点で人より劣っている」と他者と比較する形で自覚され、私たちはそれを補償しようとして競合的になり、他者と過剰に競いがちです。
そのような、他者を蹴落とし自分が上に上がろうとする「縦の関係」で生きる限り、人はいつも争い、不安におびえて生きていくことになります。しかし、そこから抜け出して「横の関係」で生きる、すなわち自分も他者も人間としての価値は等しい(equal)だと考えて、話し合って協力し、あるいは別個に役割を果たしながら、互いに対等な立場で自分の人生を生きていくことで、安心して幸せに生きていく、そうした選択肢も私たちにはあるのです。
ルドルフ・ドライカース(Rudolf Dreikurs)は、「不完全である勇気(Courage to be imperfect)」と言いました。一人ひとりが自分の不完全さを認めつつ、お互いの価値は等しいのだということに気がついて、自分ならではの役割を果たそうとすることが大切だと、アドラー心理学では考えています。
なお、ご質問が「世の中は100%純粋な『競争社会』だと信じながら、なおかつ、気持ちや態度の上では協力的でいられないか」ということであれば、それは人のあり方として矛盾であり、そのような矛盾を他者に強制することは所謂ダブルバインドであって、当然ながらアドラー心理学の主張はそのようなものではありません。
アドラー心理学はいじめやハラスメントについて、「被害者の課題」として被害者の被った暴力やその苦痛を無かったことにするものではありません。また「自分の受け止め方次第」などと、全ての責任を被害者に背負わせて、加害者側の暴力を免責するものでもありません。寛容の名のもとに、不寛容の極致ともいえるいじめやハラスメントが許されるようなことは、決してあってはならないと考えます。
結論から先に申します。アドラー心理学はいじめやハラスメントについて、それは加害者側の課題だからと、被害者の被った暴力や、それに伴う苦痛を無かったことにするものではありません。また「自分の受け止め方次第」などと全ての責任を被害者に背負わせて、加害者側の暴力を免責するものでもありません。寛容の名のもとに、いじめやハラスメントが許されるようなことは、決してあってはならないと考えます。
まず、ある出来事が誰かの課題なら、他の人にとっては課題ではない、もしくは他の人の課題にはなり得ない、という考え方は間違っています。ひとつの出来事は、それに関係する人々の、様々な課題となり得るのです。
この場合、被害者側には、たとえば現在の状況から速やかに抜け出して、ふたたび安心して人々との関わりに参加できるようにする、といった切迫した課題があることでしょう。加害者側は、いずれ他者を害したことによって自身に降りかかる「結末を体験」するでしょうし、それに向き合うという課題を避けるべきではありません。いじめやハラスメントを見聞きした周囲の人々も、「身近な方が被害を受けた事に対してどう考えどう行動するか」といった課題に直面することでしょう。そして出来事の舞台となった場の管理者、責任者にとっても、それらは看過できない課題であるはずで、為すべきことは多々あるように思われます。
また、いじめやハラスメントが現在も進行中であったり、被害がさらに拡がっていたり、再発のおそれがある場合には、その抑止のため、また加害者が自分の起こした行動の結末を充分に体験するためにも、コンプライアンスの担当部門や、警察等行政機関への通報と連携などが、被害を受けた側の課題に含まれてくることと思われます。
アドラー心理学は、他者に寛容であれとするものですが、いじめやハラスメントなどの暴力は不寛容の極致といえる行為であり、アドラー心理学は不寛容に対して寛容ではありません。そうした行為については、当事者だけの課題として傍観するのではなく、周囲の人々も自分にできることを考え、協力して解決することが求められます。
ただし、周囲の人々が被害者を思うあまりに、被害者自身の感情や考えを確認せずに動いたとしたら、それは、被害者を援助することにならない場合もありえます。物理的には同じ被害であっても、主観的にどのような「被害」であるかが異なるからです。むやみに踏み込んで、被害者の考えを無視した安易な助言をすることなどは、被害者を二重に苦しめてしまうことになりかねません。
もし、私たちがそうした問題についてご相談を受ければ、「話を聴く」ことを大切にします。じゅうぶんに話を聴いたあとであれば、被害者の求めに応じて「助言する」こともあります。それらを通じて、「私は能力がある」「人びとは私の仲間だ」と思える方向へ、そして自立して社会と調和して暮らせる方向へと向かえるように、時間をかけて勇気づけを重ね、援助しようと努めます。被害の状況次第では、同時に、または心理的対応よりも優先して、医療的対応を含む専門的な支援にもつないでいけるよう充分に配慮します。
どんな場合でも相手を援助しようとするならば、まず接する人自身がその相手の「仲間」になることから始めなくてはなりません。相手を尊敬・信頼し、協力して目標の一致を丁寧にとる「治療的人間関係(相談的人間関係)」を築くことが援助への糸口となります。なお、事情次第では医療機関への相談が必要です。
相手の方は、他者を「仲間」だと見なすことが難しい」と、自ら質問者に仰ったのでしょうか。それともその方について質問者がそのように感じている、ということなのでしょうか。
もし前者ならば、他者を「仲間」と見なせない、というのが具体的などんな行動を指しているのか分からないにせよ、アドラー心理学的に考えれば、その行動も所属のためのひとつの方法なのです。その方はもしかしたら「不適切な行動でもって注目・関心を引こう」としているのかもしれませんし、他の人と「権力争い」になっているのかもしれませんし、他者に対して「復讐する」あるいは「無能力を誇示する」段階まで進んでおられるのかもしれません。それとも、単に一人で行動するのが好きなだけかもしれませんし、特定の相手を仲間と見なせないだけなのかもしれません。いずれにせよ、質問者がその方を援助しようとするならば、現在のそうした行動は、今できる精一杯の適応努力なのだと思い、その方本人を尊敬・信頼して、仲間になることから始めなければなりません。
