アドラー心理学についてよく見られるご質問と、それぞれへの私たちの見解をQ&A形式で簡単にまとめました。皆さまの率直な疑問にお答えするため、アドラー心理学に批判的なご質問や、誤解に基づくと思われるご質問も、あえてそのまま掲載しています。内容はさらに網羅的に充実させたいと考えております。
なお、各項目についてより踏み込んだ回答をお求めの場合、あるいはより分かりやすい説明をご希望の場合は、よろしければ『AIJアドラー心理学基礎講座』の受講をご検討ください。
その他の疑問
基本的な人間理解の枠組みは普遍性を持つと考えられますが、時代や文化によって適合しない技法もあるため、常に個別の事情に配慮して適用する必要があります。
アドラー心理学に基づく人間理解の枠組みや価値基準は普遍性をもつと考えられ、対人関係で生じるほぼすべての事象に当てはめることができます。ただし技法の具体的な適用に関しては、文化や個人の状況に応じて柔軟に調整される必要があります。アドラーの活躍した20世紀前半に一般的だった技法も現代では適合しないことがあるでしょうし、現在欧米で多用されている技法も日本人には扱いにくい場合があるでしょう。
野田俊作はいつも、アドラー心理学は個性記述的だと言っていました。つまり原理原則は共通でも、実際の援助は常に個別具体的だということです。野田の開発した育児プログラム『パセージ』には、現代の日本固有の事情に対する十分な配慮が加えられています。また同じく『エピソード分析』も、クライアント個別のエピソードを分析して援助する、きわめて個性記述的な技法です。
科学的な実証研究の積み重ねという点では、現代の精神医学全般に及ばない面がありますが、一世紀にも渡る膨大な臨床実践に基づく信頼性と、「共同体感覚」という明確な道徳的指針を持つ「メタ心理学」としての価値は、現代においてますます高まっていると考えます。
たしかに、科学的な実証研究の積み重ねという点では、アドラー心理学は現代の精神医学に及ばないかもしれません。アドラーやフロイト、ユング、ジェームズらが生きた時代の心理学理論は、実験による確証から生み出されたものというより、提唱者の独創を基盤とする、臨床経験から得られた仮説の体系と考えるのが妥当でしょう。心の問題を純粋に科学として扱おうする行動主義が生まれたのは1950年以降のことです。
しかし、アドラー心理学は単なる「精神論」ではありません。具体的な代替行動について助言を行うなど、いつも現実的な援助を考えます。アドラーの死後100年以上経ちますが、この間、幾世代にも及ぶ臨床実践の積み重ねによって、その真価が確かめられてきた実績もあります。
またとりわけ重要なのは、他者と協力し共同体に貢献することを善とみなす「共同体感覚」の育成を治療目標に掲げている点です。治療とは果たしてどのようなことなのか、クライアントとカウンセラーはそこでどのような方向を目指せばよいのかについて、アドラー心理学は極めて明確なビジョンを持っています。この点が、社会適応や自己啓発、マーケティングを目標としがちな近年の臨床心理学と一線を画します。どのようなことにでも使えてしまう「科学的」な心理学の乱用が倫理的な問題を生み出している現代において、アドラー心理学は、人間主義的かつ道徳的な指針を与える「メタ心理学」としての価値を、ますます高めているということができます。
アドラー心理学の「目的論」は、他の基本前提と不可分であり、あらゆる欲求や行動の追求を無条件に正当化するものではありません。「欲求」は行動の原動力ではなく、個人が特定の目的を達成するために主体的に創り出す「道具」と定義されます。アドラー心理学は、共同体感覚に照らしてその目的が他者との協力や共存において建設的であるかを問う心理学です。
