アドラー心理学についてよく見られるご質問と、それぞれへの私たちの見解をQ&A形式で簡単にまとめました。皆さまの率直な疑問にお答えするため、アドラー心理学に批判的なご質問や、誤解に基づくと思われるご質問も、あえてそのまま掲載しています。内容はさらに網羅的に充実させたいと考えております。
なお、各項目についてより踏み込んだ回答をお求めの場合、あるいはより分かりやすい説明をご希望の場合は、よろしければ『AIJアドラー心理学基礎講座』の受講をご検討ください。
基本前提
アドラー心理学の「対人関係論」とは、劣等感や人生の課題を含む人間のあらゆる問題や目標は、根本的に対人関係の中に存在すると捉える考え方です。
アドラー心理学では、人間のあらゆる問題は、対人関係の中に存在すると考えます。この考え方を「対人関係論(interpersonal theory)」と呼びます。個人の行動のきっかけとなる劣等感も他者との関わりから生じるものであり、個人が意識的・無意識的に目指している目標も、つきるところ対人関係上の文脈に位置しています。すなわちいかなる人生の課題であれ、個人にとっては対人関係(仕事、交友、愛)の問題に他なりません。したがって、個人の問題を理解し解決するには、その人が他者といったいどのような関係を築いているのか、その人の対人関係における目標は何か、といった観点から取り組むことが重要となります。
なお現在では「対人関係論」は、アドラー心理学の理論的枠組みをアドラー自身の言葉に立ち返り、より俯瞰的かつ現代的な視点から再構築しようとする動きの一環として、「社会統合論(social embeddedness)」と呼ばれるようになりました。
「対人関係論」は二者間の分析に偏り、個人を「社会全体に組み込まれた」存在とするアドラー本来の視点を過度に単純化する懸念があったため、その思想の深さと広がりをより適切に反映する「社会統合論」が使われるようになりました。
アドラーは人間を社会的な存在、すなわち社会の中に位置づけられてこそ、その人の行動に意味が得られるものであるとする、”Social Embeddedness” を強調しました。しかしながらアドラーの没後、この概念を示すものとして、特にアメリカの臨床心理学の文脈でルドルフ・ドライカースらにより導入・強調された「対人関係論」は、親子関係や教育場面など二者間の相互作用の分析には有効かつ実践的であったものの、アドラーが本来意図していた、個人をより広範な「社会全体に組み込まれている」存在とする視点や、社会という複雑なネットワークの中で個人が相互に多様な影響を与え合う側面が、過度に単純化される懸念がみられました。
「社会統合論」は、個人を対人関係の中で行動するものと考えるだけでなく、アドラーが唱えていたように、社会(共同体)に「組み込まれた」存在として捉え直します。個人は家族など身近な共同体や、さらに広範な社会の「雰囲気」や価値観に様々な仕方で関わりながら、自分自身と世界がいったいどのようであるかという意味づけをし、そうした意味づけに基づいて自らの行動の目的を定めます。すなわち個人は社会のなかで、社会の様々な文脈を主体的に用いて、判断をし行動するのです。
したがって個人の思考、感情、行動とそれらの目的は、孤立して静的に存在するのではなく、もちろん環境によって一方的に定まるわけでもなく、社会の文脈とそれに対する個人の決断に応じた動的な意味づけに基づいて成り立っています。この視点は個人のあり方を、相互の葛藤まで含めて一層的確に説明するとともに、その行動を家族など直接の対人関係だけでなく、地域社会や文化など、より複雑な社会的ネットワークのなかで捉えることを可能にします。その意味において「社会統合論」は、アドラーの思想本来の深さと広がりを、より適切に反映したものということができるのです。
「社会統合論」は、個人のあり方が社会との関係性の中でダイナミックに形成されると捉える点で、人間の認識や現実は社会的な相互作用や文脈の中で「構築される」と考える現代の「構築主義」とも親和性を持ちます。さらに、個人の社会(共同体)への所属のあり方を説明する点で「共同体感覚(Gemeinschaftsgefühl)」の理論的基盤にも深く関連するといえます。ただし後者に関しては、「社会統合論」が基本前提すなわちアドラー心理学理論に位置するのに対して、「共同体感覚」は「人はこう生きるべきだ」とするアドラーの哲学・思想に位置づけられる点には注意されねばなりません。
主要概念