ただし、他者とのこじれたコミュニケーションが、「復讐」や「無能力の誇示」の段階にある場合は、残念ながら相手と接している当事者は援助する力を失っている場合がほとんどですので、専門的なトレーニングを積んだカウンセラーのような第三者の助けが必要です。また、その方の困難さの状況によっては、医療機関への相談が必要となります。しかしそれらの専門家への相談にしても、その方自身の意思を無視して勝手に進めることはできません。その意味でも、まずは、接している人自身がその方の「仲間」になることから始めなくてはならないのです。
また、このお話が後者ならば、ご注意いただかねばならない点があります。その方について、「この人は他者を「仲間」と見なすことが難しいと感じているのだな」と判断することそのものが、その方との関係樹立を妨げている可能性があるからです。そのような判断は、「この人は他者を「仲間」と見なせていないから、他者との関係がうまく築けないのだ」という独断によるものかもしれないのです。もし、そのように考えて相手を裁いているとすれば、相手は間違っており私は正しい、という縦の関係に陥って、援助する力を失ってしまいます。
質問者とその方がどのような関係であれ、質問者が相手を援助したいと考えているならば、まず、その方との間に治療的人間関係(相談的人間関係)がなければなりません。アドラー心理学では援助を可能とする良い人間関係のことを「治療的人間関係(相談的人間関係)」と呼び、その条件をまとめています。
まず援助する側が、相手のことを心から仲間だと思い、その相手が懸命に生きている一人の人であると尊敬し、その人自身で解決する力を持っていると信頼し、一緒に課題を乗りこえるために協力し、具体的に何を目指してどうやって行くのか目標の一致を丁寧にとりながら接するところから始めなくてはなりません。そのような関係を築くためには、相手の興味がある話題などについて話を聴いてみるのもよい方法でしょう。相手から見て、この人なら話してもいいな、話を聴いてもらえそうだな、思ってもらえる関係を築くことが、援助への糸口にもなるのです。
職業的な立場で相談を受ける場合でも、そうではなく親子や友人のような関係だとしても、相談しようとする人が率直に自分の困難について語り、アドバイスを得て困難を解決しようとしている場合に限り、援助が可能となるものです。そのためには相談を受ける側は相談しようとする人にとって、心から信頼できる仲間でなくてはならないのです。
幸福・共同体感覚・貢献感について
アドラーは、人生の意味は「共同体にとって有益な行動」をする中にあると考えました。どんなに小さなことでも、実際に誰かの役に立つ行動をすることが大切です。
アドラーは、『人生の意味の心理学 What Life Should Mean to You』の中で、「我々の人生の意味は、他者の生へ貢献することの中にある」と述べています。自分の人生に意味があると感じられることを幸福とみなすなら、「幸福とは他者に貢献すること」と言い換えることができるでしょう。ですが、だからといって「幸福とは貢献感である」と定義するのは、あまりにも短絡的過ぎるように思います。なぜなら、「貢献」は何らかの行動を指す言葉であり、「貢献感」はその行動に対する個人の受け取り方を指す言葉だからです。当然のことながら、受け取り方は人それぞれで異なります。
アドラーは、常に、ある「行動」が共同体に対して有益か無益か、ということを問題にしました。素晴らしいことを感じたり考えたりしていても、実際の行動に移さなければ、世界は何も変わりません。逆に、どんなに成果が見えにくい仕事でも、どんなに小さな目立たない行動でも、それが家族や社会など共同体の役に立つものであれば、「貢献」なのです。もちろん「貢献」という行動への見返りとして「貢献感」を得る喜びを否定はしませんが、それだけを追求して幸福になろうとするなら、むしろアドラーの言う自己執着を助長することになります。
アドラー心理学の「共同体」は、家族から宇宙までどこまでも広がる可能性を持っています。その範囲を定めることはできません。
テンニエスによれば人間社会のあり方には2つあるとされ、ひとつを血縁共同体(ゲマインシャフト)、もうひとつを契約社会(ゲゼルシャフト)と呼びます。アドラー心理学でいう「共同体」は、血縁共同体(ゲマインシャフト)のことです。ゲマインシャフトは、ひとつの家族のように、精神的な絆によって結びついている集団を意味します。したがって非常に広範な概念であり、具体的には家族や職場あるいは学校などの仲間といった身近なところから、ふだん暮らしている地域社会、可能性としては国家や人類規模の共同体も想定できます。また、時には生命全体や無生物、宇宙にまで広がるとされることもあります。
一方の契約社会(ゲゼルシャフト)は、その名のように契約によって成り立つ社会で、人々を結びつける力は多くの場合は利益であり、それ以上の精神的な結びつきはありません。現代の国家は通常ゲゼルシャフトとして営まれており、一定以上の規模の企業も同様といえます。野田はゲゼルシャフトの役割を認めながらも、その中では人が道徳的にふるまうことは難しいと考えました。
さて、共同体感覚を持つべき範囲ですが、これを定めることはできません。もしも、「この範囲の共同体に対して有益な行動をとるべきだ」と唱えるなら、その構造はそのまま全体主義(ファシズム)と同じになってしまうでしょう。それはアドラーが最も忌み嫌ったことです。共同体感覚の範囲は、個人がそれぞれの成長に応じて決めるものだと考えます。
身近な共同体だけでなく、より大きな共同体からも目をそらさずに、そうした「みんな」にとってどういうことかを、広く多角的な視点で捉えることが求められます。
私たちは家族や友人関係だけでなく、地域、学校、職場といった様々な集団に同時に所属しています。そしてそれらは、相互に関わり合いながら、広く世の中をかたちづくっています。そのため個人の行動は、身近な共同体の内側だけで完結するものではありません。
野田俊作は「共同体感覚」について、「これはみんなにとってどういうことだろう。みんながしあわせになるために私はなにをすればいいだろうと考えること」と説明しました。ここでいう「みんな」とは、身近な人々だけを指しているわけではありません。共同体感覚とは、自分たちさえ良ければそれでいい、といった独善的な思想ではないのです。かといって、身近な人々を抜きにして、いきなり人類全体のことを考えよう、といったような抽象的な思想でもありません。そうした極端な立場には立たずに、自分自身を含む身近な「みんな」のことを考えながら、そこから繋がり広がっていく、より大きな共同体からも目をそらさず、広く多角的な視点でできごとを捉えようとすることが、「これはみんなにとってどういうことだろう」という言葉の真意であると考えます。
