アドラー心理学についてよく見られるご質問と、それぞれへの私たちの見解をQ&A形式で簡単にまとめました。皆さまの率直な疑問にお答えするため、アドラー心理学に批判的なご質問や、誤解に基づくと思われるご質問も、あえてそのまま掲載しています。内容はさらに網羅的に充実させたいと考えております。
なお、各項目についてより踏み込んだ回答をお求めの場合、あるいはより分かりやすい説明をご希望の場合は、よろしければ『AIJアドラー心理学基礎講座』の受講をご検討ください。
基本前提
アドラー心理学とは、個人を「分割できない全体」として捉え、その行動は未来の「目的」に向かって個人が主体的に決定し行うものと考え、個人は仮想の世界に暮らしており、なおかつ社会に組み込まれた存在だとする心理学です。他者と協力し社会(共同体)に貢献することを善とする「共同体感覚」の育成を重視する点が特徴です。
アドラー心理学は、オーストリアの精神科医アルフレッド・アドラー(Alfred Adler, 1870-1937)が創始した心理学です。
人間の行動や心理を理解するにあたり、個人を自ら主体的に動く、分割できない全体として捉え、フロイトの精神分析などが過去の原因を重視するのに対し、アドラー心理学は、未来の目的や目標に向かって個人が現在の行動を決定すると考えます。また個人は主観的に意味づけられた仮想の世界に暮らしており、なおかつ、対人関係や社会に組み込まれた存在であると捉えます。したがって個人の人生における課題も目標もそれぞれ仮想であって、それらは社会的な文脈のなかにあると考えます。
またアドラー心理学は心理学でありながら、他者と争うのではなく協力し合って社会(共同体)に貢献することを善とする「共同体感覚」の育成に向けて、自分自身と他者を勇気づける、哲学的・思想的実践としての側面を持っています。
「対人関係論」は二者間の分析に偏り、個人を「社会全体に組み込まれた」存在とするアドラー本来の視点を過度に単純化する懸念があったため、その思想の深さと広がりをより適切に反映する「社会統合論」が使われるようになりました。
アドラーは人間を社会的な存在、すなわち社会の中に位置づけられてこそ、その人の行動に意味が得られるものであるとする、”Social Embeddedness” を強調しました。しかしながらアドラーの没後、この概念を示すものとして、特にアメリカの臨床心理学の文脈でルドルフ・ドライカースらにより導入・強調された「対人関係論」は、親子関係や教育場面など二者間の相互作用の分析には有効かつ実践的であったものの、アドラーが本来意図していた、個人をより広範な「社会全体に組み込まれている」存在とする視点や、社会という複雑なネットワークの中で個人が相互に多様な影響を与え合う側面が、過度に単純化される懸念がみられました。
「社会統合論」は、個人を対人関係の中で行動するものと考えるだけでなく、アドラーが唱えていたように、社会(共同体)に「組み込まれた」存在として捉え直します。個人は家族など身近な共同体や、さらに広範な社会の「雰囲気」や価値観に様々な仕方で関わりながら、自分自身と世界がいったいどのようであるかという意味づけをし、そうした意味づけに基づいて自らの行動の目的を定めます。すなわち個人は社会のなかで、社会の様々な文脈を主体的に用いて、判断をし行動するのです。
したがって個人の思考、感情、行動とそれらの目的は、孤立して静的に存在するのではなく、もちろん環境によって一方的に定まるわけでもなく、社会の文脈とそれに対する個人の決断に応じた動的な意味づけに基づいて成り立っています。この視点は個人のあり方を、相互の葛藤まで含めて一層的確に説明するとともに、その行動を家族など直接の対人関係だけでなく、地域社会や文化など、より複雑な社会的ネットワークのなかで捉えることを可能にします。その意味において「社会統合論」は、アドラーの思想本来の深さと広がりを、より適切に反映したものということができるのです。
「社会統合論」は、個人のあり方が社会との関係性の中でダイナミックに形成されると捉える点で、人間の認識や現実は社会的な相互作用や文脈の中で「構築される」と考える現代の「構築主義」とも親和性を持ちます。さらに、個人の社会(共同体)への所属のあり方を説明する点で「共同体感覚(Gemeinschaftsgefühl)」の理論的基盤にも深く関連するといえます。ただし後者に関しては、「社会統合論」が基本前提すなわちアドラー心理学理論に位置するのに対して、「共同体感覚」は「人はこう生きるべきだ」とするアドラーの哲学・思想に位置づけられる点には注意されねばなりません。