「劣等コンプレックス」とは劣等感を言い訳にして人生の課題から逃げる状態を指し、「優越コンプレックス」とはその劣等感を隠すために自分が優れているかのように振る舞う、劣等感の裏返しである状態を指します。
アドラー心理学における「劣等コンプレックス」とは、人が自分の持つ「劣等感」を、人生の課題から逃れるための口実として利用している状態を指します。これは、困難に対して建設的に取り組むことを避けている自分を、正当化するための自己欺瞞に他なりません。このような嘘の目的は、自分の現状維持がたとえ失敗を招いたとしても、その責任を自分以外のものに転嫁することにあります。この「劣等コンプレックス」は、過度に「心の傷」や被害者意識などを訴えることで周囲の同情を引いたり、相手を感情的に支配するための手段として使われることもあります。
では、人はどのようにして「劣等コンプレックス」を使うに至るのでしょうか。誰しも、生まれながらにして「自分は劣っているに違いない」と感じているわけではありません。したがって人は成長の過程で、家庭や学校、社会などでの様々な要因の影響により、劣等感を持つようになると考えられます。子どもは言葉を覚えるにつれて、物事の「違い」を「優劣」として区別し始めます。その際に、親や教師が「どうしてできないの?」「もっと頑張らないとダメ」といった、本人への否定的な言葉(アドラー心理学で言う「勇気くじき」)を投げかけると、子どもは「自分は人として劣っている」という、いわゆる劣等感を抱くようになります。この「劣等感」を、自分の課題に向き合うのを避けるための理由として使うことを、「劣等コンプレックス」といいます。たとえば、「私は頭が悪いから/身体が弱いから/不器用だから、~~をやらなくていいんだ。誰かにやってもらおう」と、劣等感を理由に課題から逃れることはこれにあたります。
この「自分は人として劣っている」という感覚は、客観的な事実ではなく、作られた思い込み(フィクション)です。しかし、この劣等感から逃れるために、人は「優越の位置」という架空の目標を立て、それに向かって努力を始めます。この「劣等の位置から優越の位置へ」という動きそのものが、ライフスタイルの基本構造となります。この動きは当初の意図としては前向きといえますが、しかし幼い頃の思い込みに基づく行動ですから、多くの場合、初めからピントのずれた努力に陥りがちです。
およそ人が持てるものは何であろうと、身体的な特徴(器官劣等性)、性別、生まれ育ち、経済状況、さらには家族や上司といった人間関係まで、本人が「劣等感」をもちさえすれば、ありとあらゆるものがこの劣等コンプレックスの材料となり得ます。たとえば現代社会のように「老い」がネガティブなものと捉えられる社会においては、高齢者が大きな「劣等感」を抱えやすい状況にあるため、「老い」が劣等コンプレックスとして使われることにつながりやすくなります。
アドラー心理学では、いわゆる「神経症」というのは、人が劣等コンプレックスを、人生をやっていくための主要な手段として用いている状態だと考えます。神経症的な人は休みなく劣等コンプレックスを実践しており、自分が作り出した口実に完全に騙されている状態にあります。アドラーはこの状態を「犬が自分の尻尾を追いかけてぐるぐる回っている」と表現しました。この自己欺瞞のサイクルに囚われている限り、人生の問題の真の解決には至りません。
劣等コンプレックスから抜け出すためには、まず、その自己欺瞞の輪から外へ出なくてはなりません。そのための一歩として、次のようなものが考えられます。
- 共同体への貢献
他者や社会に貢献すること(それらにプラスになることを始めること)は、内向きの関心を外に向け、自己欺瞞のサイクルを断ち切ります。 - 「劣等」という幻想に気づく
私たちが抱くいわゆる「劣等感」は、実は社会全体が共有する壮大な誤解に過ぎないのかもしれず、客観的な事実ではありません。 - 「勇気づけ」
「勇気づけ」は、人が自分の人生を自分の責任で生きる選択をするためのはたらきかけです。たとえば、子どもが貢献してくれたことに感謝を感じたなら、「お手伝いありがとう」「あなたがいると助かる」といった言葉を伝えてみることができます。こうしたことによって、子どもは、自分は他者の役に立つ存在であると感じることができ、そこから、自分の力を他者のために使う勇気を持つことができます。
つまり、人としての優劣という幻想の物差しから降り、他者と対等な立場で協力関係を築いていくことが、劣等コンプレックスを克服する道となるのです。