「普通であることの勇気」が、不完全な自分をありのまま受け入れることを意図するものならば、現実的な目標設定と地道な努力といった健全な向上心を持つこととは矛盾しないと考えられます。
どのような文脈で「普通であることの勇気」というものが推奨されているか存じ上げませんが、もし、不完全な自分自身をありのまま受け入れることを意図されているのであれば、それは必ずしも、向上心や目標を持つこととは矛盾しないと考えられます。
ドライカースの有名な言葉に、「不完全である勇気 Courage to be Imperfect」というものがあります。アドラー心理学の視点からは、個人が非の打ちどころのない完璧な存在であろうとすることは、むしろ不健全といえます。そうではなく、実際には不完全である自分自身を受け入れて、それによって現実的な目標設定を行い、目標に向けて地に足のついた努力を重ねていくことは、健全な向上心であると言えます。
いいえ、共同体に対して有益な行動でなければ、そもそもアドラー心理学でいう貢献には含まれません。
先にも述べましたが、アドラー心理学は、主観的な感覚「貢献感」ではなく、実際の行動としての「貢献」を重視します。本人が満足していても、それが他者や共同体にとって無益であったり、破壊的であったりするなら、その行動は貢献ではありません。逆に、本人はもっと出来る事があったのではないかと考えて、あまり満足できなかったような行動でも、実際には大きな貢献だった可能性もあります。「貢献」と「貢献感」とは全く別ものなのです。
自己決定性・ライフスタイルについて
いいえ、影響は大きいと認められます。ただし、それらが人生を決定づけるのではなく、個人がそれらの条件(材料)にどのような「意味づけ」を行い、どう「用いるか」によってライフスタイルは形成されると考えます。
影響しないと教えている本があるのでしたら、それは間違いです。生まれ持った気質、才能、家庭環境などの初期条件は、ライフスタイルの形成に大いに影響します。アドラー心理学では、子どものライフスタイル形成に影響を与える因子は、大きく分けて遺伝と環境のふたつであると考えます。子どもが持って生まれた気質であれ才能であれ障害(「器官劣等性」と呼びます)であれ、子どもを取り巻く家族構成(「家族布置」と呼びます)であれ、ライフスタイルに与える影響はとても大きいのです。
しかし、それらはあくまでも、その子どものライフスタイル形成に影響を与える「影響因」に過ぎません。個人が、それら諸条件にどのような「意味づけ」を行い、それらをどのように「用いるか」によって、子どものライフスタイルは決まっていくのだとアドラー心理学では考えます。すなわち、ライフスタイル形成における「決定因」は、「個人の主体性」なのです。
いいえ、疾患や障害そのものは基本的に生物学的要因によるもので、環境要因、社会的要因も関与します。それらを本人が選んだなどと解釈することはありません。それらの困難に対してはまず医療的対応を優先した上で、アドラー心理学は、その人が困難な状況でも可能なことを生かしてどう生きていくかという点にこそ関わります。
精神疾患や発達障害そのものを、人が自ら「選んだ」というふうには解釈しません。それらの疾患や障害は、基本的に遺伝を含む生物学的要因によるものです。したがって、精神疾患や発達障害の疑いがあるときは、カウンセリングや心理療法などの心理学的対応よりも前に、医療機関での精神科医による診断や治療が優先されます。アドラー心理学が関わるのは、その人がそれらによる症状とどうつきあい、その人の能力をどう生かし、他の人々とともにどのように生きていくのか、という点です。なお、カウンセリングによって、その人と周囲とのコミュニケーションが改善された場合は、そのことが間接的に、疾患や障害による症状の改善に役立つこともあります。
アドラー自身も、生まれつき難病である「くる病(骨軟化症)」を患い、4歳まで歩けないなどの困難を抱えて育ちました。にもかかわらず、アドラーはその困難を乗り越えて自ら医師となり、さらにアドラー心理学を提唱して人類に貢献しました。彼と同じ努力をすれば彼のようになれるとは考えませんが、しかし、人間のもつ豊かな可能性を、他ならぬアドラー自身が示してみせている、とはいえるように思います。
いいえ、そもそもアドラー心理学は、勇気だけで何もかも解決するとは考えておりません。また構造的不平等の解決は個人の気持ちの持ちようの問題ではなく、社会における多くの人々の様々な実際の貢献によってこそ可能となるものです。
社会構造上の問題に限らず、アドラー心理学は、個人の勇気だけで物事すべてが解決するとは考えていません。「勇気づけ」という言葉が有名となったためか、アドラー心理学では「勇気」さえあれば何もかも解決できると信じている、あるいは現実がどうであれ「勇気づけ」で心の持ちようさえ変わればそれでいいと思っている、といった誤解が生じているようですが、それは誤りです。
そもそもアドラー心理学では「勇気」という言葉を、きわめて独特の意味合いで使っています。世の中で少なからず「勇気がある」といわれている行為であっても、その行為が社会(共同体)にとって破壊的ならば、私たちはそれを「勇気」と呼びません。アドラー心理学では、人が共同体に所属して、そこでお互いに貢献しながら、共同体のために自分の出来ることをしようとすること、そうした姿勢全般について「勇気」という言葉を用いており、そのような姿勢を促すことを「勇気づけ」と呼んでいます。
ここでいう貢献とは、共同体に有益な行為全般を指し、したがって、誠実さ、謙虚さ、公正さ、聡明さ、慎重さ、正義、熟慮、慈愛などに基づく、さまざまな有徳な行為が含まれています。共同体の維持存続には、倫理的・道徳的ともいえるそれらの行為が不可欠なのです。
社会に構造的な不平等が生じた場合には、多くの人々が、持てる力を尽くして解決にあたらねばなりません。アドラー自身が、その生涯において第一次世界大戦とロシア革命による悲劇を体験したことから、育児と教育によって人間の徳性を育成し、搾取のない平等な社会を実現しようとしました。しかしながら、アドラーの活動した時代から100年経った今日もなお、世界には同様の悲劇が繰り返されています。つまり私たちひとりひとりが「勇気」を持つことは、解決に向けてのそのスタート地点のひとつではあっても、解決方法のすべてではないのです。