主要概念
「共同体感覚」とは、「自分は社会(共同体)に所属しており、人々は仲間であり、自分は人々に貢献できる」という感覚のことで、他者と協力して幸福に生きるための最も重要な指標であり、アドラー心理学の究極的な目標であるため重視されます。
「共同体感覚」(独: Gemeinschaftsgefühl、英: Community Feeling / Social Interest)は、アドラー心理学における中心概念であり、個人の精神的な健康の最も重要な指標とされています。これは、「自分は社会(共同体)に所属しており、人々は仲間であり、自分は人々に貢献できる」という感覚を指します。
人間は『より良く生きたい』と願います。しかし、そこで自分一人の成功を目指すのではなく、「他者の目で見、他者の耳で聞き、他者の心で感じ」他者と協力し合いながら、社会の中で実際に自分の負うべき役割を果たし、『みんなのしあわせ』へと向かってこそ生きる意味が見つかってゆきます。
「共同体感覚」とはこうしたアドラー心理学の考え方を示す言葉であり、野田俊作はこれをわかりやすく、「『これはみんなにとってどういうことだろう。みんながしあわせになるために私はなにをすればいいだろう』と考えること」と表現しました。
後述の「勇気づけ」は、この「共同体感覚」の育成を目的とする働きかけです。共同体感覚が育まれると、困難な状況に直面した際も、共同体感覚に基づいて判断することで、より広い視点から物事を捉え、建設的な解決策を見出しやすくなります。アドラー心理学の究極的な目標は、いっそう多くの人々が共同体感覚を成熟させ、調和のとれた社会をともに営み幸福な人生を送れるよう援助することにあります。
共同体感覚を持つためには、他者を尊敬・信頼することを基本とし、『これはみんなにとってどういうことだろう。みんながしあわせになるために私はなにをすればいいだろう』という視点で考えて、日々のささやかな貢献を地道に積み重ねていくことが大切です。
共同体感覚の育成とは、どのようにすれば社会(共同体)に貢献できるかについて、その判断の仕方と実際の行動を実践的に学び、身につけていくことを意味します。共同体とは、家族であろうともっと大きなスケールの社会であろうと、そこへ所属する人々の、様々な貢献によって支えられています。人々を互いに結びつける他者への尊敬と信頼を基本とした、様々な有益な行為の積み重ねによって、たとえば勇気や慈愛に満ちた行動や、経験と知恵に基づいた洞察、謙虚で誠実な話し合い、広い視野に立った判断などで、共同体は成り立っています。したがって、共同体への貢献の仕方を学ぶということは、そうした倫理的・道徳的ともいえる行動を、日々の実践を通じて自分のものにしていくことに他なりません。
まず普段からの心がけとして、他者を尊敬し信頼することが基本です。そして日々遭遇するひとつひとつの物事について、『これはみんなにとってどういうことだろう。みんながしあわせになるために私はなにをすればいいだろう』といった観点から考えることが大切です。ここで『みんな』というのは抽象的な何かではなく、自分自身と身近な人々を含む、具体的な『みんな』のことであり、しかも、より広い世の中まで、さらには社会全体や後の世代の人々までもが含まれます。個々の『みんな』が関わり合い結びついて広く世の中をかたち作っているのですから、特定の『みんな』を大切にするためには、その人々が所属する、より大きな社会も大切にしなくてはなりません。日々の子育てや親孝行のなかで、あるいは職場や学校の仲間や、地元や他の場所で出会った様々な人々との関係のなかで、ささやかなことからで構わないので、「みんなが幸せになるために私にできること」を実行していきます。そうした地道な積み重ねこそが、共同体感覚の育成へとつながっていくのです。
なお、こうしたことを心がけて暮らすことは、あくまでも自分自身が決心して自分自身が行うことであって、決して他者に強いることではありません。他者にこれを強いれば、それは「共同体感覚」を育成することとは、正反対の生き方になってしまいます。