一方、「優越コンプレックス」は、劣等感の補償の一つの方法として、あたかも自分が優れているかのように振る舞う状態です。自慢話を繰り返したり、他者を見下したり、権威を誇示したりする行動がこれにあたります。野田は「優越コンプレックスは結局、劣等コンプレックスと同じ」と言っていました。優越コンプレックスは、「自分は優れているんだ。だから、~~をしなくていいんだ」という自己欺瞞的な私的論理として現れます。これも、他者との調和を欠き、対人関係の摩擦を生じやすいあり方といえます。また「優越コンプレックス」は、対人関係において片方が相手への劣等感を過補償し、それに対して相手がさらに大きな劣等感を持ち、それを過補償し、といったように繰り返されていくことで、両者の争いが際限なく拡大する原因でもあります。
「私的論理」が個人の独自の価値観(私的感覚)に基づく主観的な思考の筋道であるのに対し、「共通感覚」は社会や共同体で共有される、いわゆる常識という価値観(私的感覚と対応するもの)を指します。
「私的論理」とは、個人が独自の価値観、思い込みに基づいて、自分自身や世界、他者について認識し、さらに相対的マイナスから相対的プラスへ向かって行動を選ぶ際の、その考え方の筋道(論理)のことです。人は私的論理の大前提となっている、その個人特有の価値観つまり私的感覚から、「わるい」状況と判断されるライフタスクを劣等感をともないながら認識するとともに、それに対する「よい」状態といえる仮想的目標を導き出して、この目標を達成するための対処行動を選択決定します。以上の過程での思考の筋道を、「私的論理」と呼びます。多くの場合、私的論理による結論は個人的には「正しい」判断だと思われていますが、必ずしも客観的・普遍的な妥当性を持つわけではありません。
一方、「共通感覚(コモン・センス)」とは、ある社会や共同体の中で広く共有されている考え方や価値観、つまり、いわゆる常識を指し、個人特有の価値観を指す「私的感覚」と対応関係にあります。私的感覚が共通感覚から大きく逸脱している場合、対人関係の困難や不適応が生じやすいと考えられますが、ただし共通感覚もまた、共同体内で多数説であるからといって、必ずしも正しいとは限りません。歴史にみられるように、共同体全体が誤った考えにとらわれていることもあるのです。そこでアドラー心理学では、「共通感覚」は人々の暮らしの中でたえず再検討されなければならないと考えており、より大きな共同体にも有益かどうかを問う「共同体感覚」をより重視します。そして「共通感覚」であって「共同体感覚」にも沿うものを、子どもたちに伝えていくべきだと考えています。
アドラー心理学における「人生の課題(ライフタスク)」とは、人間が社会的な存在として生きていく上で直面せざるを得ず、個人の精神的健康や生き方(ライフスタイル)と深く結びついている「仕事」「交友」「愛」という3つの対人関係の課題を指します。
アドラー心理学における「ライフタスク」とは、人間が社会的な存在として生きていく上で、直面せざるを得ない「課題」を指します。タスクといっても、仕事などでよく用いられる「やるべきことのリスト」のことではなく、個人の精神的な健康や幸福、そしてその人の生き方そのもの(ライフスタイル)と深く結びついた、包括的な概念です。
アルフレッド・アドラー自身が明確に提唱したのは、以下の三つのライフタスクです。このどれもが対人関係であることは、とても重要な点といえます。またこの分類は、主として関係の継続性に基づいています。
- 仕事のタスク:生計を立てるための職業活動、学業、家事など、生産性に関わるあらゆる活動を指します。社会の一員として貢献し、自分の居場所を確保するための基本的な課題です。
- 交友のタスク:友人関係や地域社会との関わりなど、恋愛や家族関係以外のより広い対人関係を指します。他者と協力し、社会的なつながりを築く能力が問われます。
- 愛のタスク:パートナーシップや親子関係といった、最も親密な対人関係を指します。ライフタスクの中で最も困難なものとされ、深いレベルでの信頼と貢献が求められます。
これらのタスクは実生活では、現実と、本人が理想とする状態(仮想的目標)とのギャップとして現れます。そのため「課題」として認識される際に、「劣等感」、具体的には不安、怒り、後悔などといった陰性感情を伴うことが一般的です。
これらの課題にどのように取り組み、そこで他者とどのように協力していけるかは、その人の人生のあり方と不可分といえます。アドラー心理学のカウンセリングでは、個人がこれらの課題にどう向き合い、困難を乗り越えていくか、について話し合います。また、必要に応じてその人の「ライフスタイル」を分析し、より根源的な解決策を見出すことを目指します。