いいえ、ライフスタイルの全体的な変容は容易ではなく、大きな勇気と努力が必要です。「いつでも変われる」とはそのプロセスの容易さではなく、いつからでも開始できるという可能性を示すものです。
アドラー心理学は、むしろ、ライフスタイルの変容は容易ではないと説いています。個人が長年繰り返していた考え方や行動のパターンから、別の考え方や行動のパターンへと移行するためには、大きな勇気と努力が必要です。またカウンセリングだけでなく、心理療法などの適切な援助が必要になることが少なくありません。「いつでも変われる」とは、いつからでも変わることができるという可能性を示すものであって、そのプロセスが容易であるという意味ではありません。
ただし、人生で直面する問題の多くは、その課題に対する目標や対処方法を見直すことで解決できる場合が少なくありません。また、そのようなささやかな変化の積み重ねによって、長年染み付いた性格や習慣が変わっていく可能性もあります。野田俊作の開発した「エピソード分析」は、日常のごく小さな出来事から、自分の無意識的な目標や行動パターンを知ることのできる技術です。性格や習慣を一気に変えることはできませんが、まずは、普段のほんの小さなところから始めてみることをお奨めします。
フロイト的な「無意識」は主張しませんが、自覚されていない行動の目的やパターンなど、個人に意識されにくい側面があることを認めます。衝動は器質的要因でないかぎり、ライフスタイルと関連づけて理解しようとします。
アドラー心理学は、フロイト的な人間行動の原因としての「無意識」を問題にしませんし、意識と無意識を截然と分けることもしません。ですが、行動の背景には「無意識的な」目標追求や私的論理(private logic)があるだろうと考えています。
アドラー心理学で考える無意識とは、たとえば、何人かが踊っている暗い舞台のようなものだと説明されます。意識はスポットライトであり、ある踊り手にスポットライトが当たると、そこが意識化されます。スポットライトを移動して他の踊り手を意識化することは出来ますが、舞台全体をいちどに見ることはできません。中には見えない部分があります。それが無意識です。無意識の領域はありますが、意識との間に葛藤はなく、全体として、個人がひとつの踊りを踊っていると考えます。
衝動についても、アドラー心理学では、器質的な事情(内因性の精神疾患や、重度の強迫行為、解離症状など本人の意思・目的とは言い難い症状、発達障害の特性によって生じる困難、投薬の影響など)によるものでないかぎり、基本前提に基づいてその無意識的な目標を考えます。
実践の難しさ・現実との乖離について
目的論は感情を「割り切る」ものではなく、アドラー心理学の実践では、その感情が対人関係で持つ「目的」を理解し、抑圧や発散とは異なる建設的な表現方法を学ぶことを目指します。
アドラー心理学は、人は理性も感情をも含む個人「全体」として、何らかの目的に向かって行動するという目的論の立場をとります。目的論から考えるなら、陰性感情(怒り、悲しみ、嫉妬など)を表出することも目的に向かって個人が選択する行動のひとつである、ということになります。
そもそも感情というものが、何らかの原因で勝手に生じて、「割り切る」などしないかぎり抑えられないという捉え方は、目的論ではなく原因論にあたります。また、個人の中で感情と理性が対立し続けるかのような捉え方は、全体論ではなく要素論といえます。いずれもアドラー心理学の考え方ではありません。
アドラー心理学の実践において大切なことは、自分自身の感情や思考、そして実際の行動が、対人関係の中でいったい何を「目的」としているかを理解することです。「目的」が分かれば感情は自然と消えていくこともありますし、そのままにしておくという選択肢もあります。そうして、今より少しでも社会に対して建設的かつ貢献的な対処方法を学んでいくことで、人は成長することができるのです。
もちろんたやすいものではなく、くりかえし練習することが必要です。自分ひとりで取り組むのは難しいので、本で学ぶだけでなく、講座やワークショップでの実践的な学習や、ともに学ぶ仲間のいるアドラー心理学の自助会などが助けになるでしょう。。
アドラー心理学はいわゆる哲人のように振る舞うことと無関係であり、そもそもそのように完璧を目指す必要はなく、不完全な自分を受け入れつつ、共同体により良く貢献しようと成長するプロセスこそをアドラー心理学では重視します。
アルフレッド・アドラーは大変理知的で洞察力に富む人でしたが、「常に冷静で論理的な」哲人といったような、寡黙で孤独なイメージの人物ではありませんでした。カフェなどで気さくに多くの人と語り合う、音楽好きで、非常に温かい人物だったと言われています。野田俊作も、まさにそのような人柄でした。アドラー心理学を学ぶことと、「哲人のように」振る舞うこととは、何の関係もないように思われます。
ルドルフ・ドライカースの有名な言葉に、「不完全さを認める勇気 Courage to be imperfect」というものがあります。完璧を目指す必要はありません。アドラー心理学は完全主義ではなく、不完全な自分を受け入れながらも、共同体にとってより良い方向に進もうとする勇気を重視するのです。
「主張」するのではなく、まず自分から相手への関心と尊敬の念を持ち、自己の課題に責任を持って正しくアドラー心理学を「実践」することが基本であり、その姿勢は一般的な倫理観にも通じるため、健全な環境であれば信頼につながっていく可能性もあります。
自分より上の立場の人に対してであれ、下の立場の人に対してであれ、アドラー心理学からあなたが学んだことを主張するのは現実的ではありません。まずあなた自身が正しく「横の関係」や「課題の分離」を実践することが大切であり、その上で、あなたの生き方に興味をもってくれた人に対してアドラー心理学を「提案」してみるのがよいでしょう。
とはいえ、アドラー心理学の哲学的な側面はきわめて常識的・保守的であり、伝統的な社会習慣や古くからの道徳ととても相性が良いのです。たとえば、他者に深い関心と尊敬の念を持つ、自分の課題に責任を持ち、他者を信頼し、他人の課題に勝手に踏み込まない、陰性感情をぶつけずに理性的に話し合う、などの姿勢は、アドラー心理学に限らず、広く世の中で共有されている倫理観と重なります。したがって、職場や取引先の人々と常識的かつ倫理的な人間関係を築いておれば、アドラー心理学の実践は、あなたへの信頼につながっていく可能性があります。