「私的論理」が個人の独自の価値観(私的感覚)に基づく主観的な思考の筋道であるのに対し、「共通感覚」は社会や共同体で共有される、いわゆる常識という価値観(私的感覚と対応するもの)を指します。
「私的論理」とは、個人が独自の価値観、思い込みに基づいて、自分自身や世界、他者について認識し、さらに相対的マイナスから相対的プラスへ向かって行動を選ぶ際の、その考え方の筋道(論理)のことです。人は私的論理の大前提となっている、その個人特有の価値観つまり私的感覚から、「わるい」状況と判断されるライフタスクを劣等感をともないながら認識するとともに、それに対する「よい」状態といえる仮想的目標を導き出して、この目標を達成するための対処行動を選択決定します。以上の過程での思考の筋道を、「私的論理」と呼びます。多くの場合、私的論理による結論は個人的には「正しい」判断だと思われていますが、必ずしも客観的・普遍的な妥当性を持つわけではありません。
一方、「共通感覚(コモン・センス)」とは、ある社会や共同体の中で広く共有されている考え方や価値観、つまり、いわゆる常識を指し、個人特有の価値観を指す「私的感覚」と対応関係にあります。私的感覚が共通感覚から大きく逸脱している場合、対人関係の困難や不適応が生じやすいと考えられますが、ただし共通感覚もまた、共同体内で多数説であるからといって、必ずしも正しいとは限りません。歴史にみられるように、共同体全体が誤った考えにとらわれていることもあるのです。そこでアドラー心理学では、「共通感覚」は人々の暮らしの中でたえず再検討されなければならないと考えており、より大きな共同体にも有益かどうかを問う「共同体感覚」をより重視します。そして「共通感覚」であって「共同体感覚」にも沿うものを、子どもたちに伝えていくべきだと考えています。
アドラー心理学の「勇気づけ」とは、単なる「褒め言葉」のような小手先のテクニックではなく、尊敬に基づいた対等な「横の関係」から、相手が共同体感覚を持って協力的に生きられるよう働きかける、包括的な哲学であり生き方そのものです。
「勇気づけ」とは、相手がより共同体感覚に基づく生き方、暮らし方ができるように働きかけること、と、アドラー心理学では考えます。ある働きかけが実際に相手において、人々とお互いに協力しあって幸福に暮らしていく勇気に結びついてこそ、その働きかけを「勇気づけ」と呼ぶことができるのです。
「勇気づけ」は、まず働きかける側が自分から、人々との競合的な構えを抜けて協力的に暮らす決心をすること、あるいは「縦の関係」を抜けて「横の関係」で生きる決心をすることから始まります。なぜならば、一方的な働きかけでもなければ他人事でもない、ともに貢献し合う仲間同士としての働きかけであってこそ、相手を勇気づけることができるからです。
「勇気づけ」の技法としては、「子ども(相手)の話を聴く」ことや「お願い口調」という話の仕方、「課題の分離」、あるいは貢献や協力に注目する、過程を重視する、すでに達成できている成果を指摘する、失敗をも受け入れる、個人の成長を重視する、相手に判断をゆだねる、肯定的な表現を使う、「私メッセージ」を使う、「意見言葉」を使う、感謝し共感する、といったように様々なものがありますが、このどれもが現実の対人関係の中での、心からの相手への働きかけであることをけっして忘れてはなりません。これらは、単に言葉をなぞっただけの形だけのものになってしまえば、一見うまくいったように見えてもただ単に相手の気分をよくするだけのことにとどまり、本当の意味での勇気づけにはならないことがあります。また、相手を支配しよう、つまり、相手を自分の思うとおりに動かそうとしてこれらの技法を使うならば、勇気づけどころか逆に「勇気くじき」になってしまい、かえって相手との関係を悪くするなど逆効果になることも少なくないのです。
すなわち「勇気づけ」とは、いわゆる「声がけ」や褒め言葉といったような小手先のテクニックなどではなく、人間への深い尊敬に基づいた包括的な哲学であり、生き方そのものといっても過言ではありません。「勇気づけ」の実践は、言葉への感性を磨き、対話のプロセスを大切にし、自らの感情をコントロールし、相手の貢献を信じてその機会を作り出す、たゆまぬ日々の心がけと努力の中にあります。それは、相手と私たち自身の人生を豊かにする、生涯をかけた学びの道程なのです。
