アドラー心理学についてよく見られるご質問と、それぞれへの私たちの見解をQ&A形式で簡単にまとめました。皆さまの率直な疑問にお答えするため、アドラー心理学に批判的なご質問や、誤解に基づくと思われるご質問も、あえてそのまま掲載しています。内容はさらに網羅的に充実させたいと考えております。
なお、各項目についてより踏み込んだ回答をお求めの場合、あるいはより分かりやすい説明をご希望の場合は、よろしければ『AIJアドラー心理学基礎講座』の受講をご検討ください。
幸福・共同体感覚・貢献感について
アドラーは、人生の意味は「共同体にとって有益な行動」をする中にあると考えました。どんなに小さなことでも、実際に誰かの役に立つ行動をすることが大切です。
アドラーは、『人生の意味の心理学 What Life Should Mean to You』の中で、「我々の人生の意味は、他者の生へ貢献することの中にある」と述べています。自分の人生に意味があると感じられることを幸福とみなすなら、「幸福とは他者に貢献すること」と言い換えることができるでしょう。ですが、だからといって「幸福とは貢献感である」と定義するのは、あまりにも短絡的過ぎるように思います。なぜなら、「貢献」は何らかの行動を指す言葉であり、「貢献感」はその行動に対する個人の受け取り方を指す言葉だからです。当然のことながら、受け取り方は人それぞれで異なります。
アドラーは、常に、ある「行動」が共同体に対して有益か無益か、ということを問題にしました。素晴らしいことを感じたり考えたりしていても、実際の行動に移さなければ、世界は何も変わりません。逆に、どんなに成果が見えにくい仕事でも、どんなに小さな目立たない行動でも、それが家族や社会など共同体の役に立つものであれば、「貢献」なのです。もちろん「貢献」という行動への見返りとして「貢献感」を得る喜びを否定はしませんが、それだけを追求して幸福になろうとするなら、むしろアドラーの言う自己執着を助長することになります。
アドラー心理学の「共同体」は、家族から宇宙までどこまでも広がる可能性を持っています。その範囲を定めることはできません。
テンニエスによれば人間社会のあり方には2つあるとされ、ひとつを血縁共同体(ゲマインシャフト)、もうひとつを契約社会(ゲゼルシャフト)と呼びます。アドラー心理学でいう「共同体」は、血縁共同体(ゲマインシャフト)のことです。ゲマインシャフトは、ひとつの家族のように、精神的な絆によって結びついている集団を意味します。したがって非常に広範な概念であり、具体的には家族や職場あるいは学校などの仲間といった身近なところから、ふだん暮らしている地域社会、可能性としては国家や人類規模の共同体も想定できます。また、時には生命全体や無生物、宇宙にまで広がるとされることもあります。
一方の契約社会(ゲゼルシャフト)は、その名のように契約によって成り立つ社会で、人々を結びつける力は多くの場合は利益であり、それ以上の精神的な結びつきはありません。現代の国家は通常ゲゼルシャフトとして営まれており、一定以上の規模の企業も同様といえます。野田はゲゼルシャフトの役割を認めながらも、その中では人が道徳的にふるまうことは難しいと考えました。
さて、共同体感覚を持つべき範囲ですが、これを定めることはできません。もしも、「この範囲の共同体に対して有益な行動をとるべきだ」と唱えるなら、その構造はそのまま全体主義(ファシズム)と同じになってしまうでしょう。それはアドラーが最も忌み嫌ったことです。共同体感覚の範囲は、個人がそれぞれの成長に応じて決めるものだと考えます。
身近な共同体だけでなく、より大きな共同体からも目をそらさずに、そうした「みんな」にとってどういうことかを、広く多角的な視点で捉えることが求められます。
私たちは家族や友人関係だけでなく、地域、学校、職場といった様々な集団に同時に所属しています。そしてそれらは、相互に関わり合いながら、広く世の中をかたちづくっています。そのため個人の行動は、身近な共同体の内側だけで完結するものではありません。
野田俊作は「共同体感覚」について、「これはみんなにとってどういうことだろう。みんながしあわせになるために私はなにをすればいいだろうと考えること」と説明しました。ここでいう「みんな」とは、身近な人々だけを指しているわけではありません。共同体感覚とは、自分たちさえ良ければそれでいい、といった独善的な思想ではないのです。かといって、身近な人々を抜きにして、いきなり人類全体のことを考えよう、といったような抽象的な思想でもありません。そうした極端な立場には立たずに、自分自身を含む身近な「みんな」のことを考えながら、そこから繋がり広がっていく、より大きな共同体からも目をそらさず、広く多角的な視点でできごとを捉えようとすることが、「これはみんなにとってどういうことだろう」という言葉の真意であると考えます。
「普通であることの勇気」が、不完全な自分をありのまま受け入れることを意図するものならば、現実的な目標設定と地道な努力といった健全な向上心を持つこととは矛盾しないと考えられます。
どのような文脈で「普通であることの勇気」というものが推奨されているか存じ上げませんが、もし、不完全な自分自身をありのまま受け入れることを意図されているのであれば、それは必ずしも、向上心や目標を持つこととは矛盾しないと考えられます。
ドライカースの有名な言葉に、「不完全である勇気 Courage to be Imperfect」というものがあります。アドラー心理学の視点からは、個人が非の打ちどころのない完璧な存在であろうとすることは、むしろ不健全といえます。そうではなく、実際には不完全である自分自身を受け入れて、それによって現実的な目標設定を行い、目標に向けて地に足のついた努力を重ねていくことは、健全な向上心であると言えます。
いいえ、共同体に対して有益な行動でなければ、そもそもアドラー心理学でいう貢献には含まれません。
先にも述べましたが、アドラー心理学は、主観的な感覚「貢献感」ではなく、実際の行動としての「貢献」を重視します。本人が満足していても、それが他者や共同体にとって無益であったり、破壊的であったりするなら、その行動は貢献ではありません。逆に、本人はもっと出来る事があったのではないかと考えて、あまり満足できなかったような行動でも、実際には大きな貢献だった可能性もあります。「貢献」と「貢献感」とは全く別ものなのです。
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企画・編集:川尻信一(AIJ事務局長)
執筆:大竹優子・中井亜由美・久保田由紀子・野田文子(以上4名AIJ心理療法士)
監修:大竹優子(アドラー心理学指導者)
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