ただし、世の中には「課題の分離」や「横の関係」を独善的な形に誤解する向きもありますので、注意が必要です。「課題の分離」を他者との関わりを拒絶することと捉えたり、「貢献」や「協力」をひたすら一方的に他者に求めたり、「横の関係」が大事だと言って社会的な役割分担を否定するような行動は、社会的に適切といえませんし、アドラー心理学でもありません。
アドラー心理学は、「冷たい」と誤解されることもありますが、それは、ドロドロした関係を「涼しく」する、人間愛に溢れた温かい哲学だからだと思われます。
まず原則的な話として、いかなる学問であれ、誤用や悪用には危険が伴います。誤った仕方で用いられれば、当然ながら何らかの危害が生じます。しかし、それはその学問の罪ではありません。主な責任は、学問の使い方を間違えた人間にあると思います。
アドラー心理学の実践においても同様です。たとえば本から得た表面的な知識だけで他者の意図を無遠慮に決めつける、「課題の分離」と称して他者に協力せず責任ばかりを求める、恣意的な解釈で理論を振りかざして自分の行動を正当化しながら他者の行動は批判する、専門家向けの心理技法を誤用して他者を心理的に追い詰める、といったふるまいをすれば、当然ですが相手や周囲の人からは「冷たい人」「理屈っぽい人」、さらには「協調性に欠ける人」「支配的で乱暴な人」などと思われるでしょう。またそれらの行為で他者に強い苦痛を与え、暮らしに支障をきたすような深刻な結末が生じれば、ハラスメントやネグレクトとして行為の責任を厳しく問われるはずです。ですから誤用や悪用が起こらないように、是非アドラー心理学を正しく理解し実践していただきたいと思うのです。
日本人は西洋人に比べて情緒的な側面が強く、「言わなくてもわかり合える」非言語的な人間関係に馴染んで暮らしています。そのため、アドラー心理学にはじめて触れる人は、少し理屈っぽいなと感じることがあるかもしれません。しかしアドラー心理学は、徹底的に論理的であると共に、人間愛に溢れたとてもあたたかな哲学です。野田俊作はよく、「アドラー心理学は『冷たい』んじゃなくて、『涼しい』んだ」と言っていました。土着的な暑苦しい人間関係をもう少し風通し良くしたものが、アドラー心理学に基づく人間関係といえるでしょう。
ご指摘の通り読書はきっかけでしかなく、実際のライフスタイルの変容には継続的な学習と実践が欠かせず、時には専門家の援助が必要となります。
アドラーに関する書籍は多数出版されていますが、残念ながら読書だけで(あるいはこのホームページを含むインターネット上のコンテンツを読むだけで)大きな変化が起こることは、極めて稀なことと考えられます。それが何らかの気づきや理解のきっかけになったとしても、実際のライフスタイルの変容には継続的な学習と実践が欠かせませんし、時には専門家の援助が必要です。読書は第一歩であり、そこからどう行動し、体験を積み重ねるかが重要です。
アドラー心理学では、強さを発揮するだけでなく自身の不完全さも受け入れて、持てる様々な美徳を発揮することで、誰もが社会に貢献できると考えます。互いの可能性を見出し、仲間として協力して共同体を支え合う実践の道を示しているのです。
人間は誰もが弱く誰もが強みをもっています。ある人のある弱さは、裏を返せば強さでもあるのです。たとえば、「仕事が遅い」というのは一見、弱点のように思えますが、実は「丁寧である」「慎重である」という強さでもあります。逆に「仕事が早い」のは長所のように思えますが、ひょっとしたら「ミスが多い」「雑だ」などの弱さがあるかもしれません。
人間関係においても同じです。たとえば「人と交わるのが下手だ」と思っている人は、「思慮深い」「ひとりで行動できる」「自分の好きなことに集中できる」人かもしれません。これらはすべてその人の「パーソナル・ストレンクス」として、社会の中で役立てることができます。
人はそれぞれ違っており、それぞれが異なる弱さと強さをもっています。それぞれが身につけている能力を発揮することにより、各人各様の仕方で社会に貢献することができます。アドラー心理学の実践とは、お互いの持つ多種多様な貢献の可能性を見出しながら、仲間同士として助け合い協力し合って、ともに社会を支えていこうとする道なのです。
自己受容は確かに厳しさを伴いますが、しかし自己受容を避けると達成不可能な目標を追い求めてしまったり何もかも自分で抱え込んだりなど、さらに厳しい道が待ち受けています。
「自己受容が難しい」という状態は、アドラー心理学の言葉でいうなら「自己概念が低い」あるいは「劣等感が大きい」ということになろうかと思います。野田俊作の恩師バーナード・シャルマンは、「劣等感と優越目標は反比例する」と言いました。つまり自己受容ができない人は、非現実的なほどに高い目標を目指しがちです。高すぎる目標は当然達成できませんから、ますます「自分はだめな人間だ」と思い込む、というループにはまってしまいます。
アドラー心理学は「自分を勇気づける」こともまた大切にします。まずは、自己勇気くじきの目標を知ることから始めましょう。そして自分の短所ではなく長所(パーソナル・ストレンクス)を探してみましょう。次に、それをどう組み合わせれば、他者や共同体のために貢献できるかを、ゆっくり考えていきましょう。共同体のために生き始めれば、共同体の中に居場所ができ、自然と劣等感が小さくなっていくことが多いです。
その他の疑問
基本的な人間理解の枠組みは普遍性を持つと考えられますが、時代や文化によって適合しない技法もあるため、常に個別の事情に配慮して適用する必要があります。
アドラー心理学に基づく人間理解の枠組みや価値基準は普遍性をもつと考えられ、対人関係で生じるほぼすべての事象に当てはめることができます。ただし技法の具体的な適用に関しては、文化や個人の状況に応じて柔軟に調整される必要があります。アドラーの活躍した20世紀前半に一般的だった技法も現代では適合しないことがあるでしょうし、現在欧米で多用されている技法も日本人には扱いにくい場合があるでしょう。
