アドラー心理学についてよく見られるご質問と、それぞれへの私たちの見解をQ&A形式で簡単にまとめました。皆さまの率直な疑問にお答えするため、アドラー心理学に批判的なご質問や、誤解に基づくと思われるご質問も、あえてそのまま掲載しています。内容はさらに網羅的に充実させたいと考えております。
なお、各項目についてより踏み込んだ回答をお求めの場合、あるいはより分かりやすい説明をご希望の場合は、よろしければ『AIJアドラー心理学基礎講座』の受講をご検討ください。
基本前提
アドラーの「目的論」とは、現在の行動は未来の「目的」を達成するために個人が主体的に選んで起こすものだと考えるのに対し、フロイトの「原因論」は、現在の行動は「過去の原因」(トラウマなど)によって決定されるものだと考える点に違いがあります。
アドラー心理学の「目的論」とは、人間の行動や感情は基本的に、過去の原因や環境によって起きるのではなく、何らかの目的を達成しようとするために個人が起こすのだ、と考える立場です。例えば子どもが不適切な行動をする場合、目的論の立場では、過去の出来事や環境が子どもに不適切な行動を行わせると考えるのではなく、その行動には子どもにとって何らかの重要な目的があると考えます。
フロイトの精神分析に代表される「原因論」的心理学では、現在の問題やさまざまな行動を、過去の経験、特に幼少期の経験をめぐる内面的な無意識の葛藤などといった原因によるものととらえます。それに対してアドラー心理学では、「目的論」に基づいて、個人の行動は、個人自身が主体的に選び取った、意識的あるいは無意識的に定めた仮想的目標を達成するための動きである、すなわち、その個人にとっての相対的マイナスから相対的プラスに向かうための運動なのだと強調します。
なおアドラー心理学は、過去の出来事や環境の影響を完全に否定するわけではありません。成長過程における身近な人間との葛藤がライフスタイル形成に影響するなど、過去の出来事の間接的な影響を認めています。また強いストレスへの生理的反応としてPTSD等の急性または慢性的な症状が現れることや、発達障害による行動特性が子どもの行動に様々な傾向性を与えることなどについても然りです。アドラー心理学はそうした先天的、後天的な影響にも充分注意が必要だとしながらも、なおかつ、個人は仮想的目標に向かう個人自身の主体的選択によって一つ一つの行動を決定すると考える、「やわらかい決定論」の立場に立ちます。
主要概念
アドラー心理学でいう「劣等感」とは、「自分は他者よりも価値がない」という思い込み・感覚だけを指しているのではなく、その人が理想とする状態とは違う現実に遭遇したときに起きる感覚も指しています。アドラー心理学では前者を後天的に意味づけられた幻想であり、人々を終わりのない「優越性の追求」という不毛な努力へ駆り立てる原動力になるものと捉えます。
アドラー心理学における最も重要な概念は「共同体感覚」ですが、有名であるという点では「劣等感」が一番かも知れません。
アドラーは「劣等感」を、「不完全である成就していないという感覚」と述べました。ドイツ語での原語「Minderwertigkeit」は、字義通りに訳せば「価値がより少ない感じ」となります。すなわち、アドラー心理学における「劣等感」とは、一般に言われる「自分は他者よりも価値が少ない」という思い込み・感覚だけでなく、もう少し広く、その人が理想とする状態とは違う現実に遭遇したときに起きる感覚も指しています。しかしながらこの言葉は、現代のような競合的な社会では、もっぱら前者のような「人に比べて自分は○○の点で劣っている(から自分には価値がない)」といった意味合いで使われています。ご質問はこの、世の中でいう「劣等感」についてと思われますので、そちらについてお答えさせていただきます。
人間の赤ちゃんはきっと、はじめは自分と他者の優劣を比較しない「平等」な世界のなかで、安心して生きているのでしょう。しかし子どもは成長し言葉を覚え、社会生活を送る中で、まるで当たり前のように、「自分は他者よりも価値が少ない」という思い込み・感覚を持ち続けるようになります。これについてアドラー派の心理学者は、次のようなプロセスによるものと指摘しています。
- 「区別」の学習:優れたものと劣ったものの「区別」を学ぶ。
- 「勇気くじき」:親や教師から「それじゃダメ」「なんでできないの?」といった言葉をかけられること(勇気くじき)で、「自分は他者より劣っている存在だ」と思い込む。
人は、他者に対して「私はこういう点で劣っている」という劣等感(相対的マイナス)を抱くと、世界への所属感や安心感といった、「平等の位置」にいる感覚を失ってしまいます。そこで失った感覚を取り戻すために、世界(社会)に所属するためには「私はこうでなければならない」(例:「人の上に立たなければならない」「人に好かれなければならない」)といった、その人にとって自分の理想状態である「優越目標(相対的プラス)」を立てて、その目標を達成するための行動を起こすことで「劣等感を補償」しようとします。アドラー心理学ではこのように、人間の行動を、相対的マイナスから相対的プラスに向かう目標追求として捉えます。
しかしながら、そうした劣等感をずっと持ち続けていると、上記のような目標も、どれだけ追いかけても決して到達できない地平線のように逃げていってしまいます。そのため人は、常に不安を抱え、緊張し、努力し続けなければならない状態に陥ります。つまり一般にいわれる劣等感というものは、後天的に意味づけられた「自分には価値がない」という幻想であり、人々を終わりのない「優越性の追求」という不毛な努力へ駆り立てる原動力になるものと捉えることができます。
「劣等コンプレックス」とは劣等感を言い訳にして人生の課題から逃げる状態を指し、「優越コンプレックス」とはその劣等感を隠すために自分が優れているかのように振る舞う、劣等感の裏返しである状態を指します。
アドラー心理学における「劣等コンプレックス」とは、人が自分の持つ「劣等感」を、人生の課題から逃れるための口実として利用している状態を指します。これは、困難に対して建設的に取り組むことを避けている自分を、正当化するための自己欺瞞に他なりません。このような嘘の目的は、自分の現状維持がたとえ失敗を招いたとしても、その責任を自分以外のものに転嫁することにあります。この「劣等コンプレックス」は、過度に「心の傷」や被害者意識などを訴えることで周囲の同情を引いたり、相手を感情的に支配するための手段として使われることもあります。