アドラー心理学では「勇気」を、単なる精神的な強さではなく、自分の課題に取り組み、他者と協力し、共同体感覚をもって共同体に貢献しようとする建設的な態度や行動の土台となるような、人生に対する姿勢や構えのようなものと考えます。
アドラー心理学でいう「勇気」とは、自らの責任を引き受けて、自分の負うべき課題に取り組み、他者と協力し合って共同体に貢献しようとする建設的な態度や行動を指します。つまりこれは単なる精神的な強さというよりも、そうした「姿勢」や「構え」に近いものです。
このようにアドラー心理学では、「勇気」という言葉を、一般とは異なる独特の意味合いで用いています。単に恐れ知らずで乱暴であることや、何もかも勝ち負けととらえて相手に譲らない姿勢などのことを、アドラー心理学では「勇気」と呼びません。野田はよく「したくてもしてはいけないことはしないこと、したくなくてもしなければいけないことをすること」と言っていました。「共同体感覚」を伴って行動する姿勢、あるいは共同体感覚を行為に移す力こそを、私たちは「勇気」と呼びます。たとえば、人々のために自分にできることを行うこと、人々にたいして対等な仲間として敬意を払うこと、人々と誠実かつ謙虚に話し合って物事にあたること、独善的とならず公正に行動すること、心をこめて人々への配慮を重ねていくことなど、行動にあたって共同体に有益な行為を選択することを、アドラー心理学では「勇気」と考えます。
こじれたコミュニケーションの5つの段階
「不適切な行動に注目せず、適切な行動に注目する」は、正確には「不適切な行動に負の注目をせず、適切な行動に正の注目をする」といいます。不適切な行動には怒りや不安といった陰性感情をもって対応せずに落ち着いて冷静に話し合い、適切な行動に対しては、その背景にある人としての成長に対して喜びをわかち合ったり、家族や周囲に貢献してくれたことに感謝を伝えるなど、陽性感情を持って関心を示すことを指します。
アドラー心理学の育児ではいつも、子どもが「私は能力がある」「人びとは私の仲間だ」と思えるように対応します。なぜならば、子どもが将来「自立して」「社会と調和して暮らせる」人になるためには、子どもが自分や周りの人びとについて、このような信念を持っていることが必要と考えるからです。「不適切な行動に負の注目をせず、適切な行動に正の注目をする」のも、子どもがこうした信念が持てるようになるための方法です。
「不適切な行動に負の注目をしない」
これは「子どもの不適切な行動に対して、怒りや不安といった陰性感情を持って関心を示さない」ということです。決して、子どもを無視したり、見て見ぬふりをすることではありません。
アドラー心理学では、感情は「思考」をもとに生じると考えます。たとえばある出来事に対して「これは大変だ」「許せない」と考えると、そこで、不安や怒りといった感情が湧き上がってくるのです。そして親(あるいは教師)がそのような陰性感情(マイナスの感情)を持っていると、子どもを勇気づけることはできず、建設的な話し合いもできません。怒りに任せて叱っても、あるいは冷たく子どもを無視しても、子どもは「叱られた」「無視された」といったことだけを記憶し、なぜ叱られたのか、何がいけなかったのか、どうすればよかったのかについて考えることにはつながりません。むしろ「私は能力がない」「人びとは私の敵だ」という考えを持ってしまうでしょう。あるいは、子どもが「不適切な行動をすると、親や先生は自分を見てくれる。少なくとも叱られることで所属できる。」と思ってしまうならば、「不適切な行動」は増えていくことになるでしょう。
ですので、できるだけ子どもとは陰性感情を持たずに関わることが重要となります。まず親自身が、普段から子どものよいところやよい意図をさがすなどをして、子どもの行動を別の見方で捉えられるようになっておくことはとても大切です。子どもについてそのように見、そのように考えることが出来てこそ、実際の子どもの不適切な行動を前にして、陰性感情を持たずに「その行動は適切ではないと思うよ」「どうしてそうしたのか話してくれる?」と問いかけ、対話することができるのです。つまり、ある行動について「負の注目」にならずに子どもの話しをきき、解決に向かって一緒に考えることができるようになるのです。こうした対応がうまくいくと、子どもは「私は能力がある」「人びとは私の仲間だ」という信念を持てるようになるでしょう。