野田俊作はいつも、アドラー心理学は個性記述的だと言っていました。つまり原理原則は共通でも、実際の援助は常に個別具体的だということです。野田の開発した育児プログラム『パセージ』には、現代の日本固有の事情に対する十分な配慮が加えられています。また同じく『エピソード分析』も、クライアント個別のエピソードを分析して援助する、きわめて個性記述的な技法です。
科学的な実証研究の積み重ねという点では、現代の精神医学全般に及ばない面がありますが、一世紀にも渡る膨大な臨床実践に基づく信頼性と、「共同体感覚」という明確な道徳的指針を持つ「メタ心理学」としての価値は、現代においてますます高まっていると考えます。
たしかに、科学的な実証研究の積み重ねという点では、アドラー心理学は現代の精神医学に及ばないかもしれません。アドラーやフロイト、ユング、ジェームズらが生きた時代の心理学理論は、実験による確証から生み出されたものというより、提唱者の独創を基盤とする、臨床経験から得られた仮説の体系と考えるのが妥当でしょう。心の問題を純粋に科学として扱おうする行動主義が生まれたのは1950年以降のことです。
しかし、アドラー心理学は単なる「精神論」ではありません。具体的な代替行動について助言を行うなど、いつも現実的な援助を考えます。アドラーの死後100年以上経ちますが、この間、幾世代にも及ぶ臨床実践の積み重ねによって、その真価が確かめられてきた実績もあります。
またとりわけ重要なのは、他者と協力し共同体に貢献することを善とみなす「共同体感覚」の育成を治療目標に掲げている点です。治療とは果たしてどのようなことなのか、クライアントとカウンセラーはそこでどのような方向を目指せばよいのかについて、アドラー心理学は極めて明確なビジョンを持っています。この点が、社会適応や自己啓発、マーケティングを目標としがちな近年の臨床心理学と一線を画します。どのようなことにでも使えてしまう「科学的」な心理学の乱用が倫理的な問題を生み出している現代において、アドラー心理学は、人間主義的かつ道徳的な指針を与える「メタ心理学」としての価値を、ますます高めているということができます。
アドラー心理学の「目的論」は、他の基本前提と不可分であり、あらゆる欲求や行動の追求を無条件に正当化するものではありません。「欲求」は行動の原動力ではなく、個人が特定の目的を達成するために主体的に創り出す「道具」と定義されます。アドラー心理学は、共同体感覚に照らしてその目的が他者との協力や共存において建設的であるかを問う心理学です。
アドラー心理学の「目的論」は、個人のいかなる欲求やそれに基づく行動をも、無条件に肯定・是認するものではありません。アドラー心理学理論は、「個人の主体性」「目的論」「全体論」「社会統合論」「仮想論」という5つの基本前提から成り立つ統一的な体系であり、どの前提も他の前提と切り離して論じることはできません。これはすなわち、アドラー心理学でものを考えるという場合、どの点においても、これら5つの理論的特徴を備えている必要があることを意味します。したがってアドラー心理学でいう「目的論」とは、あくまで「個人の主体性」「全体論」「仮想論」「社会統合論」を前提とした「目的論」なのであり、単に「目的があるからその追求はすべて許される」とするような無制限の相対主義とは根本的に一線を画します。
フロイトは、欲求が人間を動かす原因だと考えました。しかしアドラー心理学では、「欲求」であれ「欲望」であれ、 それらに基づく行動も、すべて相対的マイナスから相対的プラスへの目標追求の中で考えます。すなわち、個人の心身「全体が」、その個人の「仮想する」「対人関係上の」「目的に向かって」、「個人の主体性」によって自ら選び創り出した「手段・方法」だと考えるのです。アドラー心理学の理論に基づいて考えるなら、人間は外的な刺激や内的な本能・衝動に突き動かされる受動的な存在ではありません。自らの意志で制御できない「抗いがたい衝動や欲求」という概念は、行動における責任を回避するための自己欺瞞として退けられます。
そして思想的・実践的見地においては、アドラー心理学の治療目標は「共同体感覚」の育成ですから、他者と協力し互いの長所を活かしながら共存を目指す目的こそ推奨されますが、他者を押しのけて競合的に進もうとする「欲求」は適切でないとされます。このようにアドラー心理学とは、むしろ個人の行動の「目的」を「問う」心理学なのであって、目的論を論拠に「いかなる欲求の追求も許容される」と解釈することは、理論的前提と価値基準の双方を看過した重大な誤読であるといえます。
フロイトの理論とは原理が全く異なり、整合性はありません。理論的に共通部分を持つ他の心理療法もありますが、治療の方向性が異なるため、そのままでは臨床現場で使うことはできません。技法は取り入れることができますが理論を折衷することはできません。
フロイトの心理学とアドラー心理学とは、理論面においてほぼ全面的に対立すると考えられます。元々アドラーはフロイトの精神分析運動の初期メンバーでしたが、方向性の相違から後に袂を分かつことになりました。アドラーはフロイト理論へのアンチテーゼとして自らの理論を作り上げたという側面があります。すなわち原因論的、要素論的、精神内界論的、客観主義的であるフロイトの理論に対し、それらに真っ向から対立する目的論・全体論・社会統合論・仮想論・個人の主体性を提唱しました。このように、フロイトとアドラーの心理学は互いに原理の全く異なる異質の体系ですから、内容は全く整合せず、部分的に混ぜて使うことはできません。それはユングの理論においても然りで、アドラー心理学では、たとえばペルソナへの解釈も独自のものとなります。理論の折衷は不可能と言えます。
なお、臨床理論においてアドラー心理学によく似たものとしては、オハンロンやド・シェイザーらの解決志向型治療があります。解決志向型治療では個人の主体性が認められており、目的論的で、全体論的でもあります。また、社会統合論や仮想論についても共通するといえます。しかし治療における方向性、つまり共同体感覚の育成という思想的な方向性が欠けているため、臨床の現場での動きは相容れません。