では、人はどのようにして「劣等コンプレックス」を使うに至るのでしょうか。誰しも、生まれながらにして「自分は劣っているに違いない」と感じているわけではありません。したがって人は成長の過程で、家庭や学校、社会などでの様々な要因の影響により、劣等感を持つようになると考えられます。子どもは言葉を覚えるにつれて、物事の「違い」を「優劣」として区別し始めます。その際に、親や教師が「どうしてできないの?」「もっと頑張らないとダメ」といった、本人への否定的な言葉(アドラー心理学で言う「勇気くじき」)を投げかけると、子どもは「自分は人として劣っている」という、いわゆる劣等感を抱くようになります。この「劣等感」を、自分の課題に向き合うのを避けるための理由として使うことを、「劣等コンプレックス」といいます。たとえば、「私は頭が悪いから/身体が弱いから/不器用だから、~~をやらなくていいんだ。誰かにやってもらおう」と、劣等感を理由に課題から逃れることはこれにあたります。
この「自分は人として劣っている」という感覚は、客観的な事実ではなく、作られた思い込み(フィクション)です。しかし、この劣等感から逃れるために、人は「優越の位置」という架空の目標を立て、それに向かって努力を始めます。この「劣等の位置から優越の位置へ」という動きそのものが、ライフスタイルの基本構造となります。この動きは当初の意図としては前向きといえますが、しかし幼い頃の思い込みに基づく行動ですから、多くの場合、初めからピントのずれた努力に陥りがちです。
およそ人が持てるものは何であろうと、身体的な特徴(器官劣等性)、性別、生まれ育ち、経済状況、さらには家族や上司といった人間関係まで、本人が「劣等感」をもちさえすれば、ありとあらゆるものがこの劣等コンプレックスの材料となり得ます。たとえば現代社会のように「老い」がネガティブなものと捉えられる社会においては、高齢者が大きな「劣等感」を抱えやすい状況にあるため、「老い」が劣等コンプレックスとして使われることにつながりやすくなります。
アドラー心理学では、いわゆる「神経症」というのは、人が劣等コンプレックスを、人生をやっていくための主要な手段として用いている状態だと考えます。神経症的な人は休みなく劣等コンプレックスを実践しており、自分が作り出した口実に完全に騙されている状態にあります。アドラーはこの状態を「犬が自分の尻尾を追いかけてぐるぐる回っている」と表現しました。この自己欺瞞のサイクルに囚われている限り、人生の問題の真の解決には至りません。
劣等コンプレックスから抜け出すためには、まず、その自己欺瞞の輪から外へ出なくてはなりません。そのための一歩として、次のようなものが考えられます。
- 共同体への貢献
他者や社会に貢献すること(それらにプラスになることを始めること)は、内向きの関心を外に向け、自己欺瞞のサイクルを断ち切ります。 - 「劣等」という幻想に気づく
私たちが抱くいわゆる「劣等感」は、実は社会全体が共有する壮大な誤解に過ぎないのかもしれず、客観的な事実ではありません。 - 「勇気づけ」
「勇気づけ」は、人が自分の人生を自分の責任で生きる選択をするためのはたらきかけです。たとえば、子どもが貢献してくれたことに感謝を感じたなら、「お手伝いありがとう」「あなたがいると助かる」といった言葉を伝えてみることができます。こうしたことによって、子どもは、自分は他者の役に立つ存在であると感じることができ、そこから、自分の力を他者のために使う勇気を持つことができます。
つまり、人としての優劣という幻想の物差しから降り、他者と対等な立場で協力関係を築いていくことが、劣等コンプレックスを克服する道となるのです。
一方、「優越コンプレックス」は、劣等感の補償の一つの方法として、あたかも自分が優れているかのように振る舞う状態です。自慢話を繰り返したり、他者を見下したり、権威を誇示したりする行動がこれにあたります。野田は「優越コンプレックスは結局、劣等コンプレックスと同じ」と言っていました。優越コンプレックスは、「自分は優れているんだ。だから、~~をしなくていいんだ」という自己欺瞞的な私的論理として現れます。これも、他者との調和を欠き、対人関係の摩擦を生じやすいあり方といえます。また「優越コンプレックス」は、対人関係において片方が相手への劣等感を過補償し、それに対して相手がさらに大きな劣等感を持ち、それを過補償し、といったように繰り返されていくことで、両者の争いが際限なく拡大する原因でもあります。
アドラー心理学の「ライフスタイル」とは「性格」や「人格」にあたるもので、遺伝や環境に一方的に決定されるのではなく、子ども自身が家庭環境やきょうだい関係に影響を受けながら、試行錯誤や模倣などを通じて主体的に「選択」して形成するものです。
「ライフスタイル」とは、一般的に使われる「性格」や「人格」に相当する、アドラー心理学の中心的な概念です。アドラーが「性格」や「人格」という言葉を使わなかったのは、「性格」という言葉が持つ遺伝がその人のすべてを決定するようなニュアンスと、「人格」が持つ、逆に遺伝的要因を軽視しすぎるニュアンスの両方を避けるためでした。アドラー心理学では、ライフスタイルは遺伝や環境に影響はされるものの、それらによって一方的に決定されるわけではないと考えます。この独自の立場を明確にするために、「ライフスタイル」という言葉が選ばれました。
ライフスタイルの形成過程についてですが、ライフスタイル形成における最も重要な原則は、子ども自身が主体的な「選択」によってライフスタイルを選び取る、という点です。子どもは以下の3つの方法を通じて世界を学び、自らの生き方(ライフスタイル)を能動的に構築していきます。
- 試行錯誤:様々な行動を試し、その結果(親やきょうだいに受け入れられたか、願いが叶ったかなど)から、うまくいく方法を法則として自ら発見します。
- モデル(模倣):親やきょうだい、物語の登場人物など、他者の行動を真似ることで学びます。
- 言葉:親や教師から話を聞いたり、本を読んだりして、言語を通じて学びます。
いずれの方法においても、子どもは教えられたことをそのまま受け入れるのではなく、自分が学びたいことを選び取って、自身のライフスタイルを形作っていきます。子どもがライフスタイルを「選択」する上で、特に大きな影響を与えるのが「家庭環境」と「きょうだい関係」です。
「家庭」は通常、人が生まれて初めて所属する社会であり、人間として育つための最も基礎的な共同体です。「家庭環境」の中では親の持つ価値観「家族の価値」と、その価値観を実現する方法である「家族の雰囲気」が、子どものライフスタイル形成に影響を及ぼすものとしてアドラー心理学では重要視されます。
「きょうだい関係」ですが、アドラーは、親よりもきょうだいの影響を重視しました。なぜなら、いってみれば親は獲得すべき「賞品」であるのに対し、きょうだいは同じ賞品を奪い合う「競争相手」に位置し、生き方の作戦(ライフスタイル)を立てる上で、より決定的な影響を与えるからです。アドラーによると、誕生順位によって以下のような典型的な傾向が見られるとされます。