ただ、そのように物事の捉え方(その物事への意見、意味づけ、考え方)を変えることは簡単ではありません。なぜなら人が物事を捉える際には、その人独特の、凝り固まった価値観を基準としているからです。物事の捉え方を変えるためには、まず、自分独特のものの見方を知ること、そして、そうした自分の物の見方以外にも、他の見方もできるかもしれない、と考えてみることが大切になります。そのようにできて初めて、実際の子どもとのコミュニケーションのなかで落ち着いて子どものよい意図を探し、よいところを見つけ、そこで子どもに何を学んでもらいたいかを考えながら対応できるようになるのです。
とはいえ、その場でどうしても感情的になってしまうこともあるでしょう。そのようなときには、陰性感情をぶつけて関わるより、文字通り「注目せず」に、一旦距離を置く方が賢明です。つまり、その場を離れて冷静になる工夫をするのです。ただしこれは、あくまで一時的な経過措置にすぎません。離れたままになるのではなく、大切なのは、冷静になったあとで子どもの話に耳を傾け、必要であれば話し合うことです。そうして子どもが問題をうまく解決できるように、必要なお手伝いをします。そうすることで、子どもは「自立して」「社会と調和して暮らせる」方向に向かえるでしょう。
「適切な行動に正の注目をする」
これは、子どもの適切な行動や適切な側面に、喜びや親しさと言った陽性感情(プラスの感情)を持って関心を示すことです。これは単に「良い行い」を見つけて褒めることとは異なります。そのような対応は、いくつもの危険性をはらんでいるのです。例えば、普段勉強しない子がたまたま勉強した時に「偉いね」と褒め続ければ、子どもにとって「褒められること(ご褒美)」が目的になってしまうかもしれません。それでは親が褒めなくなればその行動をやめてしまい、子どもは、勉強をする本来の意味を理解する機会を失ってしまいます。
そのようなとき、子どもの何に注目するべきなのでしょうか。
たとえば、子どもが努力した点や成長した点に注目して一緒に喜んだり、子ども自身は意識していなくても家族や周りの人のためになる事をしてくれたことに感謝することなどができます。注意したい点は、これらの対応は決して、この「適切な行動」をもっと続けてもらうことを目的としているのではないということです。そうではなくて、子どもが「私は能力がある」「人びとは私の仲間だ」と思えるように対応することで、子どもが「自立して」「社会と調和して暮らせる」人に育つことを目的としています。
「アドラー心理学の育児が目指すこと」
アドラー心理学が考える育児の最終目標は、《共通感覚》と《共同体感覚》を持った人間に育てることにあります。
《共通感覚》
現在暮らしているその社会(例えば日本)で、良しとされる常識や価値観のこと。例えば「正直」「勤勉」「親切」といった徳目や、伝統的に受け継がれている様々な作法や美意識などは共通感覚にあたります。
《共同体感覚》
社会(共同体)にとってよいことを善とする考え方。自分とは様々な点で違っている他者と、どちらが上/下、優れている/劣っているなどを争うのではなく、お互いに協力しあって、「自分も相手も幸福になるにはどうすればよいか」を考える視点です。
社会生活の基本ともいえるこの二つを、育児の目標としてしっかりと持ち、子どもの日々の行動の中で、これらに結びつく成長を見つけた時に心から喜び、その喜びを子どもと分かち合うこと。それが、「子どもの適切な行動に正の注目をする」ことなのです。例えば「勉強した」という行動そのものに注目するのではなく、その背景にある「何かを知ろう、分かろうとする姿勢」や、「将来、社会の役に立ちたいという思い」に気づき、それを喜ぶのです。そうした意味では、普段から「いまどんな本を読んでいるの?」「どんなことに関心があるの?」「どんな勉強してるの?」といったように子どもに尋ねて、子どもが関心を持っていることに親自らが関心を持つことも、適切な行動への正の注目に結びついていくのです。
アドラー心理学の育児は、「子どもをコントロールする技術」ではありません。親自身がまず、子どもにどのように育ってほしいか、といった明確で建設的な目標を持たなくてはなりません。その上で、子どもとともに成長を喜び、子どもが何かしら困難を抱えたときには、どうしたらよいかをともに考え、将来子どもが社会に出たときに、周りの人びとと力を合わせて問題を解決していけるようにと、日々少しずつ工夫を重ねていくのです。このように、親子が共に成長していく「共同作業」こそが、「不適切な行動に負の注目をせず、適切な行動に正の注目をする」という言葉に込められた、アドラー心理学からの深いメッセージなのです。