このように、アドラー心理学の理論と思想は独自の完成されたシステムであることから、野田俊作はいつも、純粋にオリジナルのアドラー心理学と、他派の心理学理論や技法とを、さらには自身が独自に開発した理論や技法とも、峻別して伝えてきました。私どもAIJもその姿勢を踏襲し、他派理論との折衷を徹底して排除しております。もちろん心理学は日進月歩していますので、臨床的に有用な他派の知見を用いることも多々ありますが、その際も、アドラー心理学の立場から再解釈した「技法」に限っての導入としています。たとえば育児プログラム『パセージ』では、心理療法で一般的に用いられる認知行動療法の技法を併用していますが、その用い方は完全にアドラー心理学に基づいたものです。
劣等感は人間にとって普遍的かつ自然な感情ですが、劣等感をバネに進むことが自分自身の成長につながるかどうかは、実際の行動とそこで目標としているものが共同体にとって有益かどうかによると考えます。
人間はみな、はじめは生物学的に何もできない状態で生まれてきますから、自分が小さくて劣っているという感情、すなわち劣等感は、子どもにとって普遍的な感情といえます。劣等感は、そうした主観的に相対的マイナスである立場から、相対的プラスといえる目標へ向かうために人が生み出す自然な感情といえるでしょう。劣等感は子どもの劣等性の必然の結果であり、それを補償するために人は発達・成長するのです。
ただし、劣等感を補償するための行動が、いつも人としての成長に繋がるとは限りません。劣等感は必ず陰性感情を伴いますから、悔しさや悲しさ、怒りなどの陰性感情の使い方を誤ると、その感情を向けられた相手との関係が悪化します。やみくもに「劣等感をバネに」進むことは、自分自身や他者にとって有益になるとは限らず、時として破壊的な結果を招くこともあるでしょう。そうならないように、具体的な行動の仕方と、そこでの目標の適切さが問われます。
アドラー心理学では、人の行動が適切かどうかを、社会(共同体)にとって有益かどうかという観点から判断します。劣等感が行動の契機だとしても、共同体にとって有益な目標と行動を選択することで、人は共同体の一員として成長できると考えています。
おっしゃる通り、無神経な指摘はクライアントを追い詰め逆効果になるため、臨床現場で本人に直接伝えることはほぼありません。
臨床上、クライアントのどのような選択からどのような結末が生じているかについて、その全体像を理解してもらうことは大切です。個人の選択したいかなる行動にも必ずメリットとデメリットがありますから、「かわいそうな私でいること」の結末も、苦痛などのデメリットだけでなく、何らかのメリットが生じていると考えられます。そうしたメリットは、無意識のうちにも、本人を現在のあり方に留まらせているかもしれません。したがって、そこまで含めてクライアントが洞察することは、人生における視野を広げ、より建設的な生き方へと進んでいく上で有益です。
しかし、だからといって、こうした逆説的な指摘を不用意にクライアントに直接伝えることは好ましくありません。まずクライアントの話を聴き、相談的人間関係(相互尊敬・相互信頼・協力・目標の一致)を樹立することが先決です。その関係のないままに無神経な指摘をすることはむしろ逆効果であり、関係の破綻を招く可能性が高いです。
他者の期待に応えること自体は否定しません。ただし、全ての人に常に好かれることは不可能なのですから、他者の期待を「何もかも」満たそうとしたり、他者の期待を満たすため「だけ」に生きようとしたりすることは、不健康な生き方だと考えます。
ご質問は、アドラー心理学では他者の期待に一切応えてはいけない、としているように聞いたが、それはおかしいのではないか、というご指摘でしょうか。結論から申しますと、たしかにアドラー心理学では、人が他者の期待を「何もかも」満たそうとしたり、他者の期待を満たすため「だけ」に生きようとしたりすることは、とても不健康な生き方だと考えています。しかし、他者の期待に応えること、それ自体を否定しているわけではありません。
かつて野田俊作は、ある講演会の質疑応答で「私は付き合う相手の期待を満たすために生まれてきたのではないのに、相手は私に自分の希望や要求を満たすような行動を期待し、それに沿わないと不機嫌になります。上手く立ち回るにはどうしたらいいでしょうか」と聞かれた際に、次のように答えています。
「世の中の人は皆そうですから、それは仕方がありません。私は、人の期待を満たさないことにしております。ということは、嫌われる覚悟をしているということです。10人の人と付き合うと、2人は私が何をしても好きでいてくれ、1人は私がどんなことをしても絶対に憎み続ける、そして残りの7人はその時々で態度を変える、と思っています。
ですから、絶対に孤独にはなりません。確実に仲間になってくれる人がいる、ということさえ信じられれば、人に嫌われることは平気です。大事なことは、その信じられる仲間を作ることです。そこができないと、周りの評価にふらふらと左右されてしまいます。
どうやってその一番近い環境を作るかというと、今日お話ししたように、協力的な関係を築こうとすることです。それはおそらく、家族やごく近い親友といった人々でしょう。そこを中心にして考えていけば、残りの人たちが自分のことを好きになったり嫌いになったりするのは、そんなものだと受け入れられます。みんなに好かれて暮らすことなど、絶対に不可能なのですから」。
これは野田がよく話していたことでもあります。中には、この話の冒頭だけを聞いて、他者には嫌われなくてはいけない、他者の期待には一切応えてはならない、と勘違いした方がおられるかもしれません。しかし野田は、人の期待を「満たさない」と言っており、「応えない」とは言っていないのです。つまり話の主旨は、人々の期待を何もかも満たして『みんなに好かれて暮らすことなど絶対に不可能だが、家族やごく近い親友など、確実に仲間になってくれる人がいるということさえ信じられれば、残りの人たちが自分のことを好きになったり嫌いになったりするのは、そんなものだと受け入れられる、その信じられる仲間を作るためには、協力的な関係を築こうとすることが大事です』といったところにあります。そして、そうした仲間たちとともに社会生活を送っていく上では、おっしゃるとおり他者の期待に応える局面は多々あることと思います。
アドラー心理学の理論・思想・技法を誤って用いると、自分を正当化したり他者に対して批判的になったり、さらに臨床上の混乱を招く危険性があります。普及が進む現代において、誤用や悪用に対する正しい理解と警戒が必要です。
アドラー心理学を誤って理解して用いると、そのようになってしまう危険性があります。