なお、これらに加えて、アドラー派の論者によっては「自己との課題」「スピリチュアルな課題」などを加えることもあります(ハロルド・モザックによる提唱)。
アドラー心理学の「勇気づけ」とは、単なる「褒め言葉」のような小手先のテクニックではなく、尊敬に基づいた対等な「横の関係」から、相手が共同体感覚を持って協力的に生きられるよう働きかける、包括的な哲学であり生き方そのものです。
「勇気づけ」とは、相手がより共同体感覚に基づく生き方、暮らし方ができるように働きかけること、と、アドラー心理学では考えます。ある働きかけが実際に相手において、人々とお互いに協力しあって幸福に暮らしていく勇気に結びついてこそ、その働きかけを「勇気づけ」と呼ぶことができるのです。
「勇気づけ」は、まず働きかける側が自分から、人々との競合的な構えを抜けて協力的に暮らす決心をすること、あるいは「縦の関係」を抜けて「横の関係」で生きる決心をすることから始まります。なぜならば、一方的な働きかけでもなければ他人事でもない、ともに貢献し合う仲間同士としての働きかけであってこそ、相手を勇気づけることができるからです。
「勇気づけ」の技法としては、「子ども(相手)の話を聴く」ことや「お願い口調」という話の仕方、「課題の分離」、あるいは貢献や協力に注目する、過程を重視する、すでに達成できている成果を指摘する、失敗をも受け入れる、個人の成長を重視する、相手に判断をゆだねる、肯定的な表現を使う、「私メッセージ」を使う、「意見言葉」を使う、感謝し共感する、といったように様々なものがありますが、このどれもが現実の対人関係の中での、心からの相手への働きかけであることをけっして忘れてはなりません。これらは、単に言葉をなぞっただけの形だけのものになってしまえば、一見うまくいったように見えてもただ単に相手の気分をよくするだけのことにとどまり、本当の意味での勇気づけにはならないことがあります。また、相手を支配しよう、つまり、相手を自分の思うとおりに動かそうとしてこれらの技法を使うならば、勇気づけどころか逆に「勇気くじき」になってしまい、かえって相手との関係を悪くするなど逆効果になることも少なくないのです。
すなわち「勇気づけ」とは、いわゆる「声がけ」や褒め言葉といったような小手先のテクニックなどではなく、人間への深い尊敬に基づいた包括的な哲学であり、生き方そのものといっても過言ではありません。「勇気づけ」の実践は、言葉への感性を磨き、対話のプロセスを大切にし、自らの感情をコントロールし、相手の貢献を信じてその機会を作り出す、たゆまぬ日々の心がけと努力の中にあります。それは、相手と私たち自身の人生を豊かにする、生涯をかけた学びの道程なのです。
現代社会とアドラー心理学
アドラー心理学を学ぶことで、自己理解が深まります。人間関係において「相互尊敬」「相互信頼」「協力」「目標の一致」「勇気づけ」「葛藤解決」などを学ぶことを通じて、自分の人生を主体的に切り開き社会と調和した生き方について知ることができます。
アドラー心理学を学ぶことで期待できる個人の変化は多岐にわたります。
まず、周りの人との関係において、相手と協力的な関係になるには自分はどうしたらよいかを知ることができます。人間関係は、例えば子育てや家族関係、教師や保育士など子どもに関わる方の人間関係、職場の人間関係などで、困りごとや悩みについて解決に向け、実際に起きた「エピソード」を基に学ぶことができます。
自己理解が深まり、自分の行動や感情の背後にある目的や自分自身が大事にしている価値観に気づくことができ、相手と協力できる目標を見つけることができるようになります。これにより、実践を重ねていくうちに、不適切な行動のパターンを抜け出して、より建設的な生き方を選び取る力が養われます。
また対人関係において、相手を尊敬し信頼し協力し目標の一致をとることや葛藤の解決方法などを学ぶことで、競合的な関係から協力的な関係に変容し、不必要な摩擦や悩みが軽減されるでしょう。さらに、「共同体感覚」を学び「勇気づけ」を実践することで、自分自身や周囲の人とともに人間的成長が得られるかもしれません。例えばアドラー育児を学び、親子で話し合い、親子で一緒に成長するように。
総じて、自分の人生を主体的に切り開き、社会と調和した生き方を実現するための知恵と勇気が得られるでしょう。
対人関係について