承認欲求の否定について
人に褒められることや自信を持つことばかりを目的にすると、認められないときに落ち込んで、やる気をなくしてしまいます。認められたい気持ち自体は自然ですが、一番大切なのは褒められることではなく、周りのみんなの役に立とうとすることです。
「承認欲求(esteem needs)」という用語を最初に用いたのは、アブラハム・マズロー(1943)です。つまりこの概念はそもそもアドラー心理学の体系とは別のところにあり、アドラー心理学ではふつうこの言葉は使われません。ただ「承認欲求」という言葉は、世の中で「他者からの名声、評価、注目、尊重への欲求」という意味合いの言葉として定着していますので、ここではそのように解釈し、次のように考えます。
他者からの承認が行動の最大の目標であれば、それが得られなければ自己肯定感が低下したり無気力になったりする可能性は高いと考えられますが、アドラー心理学は自己肯定感そのものを最上の価値だとみなしません。
他者から承認されたり賞賛されたりすることを何よりも大切に思っていて、それが対人関係上の最大の目標になっていると、何かの理由でそれらが得られなくなったとき、無力感や悲しみ、悔しさなどで打ちのめされる可能性は、確かに大きいはずです。それらの陰性感情は、自分の期待が満たされない事態に遭遇した時にこそ感じる感情だからです。しかしそもそもアドラー心理学では、他者から承認されたり賞賛されたりすることだけを目標に暮らすことを、健全な生き方だと考えていません。それでは、それらが得られなければ貢献的な行動しないことになるからです。
ここで、時々誤解がみられるため申し上げますが、アドラー心理学は自己肯定感や自尊心を何よりの価値とするものではないのです。それらの維持や向上だけを目指す生き方は、アドラーのいう自己執着(Ichgebundenheit)のひとつであり、共同体感覚(Gemeinschaftsgefühl)とは明確に矛盾します。共同体感覚を平たくいえば「これはみんなにとってどういうことだろう。みんながしあわせになるために私はなにをすればいいだろう」と考えることです。他方、自己執着とは、「これは私にとってどういうことだろう。私がしあわせになるために私はなにをすればいいだろう」と考えることです。自己肯定感や自尊心を第一に守ろうとすることは自己執着であり、自己執着は共同体感覚とは反対の考え方なのです。
もちろんアドラー心理学は、人が他者からの承認を求めることそのものを否定するわけではありません。人は社会的な生き物ですから、人々に認められたいと思うことそれ自体は、ごく自然な思考といえます。また、社会(共同体)の一員として役立ちたいという気持ちから行動し、その結果として感謝や承認が得られることに、何か問題があるわけでもありません。しかし承認を得ようとすることが、人々に様々な形で役立つことよりも大切になってしまえば、それは本末転倒だと言わねばなりません。
幸福・共同体感覚・貢献感について
アドラー心理学の「共同体」は、家族から宇宙までどこまでも広がる可能性を持っています。その範囲を定めることはできません。
テンニエスによれば人間社会のあり方には2つあるとされ、ひとつを血縁共同体(ゲマインシャフト)、もうひとつを契約社会(ゲゼルシャフト)と呼びます。アドラー心理学でいう「共同体」は、血縁共同体(ゲマインシャフト)のことです。ゲマインシャフトは、ひとつの家族のように、精神的な絆によって結びついている集団を意味します。したがって非常に広範な概念であり、具体的には家族や職場あるいは学校などの仲間といった身近なところから、ふだん暮らしている地域社会、可能性としては国家や人類規模の共同体も想定できます。また、時には生命全体や無生物、宇宙にまで広がるとされることもあります。
一方の契約社会(ゲゼルシャフト)は、その名のように契約によって成り立つ社会で、人々を結びつける力は多くの場合は利益であり、それ以上の精神的な結びつきはありません。現代の国家は通常ゲゼルシャフトとして営まれており、一定以上の規模の企業も同様といえます。野田はゲゼルシャフトの役割を認めながらも、その中では人が道徳的にふるまうことは難しいと考えました。