- 長子:親の愛情を独占した後に王座を奪われる経験から、賢さや能力を誇示する、あるいは乱暴になるといった作戦をとる傾向があります。
- 中間子:注目を独占した経験がなく、家の中より外に活路を見出したり、人間関係の中で自分の位置を確保するために工夫を凝らしたりします。
- 末子:常に年長者に囲まれ、可愛がられる術を身につけますが、主体性に欠ける可能性があります。
- 単独子:末子に似ていますが、競争相手がいないため、許される範囲の「限界」を知らない傾向があります。
ただし、こうした誕生順位によるライフスタイルの傾向は、単に一つの例であって、可能性にすぎないものです。個人のライフスタイルはその人独特のものであるが故に、誕生順位以外の様々な情報を知ることによって、はじめて個人のライフスタイルを理解することができるのだとアドラー自身が述べています。
たとえば、性別やきょうだい間の年齢差、個々の子どもが利用可能なリソースによってもまったく違ってきます。
また、家庭以外でライフスタイルに影響を及ぼす要因としては、学校や、その他ライフスタイル形成期に子どもが所属する集団や、子どもが接する様々な情報(メデイア、出版物、インターネットなど)も、ライフスタイル形成に影響を与える要因となります。
アドラー心理学の「課題の分離」とは、ある課題の結末が最終的に誰にふりかかるかという観点から、その課題が「本来誰の課題か」を判断する考え方であり、他者が本人の課題に介入したり、本来は自分の課題であるものを他者に「肩代わり」させることを防ぐとともに、必要に応じて「共同の課題」として協力し合うための準備段階として重要になります。
アドラー心理学では、共同体のメンバーが人生の課題に遭遇したときに、その課題に責任をもつ本人が対処するのに加えて、必要に応じてその課題を共同体における「共同の課題」としてとらえ、他のメンバーも協力してそれに対処しようと考えます。しかし、そうした分担を的確に行うためには、共同体のメンバーの間で、その課題が誰のどのような課題であるかについて、あらかじめ明らかでなくてはなりません。
実は、それを明らかにする作業こそが、いわゆる「課題の分離」なのです。「課題の分離」とは、共同の課題を作るための準備段階として、その課題に関する結末が最終的にふりかかるのは誰か、という観点から、その課題が本来誰の課題であるかを判断するものです。
例えば、「子どもが勉強するかどうか」という課題は、本来は子ども自身の課題であるはずです。なぜならば、子どもが勉強するにせよしないにせよ、それによって左右されるのは、他ならぬ子ども自身の将来だからです。だとすると、宿題をしないことで親自身が感じる不安を解消したいなどの理由で、子どもの考えを聞いたり話し合ったりせずに、ひたすら叱責して宿題をやらせようとしたり、勉強の仕方に一方的に口を出したりすることは、子どもの課題に勝手に介入することになったり、親自身の課題である「子どもの勉強に対する不安」を解消するために、子どもに「課題の肩代わり」をさせることになると考えます。たとえもしそれで子どもの成績は伸びたとしてもそれは、子ども自身にとって本当の意味での成長につながるでしょうか?
「課題の分離」をせずに、子どもの課題に勝手に介入することは、自分のなすべきことを自分でやりとげる、あるいは誰かと協力してやりとげるという貴重な機会を子どもから奪ってしまうことに他なりません。そのため、課題への対処を子ども自身に任せる場合も、あるいはすべて子どもだけに任せず、共同の課題にする場合にも、あらかじめそれらについて、子どもとよく話し合わなければなりません。子どもがその課題についてどのように考えているのか、なにか助力を必要としているか、などについてまずは子どもの話をよく聴き、子どもがしてほしいことで親ができそうなことを具体的に親子で話し合って決めていくのです。
なお、こうして課題について話し合いをした後も、常に子どもを見守って、場合によっては共同の課題を作り直す、という作業が必要となります。一度課題を分離したらもうそれっきりで、「あなたの課題だから」と終わりにしてしまうのなら、それでは単なる無責任な放任育児であって、アドラー心理学とはいえません。
ちなみに課題の分離について、アドラー心理学でもっとも重要な技法だと紹介されることがあるようですが、それは誤りです。たしかに重要ですが、最重要ではありません。それよりも大事なのは、課題を分離した後の共同の課題をつくる過程であり、さらに大事なのは、そうして課題を分担し合い、協力しあってともに幸せに暮らすこと、そしてそのように育った人々が増えていくことで、次第にこの世の中が暮らしやすい世の中に変わっていくことです。大袈裟なようですが、それがアドラーの思い描いた人類の未来なのです。
こじれたコミュニケーションの5つの段階
アドラー心理学では、子どもの不適切な行動を単に罰するのではなく、その背景にある、「所属(居場所)」を得ようとする目的(賞賛・注目・権力争い等)を理解しようとし、それはしばしば大人との「こじれたコミュニケーション」の現れであると捉えます。
アドラー心理学では、子どもの不適切な行動(問題行動)に対して、いきなりその行動自体を罰したり禁止したりするのではなく、まず背景にある理由を理解しようと努めます(ただし他者に危害が及ぶなど緊急避難が必要な場合は、その限りではありません)。
子どもが不適切な行動をする理由は、いくつも考えられます。アドラーの直接の弟子であるR.ドライカースは、子どもが人々の間に居場所(所属)を得る目的で不適切な行動を起こすことがあると考えて、そうした行動と目的を「子どもの行動の誤った目標」と呼び、以下の4段階に分類しました。
- 注目・関心を引く
- 権力争い
- 復讐する
- 無能力を誇示する
その後、野田をはじめとする多くの現代の研究者は、上記の最初の段階として、
- 賞賛を求める
という項目を追加しています。それぞれの段階における基本的な対応は、それらの行動とは別の建設的な方法で、人々の間に所属を得ることができると子どもに学んでもらえるよう、親や周囲の大人、あるいは専門家などから勇気づけを行うことです。
ところで、「子どもの行動の誤った目標」という呼び方について野田は、その呼び方では親などの大人が、「子どもの行動がこのように不適切なのであって、そのように思う私の判断は適切だ」と受け止めて、その結果、子どもを一面的かつ一方的に裁くことにつながりかねないと懸念しました。というのも、ある子どもが上記の段階のうちのいずれかの振る舞いを見せたとしても、別の場所や異なる相手に対しては、全く違う振る舞いをすることが少なくないのです。本当に子どもの側だけに問題があるのなら、子どもは常に、あらゆる相手に対して同じように振る舞うはずです。