野田俊作はアドラー心理学を、便宜上、理論・思想・技法の3つに分類しました。理論とはアドラー以来のアドラー派の心理学者が発展させた、人間行動を理解・説明するための理論体系であり、思想とはアドラーが提唱した哲学、つまり人々の人生の指針となるものであり、技法とはその名の通り治療に用いるテクニックです。この技法に限ってだけは、他派の心理療法の技法との折衷が可能です。大事なことは、この3つをそれぞれ正しく理解し、正しく用いることです。
たとえば「理論」をまるで「思想」のように、つまり人生の指針として用いるとどういうことが起こるでしょうか。つまり、ある行動が理論的に説明できるかどうかで、その行動が正しいかどうかを判断する、という用い方です。しかし、そもそも心理学理論というものは、あらゆる人間の行動を整合的に説明するために考えられたものです。したがって「理論」を自分自身の行動の指針にするなら、自分はいついかなるときでも常に正しいということになりますし、他者の行動の指針にすれば、他者のどんな非道な行いも説明がつくから正しいということになってしまいます。もちろん、どちらの場合も倫理的にたいへん問題があります。これはアドラー心理学だけに起こり得る話ではなく、他派の心理学をそのように用いた場合にも同じ結果となるでしょう。
また、アドラー心理学の「思想」は、他者と競合しようとする生き方は自己執着的で不健康な生き方であり、人々に貢献し他者に協力的であろうとする生き方こそが健康な生き方だとしています。こうしたアドラーの「思想」を中心に据えることによって、アドラー派の治療者はクライアントを健康的な方向に援助することができるのです。しかし、臨床で「思想」を矮小化し「理論」として用いるとどういうことが起こるでしょうか。つまり、「思想」に含まれている価値判断の基準を「科学的でない」「偏っている」と排除し、協力的な目標/競合的な目標などの区別を、単なる性格のタイプ分け程度のものとして扱う、という用い方です。
そうすると、他者と協力して社会を支えていくことなど顧みず、自分が素晴らしいと感じるキラキラした理想の状態ばかりを追いかけたとしても、それはそれで自然な人間的行動だということになってしまいます。自分さえ良ければそれで良い、自分の目標追求を妨げる他者はみな間違っている、という態度さえ是認できてしまいます。もちろんそうしたあり方は、社会常識的に考えて単なる「わがまま」や強欲に他なりません。そして、そのようなクライアントをアドラー心理学の強力な臨床技法で「勇気づけて」いくならば、これまた倫理上たいへん問題があると言わざるを得ません。
さらに、アドラー心理学で用いる様々な「技法」を「アドラー心理学」として紹介するケースも近年目につきます。しかし、「技法」はあくまで「技法」であってアドラー心理学そのものではありません。アドラー心理学は、その掲げる「思想」に向かって、「理論」に基づいた「技法」を使ってこそアドラー心理学といえるのです。ですから、たとえば「課題の分離」や「論理的結末」などの「技法」がまるでアドラー心理学そのもののように伝わると、学習者は混乱してしまうでしょう。また冒頭で述べたように、「技法」は心理学各派の間で折衷的に用いられますが、その場合も、臨床理論に基づくクライアントの分析や、どのような状態を目指して問題を解決していくかといった適切な判断があってこそ効果が発揮できます。一貫した理論と思想に基づかず適当に技法を混ぜて使うことは、厳に慎むべきと考えます。
様々な例を述べましたが、アドラー心理学であれ他の心理学であれ、あるいは他の学問分野であれ、使いみちを間違えて用いれば非常に望ましくない結果を招きます。野田俊作は既に1999年、『負のアドラー』を著して、アドラー心理学の誤用と悪用について大きく警鐘を鳴らしました。アドラー心理学の普及に伴い、残念ながら、今もアドラー心理学の誤用は増え続けているように思います。
アドラー心理学のカウンセリングと心理療法は対人関係やライフスタイルの改善を目的とするため、クライアント個人の心身の症状が前面に出ている場合は、背景に対人関係の問題が疑われる場合であっても、心療内科や精神科などの専門医療機関への受診を最優先とします。
アドラー心理学におけるカウンセリングは対人関係における問題を解決しようとするものであり、心理療法はよりよい人間関係を構築するためにクライアントのライフスタイルを改善しようとするものですから、クライアントの相談内容がそうした一般の対人関係に関するものでなく、クライアント個人の身体症状あるいは病的な心理状態の改善、ないし発達特性に起因する適応上の困難や二次障害の改善を目的としている場合には、第一の選択肢として専門医療機関(心療内科、精神科、発達専門医など)に繋ぐことを考えなくてはなりません。
特に、深刻な抑うつ、希死念慮、急性期の精神病状態、激しい不安や重度の不眠などが見られる場合は、医療による治療や投薬を優先し、症状が落ち着くまでカウンセリングを行わないのが鉄則です。たとえ症状が安定しても、カウンセリング開始にあたっては担当医の医学的判断が必須であり、もしも悪化した場合にはカウンセリングを中断するなど、医師との連携が欠かせません。症状の緩和後に残った対人関係の課題を扱うのが、アドラー心理学の領域です。一般に、神経症的傾向のある方に対するアドラー心理学のカウンセリングや心理療法の有効性は認められています。しかし、医療機関にかかっていない方であっても、不安定な時期には無理をせず専門医に相談することが推奨されます。カウンセラー側も安易に抱え込まず、医療機関への受診を促した上で慎重に判断する必要があります。
さらに、経済困窮や社会的孤立などの問題がある場合には、保健所や精神保健福祉センターといった社会資源や福祉的支援への接続が必要です。野田俊作はこれをケースワーキングと呼んで、カウンセリングや心理療法と区別しました。
いずれにせよ、迷う場合は専門医や専門職の判断を仰ぎ、正確な診断と適切な治療を優先すべきです。
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企画・編集:川尻信一(AIJ事務局長)
執筆:大竹優子・中井亜由美・久保田由紀子・野田文子(以上4名AIJ心理療法士)
監修:大竹優子(アドラー心理学指導者)
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