さて、共同体感覚を持つべき範囲ですが、これを定めることはできません。もしも、「この範囲の共同体に対して有益な行動をとるべきだ」と唱えるなら、その構造はそのまま全体主義(ファシズム)と同じになってしまうでしょう。それはアドラーが最も忌み嫌ったことです。共同体感覚の範囲は、個人がそれぞれの成長に応じて決めるものだと考えます。
身近な共同体だけでなく、より大きな共同体からも目をそらさずに、そうした「みんな」にとってどういうことかを、広く多角的な視点で捉えることが求められます。
私たちは家族や友人関係だけでなく、地域、学校、職場といった様々な集団に同時に所属しています。そしてそれらは、相互に関わり合いながら、広く世の中をかたちづくっています。そのため個人の行動は、身近な共同体の内側だけで完結するものではありません。
野田俊作は「共同体感覚」について、「これはみんなにとってどういうことだろう。みんながしあわせになるために私はなにをすればいいだろうと考えること」と説明しました。ここでいう「みんな」とは、身近な人々だけを指しているわけではありません。共同体感覚とは、自分たちさえ良ければそれでいい、といった独善的な思想ではないのです。かといって、身近な人々を抜きにして、いきなり人類全体のことを考えよう、といったような抽象的な思想でもありません。そうした極端な立場には立たずに、自分自身を含む身近な「みんな」のことを考えながら、そこから繋がり広がっていく、より大きな共同体からも目をそらさず、広く多角的な視点でできごとを捉えようとすることが、「これはみんなにとってどういうことだろう」という言葉の真意であると考えます。
いいえ、共同体に対して有益な行動でなければ、そもそもアドラー心理学でいう貢献には含まれません。
先にも述べましたが、アドラー心理学は、主観的な感覚「貢献感」ではなく、実際の行動としての「貢献」を重視します。本人が満足していても、それが他者や共同体にとって無益であったり、破壊的であったりするなら、その行動は貢献ではありません。逆に、本人はもっと出来る事があったのではないかと考えて、あまり満足できなかったような行動でも、実際には大きな貢献だった可能性もあります。「貢献」と「貢献感」とは全く別ものなのです。
その他の疑問
科学的な実証研究の積み重ねという点では、現代の精神医学全般に及ばない面がありますが、一世紀にも渡る膨大な臨床実践に基づく信頼性と、「共同体感覚」という明確な道徳的指針を持つ「メタ心理学」としての価値は、現代においてますます高まっていると考えます。
たしかに、科学的な実証研究の積み重ねという点では、アドラー心理学は現代の精神医学に及ばないかもしれません。アドラーやフロイト、ユング、ジェームズらが生きた時代の心理学理論は、実験による確証から生み出されたものというより、提唱者の独創を基盤とする、臨床経験から得られた仮説の体系と考えるのが妥当でしょう。心の問題を純粋に科学として扱おうする行動主義が生まれたのは1950年以降のことです。
しかし、アドラー心理学は単なる「精神論」ではありません。具体的な代替行動について助言を行うなど、いつも現実的な援助を考えます。アドラーの死後100年以上経ちますが、この間、幾世代にも及ぶ臨床実践の積み重ねによって、その真価が確かめられてきた実績もあります。
またとりわけ重要なのは、他者と協力し共同体に貢献することを善とみなす「共同体感覚」の育成を治療目標に掲げている点です。治療とは果たしてどのようなことなのか、クライアントとカウンセラーはそこでどのような方向を目指せばよいのかについて、アドラー心理学は極めて明確なビジョンを持っています。この点が、社会適応や自己啓発、マーケティングを目標としがちな近年の臨床心理学と一線を画します。どのようなことにでも使えてしまう「科学的」な心理学の乱用が倫理的な問題を生み出している現代において、アドラー心理学は、人間主義的かつ道徳的な指針を与える「メタ心理学」としての価値を、ますます高めているということができます。
アドラー心理学の理論・思想・技法を誤って用いると、自分を正当化したり他者に対して批判的になったり、さらに臨床上の混乱を招く危険性があります。普及が進む現代において、誤用や悪用に対する正しい理解と警戒が必要です。