野田は、ある大人に対して子どもが不適切な振る舞いをするのは、その大人と子どもとの間に、そのようなコミュニケーションの構造があるからだ、と指摘します。上記の5つの段階についても、「こじれたコミュニケーションの5つの段階」として説明しました。改善すべきなのは、親と子どもの競合的なコミュニケーションのあり方であって、そうした一環として、子どもには家族や社会への建設的な所属の仕方を学んでもらうのです。大人もまた、競合的でないコミュニケーションの仕方を学ばなくてはなりません。
なお、子どもの不適切な行動の理由は、ここで述べたコミュニケーションの問題以外にも考えられます。たとえば発達段階の途上で何が不適切な行動かを知らない場合、不適切だと知っていても、本当にどうすればよいか分からない場合、あるいは障がいを原因とする様々な困難を抱えている場合などです。実際の育児では、これらの要因を除外した上で、はじめてこの「こじれたコミュニケーションの5つの段階」を検討していくことになります。
「賞賛を求める」とは、こじれたコミュニケーションの第一段階で、子どもが「褒められない自分には価値がない」という考えから、賞賛されることによって集団内の居場所を得ようと「適切な行動」をとる状態であり、賞賛が得られなくなるとその行動をやめてしまうため、その行動自体ではなく他の貢献的な行動に注目して勇気づける必要があります。
こじれたコミュニケーション(子どもの不適切な行動の目的)、その第一段階が「賞賛を求める」です。子どもは大人(特に親や教師)に褒められることで集団の中に居場所を確保しようとして、「適切な行動」をとろうとします。つまり、「褒められない自分には価値がない」という考えに基づいているため、これはすでに勇気がくじかれた状態と捉えられます。ここで注意すべきは、子どもが適切な行動そのものではなく、それによって賞賛されることを重視しているという点です。
こうした子どもの行動は、表面上は不適切な行動に見えません。大人は当初、こうした行動に喜びなどの陽性感情を抱き、褒めてあげたいと感じるものです。しかし、子どもが繰り返し賞賛を求めてくると、次第にそれを煩わしく感じるようになっていきます。そして、子どもは賞賛が得られなくなると、ただちに適切な行動をやめてしまいます。子どもを褒めて育てる場合の弊害がここにあります。しかし、だからといってここで単純に褒めるのをやめてしまったり、あるいは子どもが競争に負けるなどして賞賛を得られなくなったりすると、次の段階の行動に移行してしまうおそれがあります。
ここでの対応として重要なのは、子どもが賞賛のために行っている行動を褒めるのではなく、その子が意識せずに行っている共同体への貢献的な行動に注目することです。その子自身が「(褒められなくとも)自分には価値があり、ここに居場所がある」と感じられるよう、援助していくことが求められます。
「注目・関心を引く」とは、こじれたコミュニケーションの第二段階で、良いことや普通のことでは注目されず価値がないと感じた子どもが、いたずらや騒ぐといった困った行動をわざと行うことで、たとえ怒られてでも「無視されるよりマシ」と大人の関心を引こうとする状態です。
こじれたコミュニケーション(不適切な行動の目的)、その第二段階が「注目・関心を引く」です。これは、子どもが良いことで注目されない、あるいは普通にしていても注目されないと感じたときに、悪いことや困った行動をすることで、大人(特に親や教師)の関心を引こうとする行動です。例えば、わざといたずらをする、大声で騒ぐ、ふざけるといった、大人の側でうるさく感じられ、つい介入したくなるような行動がこれにあたります。注意をすると子どもはその行動をいったんやめますから、大人の方はイライラしますが本気で腹は立ちません。
ここで子どもは「自分には良いことができないし、普通にしていても誰にも見てもらえない。こんな自分には価値がない。」と感じているので、これもまた勇気がくじかれた状態といえます。このような状態にあっては、「無視されるよりは怒られる方がまだマシ」なのです。
ここまでの段階では、子どもはまだ比較的肯定的な注目を求めているため、大人からの適切な注目や関心、そして勇気づけを通じて、より建設的な方法で所属を得るように促すことができます。適切な行動に対して陽性感情をもって注目(正の注目)をしつつ、不適切な行動に対して陰性感情をもって注目(負の注目)をしないという関わり方が基本となります。ただし、単に無視したり罰したりするだけでは、注目によって居場所を得ようとする子どもの目標は達成されません。子どもは自分には価値があるとますます思えなくなって、さらに次の段階の行動に進んでしまう可能性があります。
「権力争い」とは、こじれたコミュニケーションの第三段階であり、不適切な行動で注目を得ても居場所がないと感じた子どもが、特に罰や強制を用いる大人に対して「勝たないと価値がない」と考え、反抗的な態度やルール破りによって自分の力を示そうとする状態を指します。
こじれたコミュニケーション(不適切な行動の目的)、その第三段階が「権力争い」です。前の段階である「不適切な行動で注目・関心を得る」を試みても、所属が得られないと感じたり、自分には価値があると十分感じられなかった場合にこの段階に進みます。つまり、注目が得られなかったから、今度は相手に勝つことで所属を得ようとするのです。こうした姿勢は、大人が子どもの不適切な行動をコントロールしようと罰を用いたり強制したりした場合に現れやすくなります。子どもは、大人に勝たないと自分には価値がなく、自分の居場所がないと感じます。そこで大人に対して反抗的な態度をとったり、指示に従わなかったり、わざとルールを破ったりすることなどで大人と戦い、自分の力を示そうとします。
この段階は、いわゆる「ケンカ」の形のコミュニケーションです。大人の側では腹立たしく感じられますが、だからといって正論や力で押さえつけようとすれば、子どもの抵抗はさらに強まり、次の「復讐」の段階に進んでしまいます。重要なのは、コミュニケーションが権力争いの形になってしまったことに気づいたら、その争いから降りることです。もしどうしても感情的になる場合にはその場を離れ、冷静になってから改めて話し合うことが大切です。その際には、大人が自分の意見を言う前に、相手の話を裁かず十分に聞くこと。そして、子どもの行動の適切な側面を探したり、子どもはそもそも何を解決したかったのかを考え、そのために大人が協力できることはないか相談したりすること。これらが、こじれたコミュニケーションを改善するために重要となります。
この段階までは、当事者の力でなんとか解決できる可能性があります。ですが、この先の「復讐」や「無能力の誇示」の段階に進んでしまうと、解決のためには専門家など第三者の存在が必要になったり、専門家でも解決が難しくなります。ですから、この「権力争い」の段階から先に進まないようにすることは、極めて大切です。
