現実期と実現期

 自分の人生を「現実期」と「実現期」に分類する。「現実期」というのは、実際の人生で実現したこと、あるいは実現はしていないけれど可能性はあることを言う。「実現期」というのは、ちょっと変った定義だけれど、実際の人生では実現しないだろうが、ある種の「霊感」で実現するかもしれないことを言う。われわれの人生は「現実期」の連続でできている。「実現期」というのは、期待することはできるけれど、実現するとは、すくなくとも本気では、思っていない。事実はそういうことにすぎないのかもしれないけれど、多くの人間は「実現期」のできごとを夢想もし、いつか実現するかも知れないとも思い込んでいる。そう思うので、絶望しないで生きていけるわけだ。

 しかるに、共産主義だの現実主義だのというのは、原理的には一切の「実現期」を拒否して未来を考える。そこを信じられるか信じられないかで、ほんものの共産主義者と、実は「実現期」信者なのに「現実期」信者だと思い込んでいる人たちとが別れる。

 この話はややこしいね。「現実期」とか「実現期」とかいう名前がよくないのかな。まあさしあたってはこれで考えておくが、私は共産主義者ではない。だから、未来のことを考えると、非現実的なことも可能性として考えておく習性がある。実際に非現実的なことが起こったことがあるのかないのか、あまりよくわからない。けれども、原理的にはどんなことでも起こりえないことはないと思っている。ただし、実現可能性というものがあって、ある種の可能性は無限にゼロに近い。そういうものは私も「可能性はゼロだな」と思うので、期待しない。しかし、ことがらのなかには、理性で考えると可能性はゼロなのに実現するものがあるということも信じている。つまり、「予想もしないのに実現する」ということが、けっこう世の中にはあるかもね、と思っている。いまのような状況では、そういう可能性を信じて生きている方が、共産主義的な現実主義を生きているよりは、より希望のある生き方をすることができると思っている。

 今日の話はわかりにくいね。もうちょっと練れたらまた書きます。