アドラー心理学の「目的論」は、個人のいかなる欲求やそれに基づく行動をも、無条件に肯定・是認するものではありません。アドラー心理学理論は、「個人の主体性」「目的論」「全体論」「社会統合論」「仮想論」という5つの基本前提から成り立つ統一的な体系であり、どの前提も他の前提と切り離して論じることはできません。これはすなわち、アドラー心理学でものを考えるという場合、どの点においても、これら5つの理論的特徴を備えている必要があることを意味します。したがってアドラー心理学でいう「目的論」とは、あくまで「個人の主体性」「全体論」「仮想論」「社会統合論」を前提とした「目的論」なのであり、単に「目的があるからその追求はすべて許される」とするような無制限の相対主義とは根本的に一線を画します。
フロイトは、欲求が人間を動かす原因だと考えました。しかしアドラー心理学では、「欲求」であれ「欲望」であれ、 それらに基づく行動も、すべて相対的マイナスから相対的プラスへの目標追求の中で考えます。すなわち、個人の心身「全体が」、その個人の「仮想する」「対人関係上の」「目的に向かって」、「個人の主体性」によって自ら選び創り出した「手段・方法」だと考えるのです。アドラー心理学の理論に基づいて考えるなら、人間は外的な刺激や内的な本能・衝動に突き動かされる受動的な存在ではありません。自らの意志で制御できない「抗いがたい衝動や欲求」という概念は、行動における責任を回避するための自己欺瞞として退けられます。
そして思想的・実践的見地においては、アドラー心理学の治療目標は「共同体感覚」の育成ですから、他者と協力し互いの長所を活かしながら共存を目指す目的こそ推奨されますが、他者を押しのけて競合的に進もうとする「欲求」は適切でないとされます。このようにアドラー心理学とは、むしろ個人の行動の「目的」を「問う」心理学なのであって、目的論を論拠に「いかなる欲求の追求も許容される」と解釈することは、理論的前提と価値基準の双方を看過した重大な誤読であるといえます。
フロイトの理論とは原理が全く異なり、整合性はありません。理論的に共通部分を持つ他の心理療法もありますが、治療の方向性が異なるため、そのままでは臨床現場で使うことはできません。技法は取り入れることができますが理論を折衷することはできません。
フロイトの心理学とアドラー心理学とは、理論面においてほぼ全面的に対立すると考えられます。元々アドラーはフロイトの精神分析運動の初期メンバーでしたが、方向性の相違から後に袂を分かつことになりました。アドラーはフロイト理論へのアンチテーゼとして自らの理論を作り上げたという側面があります。すなわち原因論的、要素論的、精神内界論的、客観主義的であるフロイトの理論に対し、それらに真っ向から対立する目的論・全体論・社会統合論・仮想論・個人の主体性を提唱しました。このように、フロイトとアドラーの心理学は互いに原理の全く異なる異質の体系ですから、内容は全く整合せず、部分的に混ぜて使うことはできません。それはユングの理論においても然りで、アドラー心理学では、たとえばペルソナへの解釈も独自のものとなります。理論の折衷は不可能と言えます。
なお、臨床理論においてアドラー心理学によく似たものとしては、オハンロンやド・シェイザーらの解決志向型治療があります。解決志向型治療では個人の主体性が認められており、目的論的で、全体論的でもあります。また、社会統合論や仮想論についても共通するといえます。しかし治療における方向性、つまり共同体感覚の育成という思想的な方向性が欠けているため、臨床の現場での動きは相容れません。
このように、アドラー心理学の理論と思想は独自の完成されたシステムであることから、野田俊作はいつも、純粋にオリジナルのアドラー心理学と、他派の心理学理論や技法とを、さらには自身が独自に開発した理論や技法とも、峻別して伝えてきました。私どもAIJもその姿勢を踏襲し、他派理論との折衷を徹底して排除しております。もちろん心理学は日進月歩していますので、臨床的に有用な他派の知見を用いることも多々ありますが、その際も、アドラー心理学の立場から再解釈した「技法」に限っての導入としています。たとえば育児プログラム『パセージ』では、心理療法で一般的に用いられる認知行動療法の技法を併用していますが、その用い方は完全にアドラー心理学に基づいたものです。