「復讐する」とは、こじれたコミュニケーションの第四段階であり、それまでの段階(賞賛、注目、権力争い)で所属感を得られず大人に傷つけられたと感じた子どもが、自分を傷つけたと認識する相手に対し、物を壊したり嘘をついたりするなど意図的に相手が嫌がることをして仕返ししようとする状態を指します。
こじれたコミュニケーション(不適切な行動の目的)、その第四段階は「復讐する」です。これは、第一段階「賞賛を求める」、第二段階「注目を得る」、第三段階「権力争い」といったいずれの行動でも、所属感や自分には価値があるという感じが持てず、大人から傷つけられたり、不当な扱いを受けたと感じたりした場合に現れます。子どもは、直接的には相手に勝てないと悟ると、間接的な方法で相手を傷つけようと試みます。つまり、自分を傷つけたと認識している相手に対し、意図的に相手が嫌がることや困ることを相手の見えないところで仕掛け、仕返しをして相手を傷つけようとするのです。例えば、物を壊す、嘘をつく、陰湿ないじめをするなどの行動です。非行に走ったり、神経症的な症状を出す事もあります。
この段階の子どもは深い絶望感や憎しみを抱いていることがあり、その場合、罰や叱責はもちろん、普通に話しかけることさえも、かえって復讐心を煽るだけとなります。大人の側も深く傷つくことの多いこの段階は、もはや当事者どうしでは解決できません。そのため、こじれたコミュニケーションは、一つ前の「権力争い」の段階で止めておく事が極めて重要となります。この復讐の段階では、第三者であるカウンセラーや心理療法士といった専門家の介入が必要になります。あるいは第三者でこの子どもと良好な関係を築いている大人がいれば、その方の援助を仰ぐ方法があります。
「無能力を誇示する」とは、こじれたコミュニケーションの第五段階であり、それまでの段階(賞賛、注目、権力争い、復讐)でも所属感が得られず自分に全く価値がないと深く絶望した子どもが、あらゆる建設的な努力を放棄し、「自分は無価値だから放っておいてくれ」という態度を示す状態を指します。
こじれたコミュニケーション(不適切な行動の目的)、その第五段階は「無能力を誇示する」です。これは、それまでの段階(賞賛、注目、権力争い、復讐)を経ても所属している感じが得られず、自分には価値がまったくないと感じている、きわめて勇気のくじかれた状態を指します。何をしても無駄だと深く絶望し、あらゆる建設的な努力を放棄してしまい、「自分は無価値で役に立たないんだから、あきらめてほっといてくれ」という態度を示すのです。極端な場合には、犯罪を繰り返したり、深刻な精神的症状によって入退院を繰り返すといった状態に至ることもあり、親の側としてもそうした行動に絶望してしまうことは少なくありません。
この段階にある子どもへの対応は極めて難しく、専門的なトレーニングを受けたカウンセラーや心理療法士や医師といった専門家の介入があっても、改善や治療が難しい事もあります。
「不適切な行動に注目せず、適切な行動に注目する」は、正確には「不適切な行動に負の注目をせず、適切な行動に正の注目をする」といいます。不適切な行動には怒りや不安といった陰性感情をもって対応せずに落ち着いて冷静に話し合い、適切な行動に対しては、その背景にある人としての成長に対して喜びをわかち合ったり、家族や周囲に貢献してくれたことに感謝を伝えるなど、陽性感情を持って関心を示すことを指します。
アドラー心理学の育児ではいつも、子どもが「私は能力がある」「人びとは私の仲間だ」と思えるように対応します。なぜならば、子どもが将来「自立して」「社会と調和して暮らせる」人になるためには、子どもが自分や周りの人びとについて、このような信念を持っていることが必要と考えるからです。「不適切な行動に負の注目をせず、適切な行動に正の注目をする」のも、子どもがこうした信念が持てるようになるための方法です。
「不適切な行動に負の注目をしない」
これは「子どもの不適切な行動に対して、怒りや不安といった陰性感情を持って関心を示さない」ということです。決して、子どもを無視したり、見て見ぬふりをすることではありません。
アドラー心理学では、感情は「思考」をもとに生じると考えます。たとえばある出来事に対して「これは大変だ」「許せない」と考えると、そこで、不安や怒りといった感情が湧き上がってくるのです。そして親(あるいは教師)がそのような陰性感情(マイナスの感情)を持っていると、子どもを勇気づけることはできず、建設的な話し合いもできません。怒りに任せて叱っても、あるいは冷たく子どもを無視しても、子どもは「叱られた」「無視された」といったことだけを記憶し、なぜ叱られたのか、何がいけなかったのか、どうすればよかったのかについて考えることにはつながりません。むしろ「私は能力がない」「人びとは私の敵だ」という考えを持ってしまうでしょう。あるいは、子どもが「不適切な行動をすると、親や先生は自分を見てくれる。少なくとも叱られることで所属できる。」と思ってしまうならば、「不適切な行動」は増えていくことになるでしょう。
ですので、できるだけ子どもとは陰性感情を持たずに関わることが重要となります。まず親自身が、普段から子どものよいところやよい意図をさがすなどをして、子どもの行動を別の見方で捉えられるようになっておくことはとても大切です。子どもについてそのように見、そのように考えることが出来てこそ、実際の子どもの不適切な行動を前にして、陰性感情を持たずに「その行動は適切ではないと思うよ」「どうしてそうしたのか話してくれる?」と問いかけ、対話することができるのです。つまり、ある行動について「負の注目」にならずに子どもの話しをきき、解決に向かって一緒に考えることができるようになるのです。こうした対応がうまくいくと、子どもは「私は能力がある」「人びとは私の仲間だ」という信念を持てるようになるでしょう。
ただ、そのように物事の捉え方(その物事への意見、意味づけ、考え方)を変えることは簡単ではありません。なぜなら人が物事を捉える際には、その人独特の、凝り固まった価値観を基準としているからです。物事の捉え方を変えるためには、まず、自分独特のものの見方を知ること、そして、そうした自分の物の見方以外にも、他の見方もできるかもしれない、と考えてみることが大切になります。そのようにできて初めて、実際の子どもとのコミュニケーションのなかで落ち着いて子どものよい意図を探し、よいところを見つけ、そこで子どもに何を学んでもらいたいかを考えながら対応できるようになるのです。