病気や死別、自然災害は、恐怖や身体的苦痛など生理的な苦しみとして体験されますが、その一方で、それらをどのように受け止め、どう意味づけ、そこから周囲とどう関わるかという、対人関係の文脈の中でも体験されます。アドラー心理学で解決できるのは、その対人関係上での「悩み」です。
「全ての悩みは対人関係の悩みである」とは実はアドラー自身の言葉ではないのですが、アドラーは人間が人生で直面する様々な課題について、仕事のタスク・交友のタスク・愛のタスクに分けて考えることで、多くの問題が解決できると考えました。
ただし、ここで留意しておきたいのは、ご指摘の病気や事故、災害等に遭遇した際の身体的苦痛や、それに伴う恐怖や不安そのものは、あくまで「生理的なもの」であるという点です。
アドラー心理学が対人関係上の問題だとするのは、出来事自体やそこから生じる生理的苦痛に対する本人の主観的な意味づけ、さらには起こった状況に対する周囲の反応や副次的に起こる問題に対する「悩み」です(主観的といっても、脳機能への影響から直接生じる抑うつ気分や、幻覚・せん妄・妄想等に伴う切迫感や恐怖感などについては生理的苦痛に属すると考えられます)。
たとえば、病気になったとしても、それを本人がどう受け止め、どう意味づけ、周囲とどう関わるかによって、体験の意味が変わります。つまり病気は、生理的なものとしてだけでなく、対人関係上の「悩み」、すなわち仕事のタスクや交友のタスク、愛のタスクとしても体験されるのです。また、いずれ誰にも訪れる自分自身の死にしても、それに先立つ生理的な痛みや苦しみとしてだけではなく、死に伴って避けられない他者との別離の辛さや悲しみとしても体験されます。アドラー心理学で解決できるのは、そうした対人関係上の悩みです。もっとも、対人関係上の問題が解決することで、結果的に生理的な苦痛が和らぐことも十分にあり得ます。
人間は対人関係に深く組み込まれた存在であり、あらゆる出来事は、対人関係上ないし社会的な文脈において主観的に意味づけられた形で体験されると、アドラー心理学では考えるのです。
はじめからアドラー心理学が第一選択だと決めつけずに、幅広い可能性を考慮すべきであり、アドラー心理学に基づくカウンセリングが適応とされる場合は治療的人間関係(相談的人間関係)を確立しつつ、その人に応じた個別の対応を行います。
まず大事なことは、一人ひとりの状況に応じた適切な対応をとることです。対人関係が極端に苦手であるとか、社会的に孤立しているとしても、どうしてそうなのかは様々な事情が考えられます。
周囲の状況が過酷で、そうするのがやむをえない状況なのかもしれません。場合によっては、カウンセリングよりも先に警察や法の専門家などへの相談が急がれますし、福祉的な支援が必要な場合は、精神保健福祉士やソーシャルワーカー、地域の相談支援事業所などへの相談が重要となります。
あるいは、ご本人は生得的あるいは後天的な障害、または精神疾患による困難を抱えておられるのかもしれません。そうした場合、またはそうした可能性がある場合は、まず専門医療機関(心療内科、精神科、発達専門医など)を受診し、正確な診断と適切な治療・支援を受けることを強く推奨します。すなわち、はじめからアドラー心理学に基づくカウンセリングだけを第一選択とせず、あるいは単独で行うのではなく、幅広い可能性を考慮した対応が望まれます。
アドラー心理学に基づくカウンセリングの適応がある場合は、治療的人間関係(相談的人間関係)のなかで、ご本人のお話をしっかりと聴きます。治療的人間関係(相談的人間関係)とは、相互尊敬、相互信頼、協力、目標の一致ができている関係のことです。カウンセリングでは一人ひとりの個別性を重視し、ある日のひとつのエピソードから、協力的な暮らし方を考えていきます。
アドラー心理学はいじめやハラスメントについて、「被害者の課題」として被害者の被った暴力やその苦痛を無かったことにするものではありません。また「自分の受け止め方次第」などと、全ての責任を被害者に背負わせて、加害者側の暴力を免責するものでもありません。寛容の名のもとに、不寛容の極致ともいえるいじめやハラスメントが許されるようなことは、決してあってはならないと考えます。
結論から先に申します。アドラー心理学はいじめやハラスメントについて、それは加害者側の課題だからと、被害者の被った暴力や、それに伴う苦痛を無かったことにするものではありません。また「自分の受け止め方次第」などと全ての責任を被害者に背負わせて、加害者側の暴力を免責するものでもありません。寛容の名のもとに、いじめやハラスメントが許されるようなことは、決してあってはならないと考えます。