劣等感は人間にとって普遍的かつ自然な感情ですが、劣等感をバネに進むことが自分自身の成長につながるかどうかは、実際の行動とそこで目標としているものが共同体にとって有益かどうかによると考えます。
人間はみな、はじめは生物学的に何もできない状態で生まれてきますから、自分が小さくて劣っているという感情、すなわち劣等感は、子どもにとって普遍的な感情といえます。劣等感は、そうした主観的に相対的マイナスである立場から、相対的プラスといえる目標へ向かうために人が生み出す自然な感情といえるでしょう。劣等感は子どもの劣等性の必然の結果であり、それを補償するために人は発達・成長するのです。
ただし、劣等感を補償するための行動が、いつも人としての成長に繋がるとは限りません。劣等感は必ず陰性感情を伴いますから、悔しさや悲しさ、怒りなどの陰性感情の使い方を誤ると、その感情を向けられた相手との関係が悪化します。やみくもに「劣等感をバネに」進むことは、自分自身や他者にとって有益になるとは限らず、時として破壊的な結果を招くこともあるでしょう。そうならないように、具体的な行動の仕方と、そこでの目標の適切さが問われます。
アドラー心理学では、人の行動が適切かどうかを、社会(共同体)にとって有益かどうかという観点から判断します。劣等感が行動の契機だとしても、共同体にとって有益な目標と行動を選択することで、人は共同体の一員として成長できると考えています。
おっしゃる通り、無神経な指摘はクライアントを追い詰め逆効果になるため、臨床現場で本人に直接伝えることはほぼありません。
臨床上、クライアントのどのような選択からどのような結末が生じているかについて、その全体像を理解してもらうことは大切です。個人の選択したいかなる行動にも必ずメリットとデメリットがありますから、「かわいそうな私でいること」の結末も、苦痛などのデメリットだけでなく、何らかのメリットが生じていると考えられます。そうしたメリットは、無意識のうちにも、本人を現在のあり方に留まらせているかもしれません。したがって、そこまで含めてクライアントが洞察することは、人生における視野を広げ、より建設的な生き方へと進んでいく上で有益です。
しかし、だからといって、こうした逆説的な指摘を不用意にクライアントに直接伝えることは好ましくありません。まずクライアントの話を聴き、相談的人間関係(相互尊敬・相互信頼・協力・目標の一致)を樹立することが先決です。その関係のないままに無神経な指摘をすることはむしろ逆効果であり、関係の破綻を招く可能性が高いです。
他者の期待に応えること自体は否定しません。ただし、全ての人に常に好かれることは不可能なのですから、他者の期待を「何もかも」満たそうとしたり、他者の期待を満たすため「だけ」に生きようとしたりすることは、不健康な生き方だと考えます。
ご質問は、アドラー心理学では他者の期待に一切応えてはいけない、としているように聞いたが、それはおかしいのではないか、というご指摘でしょうか。結論から申しますと、たしかにアドラー心理学では、人が他者の期待を「何もかも」満たそうとしたり、他者の期待を満たすため「だけ」に生きようとしたりすることは、とても不健康な生き方だと考えています。しかし、他者の期待に応えること、それ自体を否定しているわけではありません。
かつて野田俊作は、ある講演会の質疑応答で「私は付き合う相手の期待を満たすために生まれてきたのではないのに、相手は私に自分の希望や要求を満たすような行動を期待し、それに沿わないと不機嫌になります。上手く立ち回るにはどうしたらいいでしょうか」と聞かれた際に、次のように答えています。
「世の中の人は皆そうですから、それは仕方がありません。私は、人の期待を満たさないことにしております。ということは、嫌われる覚悟をしているということです。10人の人と付き合うと、2人は私が何をしても好きでいてくれ、1人は私がどんなことをしても絶対に憎み続ける、そして残りの7人はその時々で態度を変える、と思っています。