とはいえ、その場でどうしても感情的になってしまうこともあるでしょう。そのようなときには、陰性感情をぶつけて関わるより、文字通り「注目せず」に、一旦距離を置く方が賢明です。つまり、その場を離れて冷静になる工夫をするのです。ただしこれは、あくまで一時的な経過措置にすぎません。離れたままになるのではなく、大切なのは、冷静になったあとで子どもの話に耳を傾け、必要であれば話し合うことです。そうして子どもが問題をうまく解決できるように、必要なお手伝いをします。そうすることで、子どもは「自立して」「社会と調和して暮らせる」方向に向かえるでしょう。
「適切な行動に正の注目をする」
これは、子どもの適切な行動や適切な側面に、喜びや親しさと言った陽性感情(プラスの感情)を持って関心を示すことです。これは単に「良い行い」を見つけて褒めることとは異なります。そのような対応は、いくつもの危険性をはらんでいるのです。例えば、普段勉強しない子がたまたま勉強した時に「偉いね」と褒め続ければ、子どもにとって「褒められること(ご褒美)」が目的になってしまうかもしれません。それでは親が褒めなくなればその行動をやめてしまい、子どもは、勉強をする本来の意味を理解する機会を失ってしまいます。
そのようなとき、子どもの何に注目するべきなのでしょうか。
たとえば、子どもが努力した点や成長した点に注目して一緒に喜んだり、子ども自身は意識していなくても家族や周りの人のためになる事をしてくれたことに感謝することなどができます。注意したい点は、これらの対応は決して、この「適切な行動」をもっと続けてもらうことを目的としているのではないということです。そうではなくて、子どもが「私は能力がある」「人びとは私の仲間だ」と思えるように対応することで、子どもが「自立して」「社会と調和して暮らせる」人に育つことを目的としています。
「アドラー心理学の育児が目指すこと」
アドラー心理学が考える育児の最終目標は、《共通感覚》と《共同体感覚》を持った人間に育てることにあります。
《共通感覚》
現在暮らしているその社会(例えば日本)で、良しとされる常識や価値観のこと。例えば「正直」「勤勉」「親切」といった徳目や、伝統的に受け継がれている様々な作法や美意識などは共通感覚にあたります。
《共同体感覚》
社会(共同体)にとってよいことを善とする考え方。自分とは様々な点で違っている他者と、どちらが上/下、優れている/劣っているなどを争うのではなく、お互いに協力しあって、「自分も相手も幸福になるにはどうすればよいか」を考える視点です。
社会生活の基本ともいえるこの二つを、育児の目標としてしっかりと持ち、子どもの日々の行動の中で、これらに結びつく成長を見つけた時に心から喜び、その喜びを子どもと分かち合うこと。それが、「子どもの適切な行動に正の注目をする」ことなのです。例えば「勉強した」という行動そのものに注目するのではなく、その背景にある「何かを知ろう、分かろうとする姿勢」や、「将来、社会の役に立ちたいという思い」に気づき、それを喜ぶのです。そうした意味では、普段から「いまどんな本を読んでいるの?」「どんなことに関心があるの?」「どんな勉強してるの?」といったように子どもに尋ねて、子どもが関心を持っていることに親自らが関心を持つことも、適切な行動への正の注目に結びついていくのです。
アドラー心理学の育児は、「子どもをコントロールする技術」ではありません。親自身がまず、子どもにどのように育ってほしいか、といった明確で建設的な目標を持たなくてはなりません。その上で、子どもとともに成長を喜び、子どもが何かしら困難を抱えたときには、どうしたらよいかをともに考え、将来子どもが社会に出たときに、周りの人びとと力を合わせて問題を解決していけるようにと、日々少しずつ工夫を重ねていくのです。このように、親子が共に成長していく「共同作業」こそが、「不適切な行動に負の注目をせず、適切な行動に正の注目をする」という言葉に込められた、アドラー心理学からの深いメッセージなのです。
カウンセリングと応用
そのような都合のよいものはありません。「コツ」をつかんで上手に毎日を乗り切ろう、という安直な考え方こそが、家族の人間関係を悪くするのです。
「ふーん、アドラー心理学は家庭内では役に立たないんだ・・・」と、思わないでくださいね(笑)。家庭内でアドラー心理学を実践する際の「基本」は、ちゃんとあります。
- まず自分の方から相手を「尊敬」「信頼」すること。
- そうして家族と、「どちらが正しいかを決めようとする競争相手」として暮らすのではなく、家庭内やその他の問題を「どうなったらよいのか」といった目標を考える方向で「力を合わせて解決する仲間」として暮らすこと。
- そのために、自分の陰性感情に気をつけること。陰性感情があるときは、協力ができない状態になっています。
- いつも家族の「よいところ」を見ながら生活をすることは、上の項目を実践するための大きな助けになります。
このような事に気をつけながら実践することで、はじめて、アドラー心理学の育児本などで紹介されている様々な技法が有効に使えるようになります。
たとえば、
- 話の聴き方:
アドラー心理学の実践の第一歩は、相手の話を聴くことです。そのときに、上のようなことに気をつけながら聴きます。何のために相手の話を聴くのかというと、相手の考えを理解した上で、「一緒に問題を解決するため」です。決して、自分の考えを押し通すためや、相手の考えに、自分の価値判断でもってよしあしの判断を下すためではありません。
話の聴き方は、実はこれが上手にできると、それだけで相手にとって大きな勇気づけとなる事があるほどです。また、以下に続く技術を効果的に行うためにも不可欠です。 - 「勇気づけ」:
よく誤解されるのですが、「勇気づけ」というのは単に相手の気分をよくすることではありません。また一定の言葉がけや、特定の決まった行動でもありません。この2点には充分な注意が必要です。詳しくは、「勇気づけ」に関する各項目をご覧ください。 - 課題の分離と共同の課題:
アドラー心理学の育児等の技術として「課題の分離」が有名になっているようですが、実は「課題の分離」は、それだけではアドラー心理学の技術とは言えません。「課題の分離」とは、その後の段階で「共同の課題」をつくるための準備作業にすぎないのです。したがって「共同の課題をつくる」ことの方が、本来、アドラー心理学の実践として重要となります。詳しくは、「課題の分離」についての項目をご覧ください。 - 目標の一致:
課題を解決するにあたって、相手と自分の目標が同じ方向を向いているかどうか確認したり、その方向をすりあわせることを、アドラー心理学では「目標の一致」と呼んでいます。ある課題について、双方の目標が一致していれば、その課題を「共同の課題」として、協力し合って解決することが可能となります。