アドラー心理学を誤って理解して用いると、そのようになってしまう危険性があります。
野田俊作はアドラー心理学を、便宜上、理論・思想・技法の3つに分類しました。理論とはアドラー以来のアドラー派の心理学者が発展させた、人間行動を理解・説明するための理論体系であり、思想とはアドラーが提唱した哲学、つまり人々の人生の指針となるものであり、技法とはその名の通り治療に用いるテクニックです。この技法に限ってだけは、他派の心理療法の技法との折衷が可能です。大事なことは、この3つをそれぞれ正しく理解し、正しく用いることです。
たとえば「理論」をまるで「思想」のように、つまり人生の指針として用いるとどういうことが起こるでしょうか。つまり、ある行動が理論的に説明できるかどうかで、その行動が正しいかどうかを判断する、という用い方です。しかし、そもそも心理学理論というものは、あらゆる人間の行動を整合的に説明するために考えられたものです。したがって「理論」を自分自身の行動の指針にするなら、自分はいついかなるときでも常に正しいということになりますし、他者の行動の指針にすれば、他者のどんな非道な行いも説明がつくから正しいということになってしまいます。もちろん、どちらの場合も倫理的にたいへん問題があります。これはアドラー心理学だけに起こり得る話ではなく、他派の心理学をそのように用いた場合にも同じ結果となるでしょう。
また、アドラー心理学の「思想」は、他者と競合しようとする生き方は自己執着的で不健康な生き方であり、人々に貢献し他者に協力的であろうとする生き方こそが健康な生き方だとしています。こうしたアドラーの「思想」を中心に据えることによって、アドラー派の治療者はクライアントを健康的な方向に援助することができるのです。しかし、臨床で「思想」を矮小化し「理論」として用いるとどういうことが起こるでしょうか。つまり、「思想」に含まれている価値判断の基準を「科学的でない」「偏っている」と排除し、協力的な目標/競合的な目標などの区別を、単なる性格のタイプ分け程度のものとして扱う、という用い方です。
そうすると、他者と協力して社会を支えていくことなど顧みず、自分が素晴らしいと感じるキラキラした理想の状態ばかりを追いかけたとしても、それはそれで自然な人間的行動だということになってしまいます。自分さえ良ければそれで良い、自分の目標追求を妨げる他者はみな間違っている、という態度さえ是認できてしまいます。もちろんそうしたあり方は、社会常識的に考えて単なる「わがまま」や強欲に他なりません。そして、そのようなクライアントをアドラー心理学の強力な臨床技法で「勇気づけて」いくならば、これまた倫理上たいへん問題があると言わざるを得ません。
さらに、アドラー心理学で用いる様々な「技法」を「アドラー心理学」として紹介するケースも近年目につきます。しかし、「技法」はあくまで「技法」であってアドラー心理学そのものではありません。アドラー心理学は、その掲げる「思想」に向かって、「理論」に基づいた「技法」を使ってこそアドラー心理学といえるのです。ですから、たとえば「課題の分離」や「論理的結末」などの「技法」がまるでアドラー心理学そのもののように伝わると、学習者は混乱してしまうでしょう。また冒頭で述べたように、「技法」は心理学各派の間で折衷的に用いられますが、その場合も、臨床理論に基づくクライアントの分析や、どのような状態を目指して問題を解決していくかといった適切な判断があってこそ効果が発揮できます。一貫した理論と思想に基づかず適当に技法を混ぜて使うことは、厳に慎むべきと考えます。
様々な例を述べましたが、アドラー心理学であれ他の心理学であれ、あるいは他の学問分野であれ、使いみちを間違えて用いれば非常に望ましくない結果を招きます。野田俊作は既に1999年、『負のアドラー』を著して、アドラー心理学の誤用と悪用について大きく警鐘を鳴らしました。アドラー心理学の普及に伴い、残念ながら、今もアドラー心理学の誤用は増え続けているように思います。
Staff List
企画・編集:川尻信一(AIJ事務局長)
執筆:大竹優子・中井亜由美・久保田由紀子・野田文子(以上4名AIJ心理療法士)
監修:大竹優子(アドラー心理学指導者)
本コンテンツの無断転載を禁じます。© 一般財団法人 野田俊作顕彰財団 Adler Institute Japan.