ですから、絶対に孤独にはなりません。確実に仲間になってくれる人がいる、ということさえ信じられれば、人に嫌われることは平気です。大事なことは、その信じられる仲間を作ることです。そこができないと、周りの評価にふらふらと左右されてしまいます。
どうやってその一番近い環境を作るかというと、今日お話ししたように、協力的な関係を築こうとすることです。それはおそらく、家族やごく近い親友といった人々でしょう。そこを中心にして考えていけば、残りの人たちが自分のことを好きになったり嫌いになったりするのは、そんなものだと受け入れられます。みんなに好かれて暮らすことなど、絶対に不可能なのですから」。
これは野田がよく話していたことでもあります。中には、この話の冒頭だけを聞いて、他者には嫌われなくてはいけない、他者の期待には一切応えてはならない、と勘違いした方がおられるかもしれません。しかし野田は、人の期待を「満たさない」と言っており、「応えない」とは言っていないのです。つまり話の主旨は、人々の期待を何もかも満たして『みんなに好かれて暮らすことなど絶対に不可能だが、家族やごく近い親友など、確実に仲間になってくれる人がいるということさえ信じられれば、残りの人たちが自分のことを好きになったり嫌いになったりするのは、そんなものだと受け入れられる、その信じられる仲間を作るためには、協力的な関係を築こうとすることが大事です』といったところにあります。そして、そうした仲間たちとともに社会生活を送っていく上では、おっしゃるとおり他者の期待に応える局面は多々あることと思います。
アドラー心理学の理論・思想・技法を誤って用いると、自分を正当化したり他者に対して批判的になったり、さらに臨床上の混乱を招く危険性があります。普及が進む現代において、誤用や悪用に対する正しい理解と警戒が必要です。
アドラー心理学を誤って理解して用いると、そのようになってしまう危険性があります。
野田俊作はアドラー心理学を、便宜上、理論・思想・技法の3つに分類しました。理論とはアドラー以来のアドラー派の心理学者が発展させた、人間行動を理解・説明するための理論体系であり、思想とはアドラーが提唱した哲学、つまり人々の人生の指針となるものであり、技法とはその名の通り治療に用いるテクニックです。この技法に限ってだけは、他派の心理療法の技法との折衷が可能です。大事なことは、この3つをそれぞれ正しく理解し、正しく用いることです。
たとえば「理論」をまるで「思想」のように、つまり人生の指針として用いるとどういうことが起こるでしょうか。つまり、ある行動が理論的に説明できるかどうかで、その行動が正しいかどうかを判断する、という用い方です。しかし、そもそも心理学理論というものは、あらゆる人間の行動を整合的に説明するために考えられたものです。したがって「理論」を自分自身の行動の指針にするなら、自分はいついかなるときでも常に正しいということになりますし、他者の行動の指針にすれば、他者のどんな非道な行いも説明がつくから正しいということになってしまいます。もちろん、どちらの場合も倫理的にたいへん問題があります。これはアドラー心理学だけに起こり得る話ではなく、他派の心理学をそのように用いた場合にも同じ結果となるでしょう。
また、アドラー心理学の「思想」は、他者と競合しようとする生き方は自己執着的で不健康な生き方であり、人々に貢献し他者に協力的であろうとする生き方こそが健康な生き方だとしています。こうしたアドラーの「思想」を中心に据えることによって、アドラー派の治療者はクライアントを健康的な方向に援助することができるのです。しかし、臨床で「思想」を矮小化し「理論」として用いるとどういうことが起こるでしょうか。つまり、「思想」に含まれている価値判断の基準を「科学的でない」「偏っている」と排除し、協力的な目標/競合的な目標などの区別を、単なる性格のタイプ分け程度のものとして扱う、という用い方です。