まず相手の話をよく聴き、そのあとで自分の考えを相手に伝え、お互いの目標が同じ方向を向いているかを確認をします。例えば、子どもが九九を覚えたいと望んでいて、親も子どもが九九を覚えることに賛成の場合などは、目標が一致している、と考えるのです。双方の目標が確認でき一致していると思われたならば、あるいは目標の方向に同意できたり、すりあわせることができたなら、次には、目標に向かって誰がどういう事をしていくかを話し合うことができます。 - 目標が一致できなかった場合(「結末を体験する」):
相手と自分の目標が違う方向を向いていて、どうしても目標の一致ができなかった場合には、無理に一致させようとするのはやめて、しばらくはそれぞれ自分自身の課題に向き合います。
育児に関しては、この段階でやっと使えるのが「結末を体験する」方法です。
- 「結末を体験する」方法:
育児中の親子の場合、親は、育てている子どもにいろいろなことを教えなければなりませんし、子どもは社会に出るまでに、親からいろんな事を学ばなければなりません。アドラー心理学では、親は子育てという貴重な機会に、生活の知識などとともに、社会で大人たちが大切にしている「共通感覚」と、社会で協力しあって暮らすための「共同体感覚」を、子どもに伝えなくてはならないと考えます。
子どもに物事を学んでもらうための方法の一つに、自分の行動の「結末を体験する」というものがあります。これは、使い方に細心の注意が必要な技法です。注意せずに使うと「勇気づけ」にならないどころか、子どもにとって「罰」になってしまい、親子関係を壊してしまうからです。そのため『パセージ』ではこの一部をコースの後半で学び、残りは『パセージ・プラス』で学ぶというように、特に時間をかけ段階を踏んで丁寧に学ぶ項目としています。
野田俊作はここでいう「結末」について、次の3通りに分類しました。
・自然の結末:自然の法則によって起きる結末。
例)雨の日に傘をささずに外へ出ると濡れる。
・社会的結末:法や慣習、伝統などよって起きる結末。
例)どろぼうをすると警察に捕まる。
・論理的結末:論理的に導き出される結末。
子どもが「自然の結末」を実際に体験することで、よく学ぶことのできる事柄は少なくありません。ただし場合によっては、子どもの身に危険がふりかかったり、子どもには結末がふりかからないが他人には迷惑をかけてしまうなど、この方法によって学んでもらうのに不向きな事柄もあります。そうしたケースでは「社会的結末」あるいは「論理的結末」といった技法を用いることができますが、しかし、親や教師がさせたいことを子どもにさせようとしてそれらの技法を使うと、かえって関係は悪くなってしまいます。
たとえば、それらの技法のなかでは親から子どもに行動の選択肢を示して、その結末を体験してもらうことがあります。しかし、選択肢は何でもいいから示せばいいわけではありません。子育てのなかで子どもに伝えるべきことを考えて、「共通感覚であって共同体感覚に沿っているもの」を選択肢として設定する必要があります。また、選択肢と結末の間には社会の共通感覚からの必然、または厳密な論理的関係がなくてはなりません。それらを親や教師の好みや勝手な都合など(私的感覚)で設定すると、それは「結末の体験」ではなく「罰」、しかもかなり厳しい「罰」になってしまうのです。
このように、これらは適用が難しく副作用が極めて大きな技法ですので、使用にあたっては細心の注意が必要となります。
- 「結末を体験する」方法:
以上の技法は、ここでは概略をお伝えすることしかできません。ここから先は、本やネットで見聞きした知識よりも、現実の育児に即した繰り返しの練習こそが大切になるのです。私どもの育児学習コース『パセージ』と『パセージ・プラス』ではここにあげている技法を含め、アドラー心理学による育児を実践的に学ぶことができますので、ぜひ受講をご検討ください。
アドラー心理学を教育現場で活かすには、アドラー心理学の理論、特に「目的論」に沿って様々な問題を考えることと、教師が生徒に対して「協力的な横の関係」でコミュニケーションをすること、この2点に注意が必要です。この土台の上に立つことによって、教科や人との関わり方など、将来社会をつくって行く人として必要な様々なことを、「賞罰」ではなく「勇気づけ」で学んでもらうことができます。
アドラー心理学を学校教育の現場で活かすためには、さまざまな機会に次の二つの点に注意することが重要です。
一つはアドラー心理学の理論、特に「目的論」にもとづいてものごとを考えているかに注意することです。
もう一つは、教師自身の、子どもたちをはじめとした他者との向き合い方にいつも注意を向けていることです。教師が「縦の関係」をつくる「競合的」な構えを持っていると、クラス全体も競合的な雰囲気になってしまって、いわゆる問題行動をする子どもが出てきたり、子ども同士の仲が悪くなってしまうことにつながります。反対に、教師が「横の関係」をつくる「協力的」な構えを持っていると、クラス全体が「協力的」な雰囲気になり、あたたかく、お互いに助け合うクラスになりやすいです。
ではそれぞれの注意点について、もう少し深く見ていきます。
- 「目的論」で問題を見る。
アドラー心理学の基本前提のなかに「目的論」という考え方があります。
クラスで起きた問題について考える時に、何が原因かではなく、どういう風になったよいのかを考える視点につながります。また、生徒の問題行動について考える時も、その子は何が原因でその行動をするのか、よりも、何のためにその行動をするのか、について考えると、問題解決の糸口が見つかりやすいとアドラー心理学は考えます。
教師が問題だと感じるような行動をする生徒がいるときに、その行動の原因を考えてそれを取り除こうとしても、物理学や化学のようにははっきりとした原因が見つからないことが多いです。原因が見つからないときに原因を取り除くことは無理でしょう。行動の原因ではなく目的を考えるなら、その目的(目標)が、実現しても問題のないものであれば、目標が実現できるような他の行動を考えればよい、ということになります。
人のすべての行動の究極的な目標は「所属」だ、とアドラー心理学は考えます。つまり、人の行動の目的は集団(社会)の中に自分の居場所を確保すること、と考えるのです。居場所を確保すること自体は、よい目的(目標)です。ひょっとしたら、生徒の「問題行動」も、クラスへの「所属」あるいは教師との「所属」という、本来よい目的(目標)のために行われているのかもしれません。そうであれば、生徒にその行動を改めさせる、という方針よりは、別の(問題とならない)行動で目標実現ができるように援助する方が、その生徒にとってもクラス全体にとってもプラスの方向へ向くと考えます。
さらに関心がある方はぜひ、「Q こじれたコミュニケーションの5つの段階」をご参照ください。
- 「競合的な構え」と「協力的な構え」、「縦の関係」と「横の関係」