まず、ある出来事が誰かの課題なら、他の人にとっては課題ではない、もしくは他の人の課題にはなり得ない、という考え方は間違っています。ひとつの出来事は、それに関係する人々の、様々な課題となり得るのです。
この場合、被害者側には、たとえば現在の状況から速やかに抜け出して、ふたたび安心して人々との関わりに参加できるようにする、といった切迫した課題があることでしょう。加害者側は、いずれ他者を害したことによって自身に降りかかる「結末を体験」するでしょうし、それに向き合うという課題を避けるべきではありません。いじめやハラスメントを見聞きした周囲の人々も、「身近な方が被害を受けた事に対してどう考えどう行動するか」といった課題に直面することでしょう。そして出来事の舞台となった場の管理者、責任者にとっても、それらは看過できない課題であるはずで、為すべきことは多々あるように思われます。
また、いじめやハラスメントが現在も進行中であったり、被害がさらに拡がっていたり、再発のおそれがある場合には、その抑止のため、また加害者が自分の起こした行動の結末を充分に体験するためにも、コンプライアンスの担当部門や、警察等行政機関への通報と連携などが、被害を受けた側の課題に含まれてくることと思われます。
アドラー心理学は、他者に寛容であれとするものですが、いじめやハラスメントなどの暴力は不寛容の極致といえる行為であり、アドラー心理学は不寛容に対して寛容ではありません。そうした行為については、当事者だけの課題として傍観するのではなく、周囲の人々も自分にできることを考え、協力して解決することが求められます。
ただし、周囲の人々が被害者を思うあまりに、被害者自身の感情や考えを確認せずに動いたとしたら、それは、被害者を援助することにならない場合もありえます。物理的には同じ被害であっても、主観的にどのような「被害」であるかが異なるからです。むやみに踏み込んで、被害者の考えを無視した安易な助言をすることなどは、被害者を二重に苦しめてしまうことになりかねません。
もし、私たちがそうした問題についてご相談を受ければ、「話を聴く」ことを大切にします。じゅうぶんに話を聴いたあとであれば、被害者の求めに応じて「助言する」こともあります。それらを通じて、「私は能力がある」「人びとは私の仲間だ」と思える方向へ、そして自立して社会と調和して暮らせる方向へと向かえるように、時間をかけて勇気づけを重ね、援助しようと努めます。被害の状況次第では、同時に、または心理的対応よりも優先して、医療的対応を含む専門的な支援にもつないでいけるよう充分に配慮します。
実践の難しさ・現実との乖離について
目的論は感情を「割り切る」ものではなく、アドラー心理学の実践では、その感情が対人関係で持つ「目的」を理解し、抑圧や発散とは異なる建設的な表現方法を学ぶことを目指します。
アドラー心理学は、人は理性も感情をも含む個人「全体」として、何らかの目的に向かって行動するという目的論の立場をとります。目的論から考えるなら、陰性感情(怒り、悲しみ、嫉妬など)を表出することも目的に向かって個人が選択する行動のひとつである、ということになります。
そもそも感情というものが、何らかの原因で勝手に生じて、「割り切る」などしないかぎり抑えられないという捉え方は、目的論ではなく原因論にあたります。また、個人の中で感情と理性が対立し続けるかのような捉え方は、全体論ではなく要素論といえます。いずれもアドラー心理学の考え方ではありません。
アドラー心理学の実践において大切なことは、自分自身の感情や思考、そして実際の行動が、対人関係の中でいったい何を「目的」としているかを理解することです。「目的」が分かれば感情は自然と消えていくこともありますし、そのままにしておくという選択肢もあります。そうして、今より少しでも社会に対して建設的かつ貢献的な対処方法を学んでいくことで、人は成長することができるのです。
もちろんたやすいものではなく、くりかえし練習することが必要です。自分ひとりで取り組むのは難しいので、本で学ぶだけでなく、講座やワークショップでの実践的な学習や、ともに学ぶ仲間のいるアドラー心理学の自助会などが助けになるでしょう。。
Staff List
企画・編集:川尻信一(AIJ事務局長)
執筆:大竹優子・中井亜由美・久保田由紀子・野田文子(以上4名AIJ心理療法士)
監修:大竹優子(アドラー心理学指導者)
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