観音成就法

 「ターラー成就法」の引用はいちおう終わった。せっかくターラー成就法を引用したので、ついでに「観音成就法」も、と思っているのだが、評判はどうなんだろうね。ターラー成就法は先日やったばかりだから、またやってみようと思う人がいるかもしれないのだが、観音成就法は(たぶん)昨年にドルズィン・リンポチェをお呼びしたときに実習してもらってからあまり手をつけていないんじゃないかな。ちょっと周囲の人々の噂を聞いてみなければ。

 私はどちらが好きかと聞かれれば、まあどちらも好きだ。けれどもいまは観音成就法をやってみようとは思わない。たぶん一昨年ごろにしっかりやりこんで、いちおう落ちついている。ターラー成就法をしっかりやりこんで、なんでもなく呼吸しているだけでもターラー菩薩の「気」が全身にめぐるようになれば、気分を変えるために観音成就法に凝ってみるかもしれない。

 そういう話なので、いちおう観音菩薩の成就法を見てみる。基本的な作り方はターラー菩薩とも変らないし阿弥陀仏とも変らない。まあ人の好きずきに合せて本尊を分けてあるわけだ。なにはともあれ観音菩薩成就法から。この経典にはマントラ集が2つついているので、今日は先に出てくる方を紹介する。この前に、成就法にかぎらずすべての経典に共通の導入部があるが、それは今日も省略。

【観音菩薩の観想】

ああ|離戯論離見の空を本性に|自身はまさに倶生の清浄身|
純白一面四臂にて結跏趺坐|前の両手は胸で合掌し|
後は右数珠左は白蓮を|相好円満誓智別なき身|
胸の月輪六字が HRI 囲み|回りて輝き器世間浄土にし|
有情世間を清浄身となし|すべての声は六字を自性とし|
すべての想いは本性大慈なり|

OM MANI PADME HŪM

 短い成就法だが、その分 OM MANI PADME HUM の回数を増やせばいい。まあ時間を見ながらだけれど、一千回くらいはほしいな。

 「離戯論」というのは「たわむれごとを離れた」ということだ。「よい」だの「悪い」だの「美しい」だの「醜い」だのといった「戯論」を離れて、「ただありのまま」に対照を見る。「それってどんな風」と言われると困るので、まあそんな状態があるんだと思っておいてください。そのうちご自分で体験される日が来るでしょう。仏教の特質はこのあたりにある。真理は「中」にあって、それはすべての偏見が落ちたときにはじめて見えることになっている。「離見」もこれと関連していて、右だの左だの理系だの文系だのといった世間の差別を超えたところに本当の姿があると考えられている。「そうなんだ」と思っていただくしかない。ともあれ、離戯論・離見に「本当の」姿がある。そうわかったとき、自分の身体は「まさに倶生(生まれながら)の清浄身」とわかるわけだ。ということは、本当の姿を見るまでは、どんな風に見えていても本当の姿は見えていない、ということだ。

 純白で腕は四つで結跏趺坐している。前の両手は胸で合掌し、後ろの両手は右は数珠、左は白蓮をもっている。容貌は円満であり、誓願と知識に別がない状態だ。胸には月輪があって OM MANI PADME HUM の六字が円形に書かれていて、その真ん中に HRI 字がある。六字は輝いてまわりの世間を浄土にし、生物の世界を清浄の身体にし、すべての声は OM MANI PADME HUM の六文字を自性とし、すべての想いはその本性が大慈なのだ。