競合的な構えは縦の関係をつくり、協力的な構えは横の関係をつくり出します。
競合的な教育の中には、「権威的」な教育と「放任的」な教育があります。
権威的な教育では、教師が生徒に命令し管理し生徒を支配しようとします。生徒は恐怖心から規律を守りますが、「権力を手に入れて弱い者を支配しよう」「強い者の前ではいい子でいて、陰では何をしてもいいや」などと考えるようになります。
放任的な教育では、生徒のすることを何でも容認します。一見優しそうに見えますが、ウラを返せば無責任ということになります。限界を設定しないので、生徒は「自分がやりたいことは何をしてもよいのだ」と考えるようになり、自分で責任を取ることや、社会の中でしてはいけないことを学べません。また、自分がしたいことができないと、「自分がやりたいことができないのは○○のせいだ」などと、他者や社会を責めたりするようになるかもしれません。
協力的な教育は「民主的」な方法をとります。教師は「教師と生徒は立場が違うが人間としては対等である」と考え生徒を「尊敬」「信頼」し「横の関係」を築きます。教師としての責任を果たし、生徒とたえず協力して問題を解決しようとします。そのような教師のあり方から生徒は責任を学び、教師とも、生徒同士も、協力し、話し合って物事を解決しようとするようになるでしょう。
競合的で権威的な教育で使われるのが「賞と罰」という方法で、協力的な教育で使われるのが、「勇気づけ」です。
アドラー心理学を教育現場で活かすために不可欠なのが、以上の2点です。
次に、これらの点に注意しながらどんなことをしていくのがよいか、について述べます。
アドラー心理学では、人間が協力的な横の関係にもとづいて暮らせるのがよいことだと考えています。「勇気づけ」を行っていくことは、アドラー心理学を教育現場で実践することに他なりません。
「勇気づけ」の基礎と応用
それでは、「勇気づけ」というのはもう少し具体的にはどういうことでしょうか。アドラーをはじめアドラー心理学の先人たちは「勇気」や「勇気づけ」について様々な表現を用いています。野田俊作は育児学習コース『パセージ』で「『勇気づける』というのは、子育ての心理面の目標、1)私は能力がある。2)人びとは私の仲間だ。に向かうように、子どもを援助することです。」と述べています。
『パセージ』ではそのための実践的な方法を、段階を踏んで学んでいきます。
そのうちここでは最も基本的なことだけをご紹介しますと、
- 子どもの話を聴く
- 子どもの適切な行動や適切な側面を探す
この2つとなります。
「勇気づけ」というのは、ある特定の「言葉がけ」や行動などでは決してありません。ある言葉や行動が勇気づけになるかどうかは、教師の「構え」によっても違いますし、個々の子どもによっても違います。
たとえば子どもの話を聴くときに、「この子は困った子だ。なんとかしてあげなければ。」と思いながら聴くのと、「この子は困った行動をしたけれど、悪い子ではない。よいところもたくさんある。この子は何を望んでいるのだろう?」と思いながら聴くのでは、「勇気づけ」になるかどうかが全く違ってきます。また、たとえば「がんばれ!」という言葉が勇気づけになる子どももいますし、この言葉で勇気をくじかれてしまう子どももいます。ですから、何がその子にとって勇気づけになるかを知るためには、いつでも子どものことを観察していることと、プラスの感情を持って子どもとコミュニケーションすることがとても大切になります。
上述のような注意点や小さな実践を基礎としながら、さらに発展した実践として「クラス会議」を行う事ができます。
クラス会議は、みんなで自分たちのクラスをよりよいものにしていくためのものです。教師と生徒や生徒同士が協力的な横の関係で行われると、とてもよい勇気づけの場になります。ここでは教師は「ボス」ではなく「コーディネーター」の役割になります。クラスは、お互いに援助し会う場になり、クラスのルールなど決め事もここでみんなで決める事ができるようになるので、生徒は「民主的」な方法を学ぶ事ができます。
こうした事を実践するためには、文字情報ではなく講座で体験から学ぶのが効果的です。まずは基礎講座のご受講をおすすめします。
参考図書:『アドラー心理学でクラスはよみがえる』野田俊作・萩 雅子,創元社,2017
課題の分離について
親の責任とは、課題を肩代わりするのではなく、「課題の分離」を協力への準備段階と位置づけ、子どもが自ら課題に取り組む「勇気」を持てるよう援助することです。
「課題の分離」は放置や責任放棄ではありません。「課題の分離」とは、親子あるいは仲間同士が支え合い、協力し合って暮らすための、その準備のプロセスなのです。文化的な傾向として、課題が誰のものなのか混乱しがちな日本でも、安全にアドラー心理学が使えるようにと、かつてのドライカースのアイデアを元に、野田俊作が考案しました(関連ページ)。
ときどき世の中で、「課題の分離」をアドラーの思想の核心のように説明していることがあるようですが、それは全くの誤りです。「課題の分離」はアドラー自身の主張には含まれていませんし、またこれは相手を勇気づけるためのプロセスのひとつであって、目指すべき理想や哲学ではありません。親子それぞれが自分の責任を果たしながら、協力しあって暮らしていくことが、アドラー心理学に基づく家族の暮らし方です。そうした分担と協力の準備のためにこそ、いったん課題を「分離」するのです。したがって、課題を機械的に切り離すことが「課題の分離」なのではありません。横の関係で心から話し合い、どの課題が誰の負うべき課題なのかを明らかにすることが「課題の分離」なのです。
親としての責任は、子どもの課題を肩代わりすることではなく、子どもが自分の課題に取り組む「勇気」を持てるよう援助することです。具体的には、子どもの話をよく聴いたうえで、子どもを信じ、見守り、励まし、見届ける、必要ならば子どもと話し合って勉強の環境を整える、子どもが困っている様子ならば「なにかお手伝いできることはありますか?」と問いかけ、子どもから相談されれば応じる(答えを教えるのではなく考え方を導く)などの援助が考えられます。いずれにせよ、親のどのような対応が子どもへの勇気づけになるかは、その親子それぞれで違います。しかしながら「それは子どもの課題だ」と切り離すことは、多くの場合は子どもの勇気をくじくことになり、それはアドラー心理学が伝えている「勇気づけ」とは違うものになってしまうでしょう。
Staff List
企画・編集:川尻信一(AIJ事務局長)
執筆:大竹優子・中井亜由美・久保田由紀子・野田文子(以上4名AIJ心理療法士)
監修:大竹優子(アドラー心理学指導者)
本コンテンツの無断転載を禁じます。© 一般財団法人 野田俊作顕彰財団 Adler Institute Japan.