そうすると、他者と協力して社会を支えていくことなど顧みず、自分が素晴らしいと感じるキラキラした理想の状態ばかりを追いかけたとしても、それはそれで自然な人間的行動だということになってしまいます。自分さえ良ければそれで良い、自分の目標追求を妨げる他者はみな間違っている、という態度さえ是認できてしまいます。もちろんそうしたあり方は、社会常識的に考えて単なる「わがまま」や強欲に他なりません。そして、そのようなクライアントをアドラー心理学の強力な臨床技法で「勇気づけて」いくならば、これまた倫理上たいへん問題があると言わざるを得ません。
さらに、アドラー心理学で用いる様々な「技法」を「アドラー心理学」として紹介するケースも近年目につきます。しかし、「技法」はあくまで「技法」であってアドラー心理学そのものではありません。アドラー心理学は、その掲げる「思想」に向かって、「理論」に基づいた「技法」を使ってこそアドラー心理学といえるのです。ですから、たとえば「課題の分離」や「論理的結末」などの「技法」がまるでアドラー心理学そのもののように伝わると、学習者は混乱してしまうでしょう。また冒頭で述べたように、「技法」は心理学各派の間で折衷的に用いられますが、その場合も、臨床理論に基づくクライアントの分析や、どのような状態を目指して問題を解決していくかといった適切な判断があってこそ効果が発揮できます。一貫した理論と思想に基づかず適当に技法を混ぜて使うことは、厳に慎むべきと考えます。
様々な例を述べましたが、アドラー心理学であれ他の心理学であれ、あるいは他の学問分野であれ、使いみちを間違えて用いれば非常に望ましくない結果を招きます。野田俊作は既に1999年、『負のアドラー』を著して、アドラー心理学の誤用と悪用について大きく警鐘を鳴らしました。アドラー心理学の普及に伴い、残念ながら、今もアドラー心理学の誤用は増え続けているように思います。
アドラー心理学のカウンセリングと心理療法は対人関係やライフスタイルの改善を目的とするため、クライアント個人の心身の症状が前面に出ている場合は、背景に対人関係の問題が疑われる場合であっても、心療内科や精神科などの専門医療機関への受診を最優先とします。
アドラー心理学におけるカウンセリングは対人関係における問題を解決しようとするものであり、心理療法はよりよい人間関係を構築するためにクライアントのライフスタイルを改善しようとするものですから、クライアントの相談内容がそうした一般の対人関係に関するものでなく、クライアント個人の身体症状あるいは病的な心理状態の改善、ないし発達特性に起因する適応上の困難や二次障害の改善を目的としている場合には、第一の選択肢として専門医療機関(心療内科、精神科、発達専門医など)に繋ぐことを考えなくてはなりません。
特に、深刻な抑うつ、希死念慮、急性期の精神病状態、激しい不安や重度の不眠などが見られる場合は、医療による治療や投薬を優先し、症状が落ち着くまでカウンセリングを行わないのが鉄則です。たとえ症状が安定しても、カウンセリング開始にあたっては担当医の医学的判断が必須であり、もしも悪化した場合にはカウンセリングを中断するなど、医師との連携が欠かせません。症状の緩和後に残った対人関係の課題を扱うのが、アドラー心理学の領域です。一般に、神経症的傾向のある方に対するアドラー心理学のカウンセリングや心理療法の有効性は認められています。しかし、医療機関にかかっていない方であっても、不安定な時期には無理をせず専門医に相談することが推奨されます。カウンセラー側も安易に抱え込まず、医療機関への受診を促した上で慎重に判断する必要があります。
さらに、経済困窮や社会的孤立などの問題がある場合には、保健所や精神保健福祉センターといった社会資源や福祉的支援への接続が必要です。野田俊作はこれをケースワーキングと呼んで、カウンセリングや心理療法と区別しました。
いずれにせよ、迷う場合は専門医や専門職の判断を仰ぎ、正確な診断と適切な治療を優先すべきです。
Staff List
企画・編集:川尻信一(AIJ事務局長)
執筆:大竹優子・中井亜由美・久保田由紀子・野田文子(以上4名AIJ心理療法士)
監修:大竹優子(アドラー心理学指導者)
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