炎の舞(3)

第二部 修法

1.

 「浄念は文観という僧を知っていますか?」
 と永福門院さまに尋ねられて、わたくしは、
 「はい、よく存じております、わたくしはむかし文観さまの従者をしておりました」
 とお答えいたしました。浄住寺の客間は日当たりのよい場所に作ってはありましたが、その日は春がまだ浅くて冷えまして、鎧戸を半分ほど降ろしておりましたので、ほの暗くて、上座にお座りの女院さまのご様子は陰としてしか伺うことができませんでした。
 「文観について、そなたも噂は聞いていますか?」
 とおっしゃる女院さまのお声は、お齢のためかややかすれてはおりましたが、か細く美しい響きでございました。
 「このところ、中宮さまのご懐妊のご祈祷をしておられるとか聞いておりますが」
 とお答えしますと、女院さまは、
 「それは誰でも知っていることですが、噂によれば、それは表向きのことで、実際には鎌倉殿を呪詛しているとか」
 と、いっそう声を潜めておっしゃいました。わたくしは驚いてしまって、
 「いくらなんでも、それはありますまい。文観さまも律宗の僧でございますから、殺生戒を侵すような呪詛などをなさるとは思えません」
 と、つい力を込めて申し上げてしまいました。
 「まあ、世間の者が言うことを、宮中の誰かが聞き込んできたことにすぎませんから、どれほど当てになることかはわかりませんが、それよりも危ういことは、そのような噂が世間に流れていることです」
 と女院さまは心配そうにおっしゃいました。
 「女院さまが心配なさっているのは、天子さまの身に累が及ぶことでございますか?」
 とわたくしが尋ねますと、女院さまは、
 「そなたは相変わらず知恵の巡りが早いですね。鎌倉殿は今上陛下をこころよからず思っています。ですから、文観が鎌倉殿を呪詛したことを口実に、天子さまにご退位を迫るというようなことも、ありえないことではありません」
 とおっしゃいました。その口調が、かならずしも暗くなかったのは、持明院統の女院さまにとって、大覚寺統の天子さまがご退位なされば、持明院統から新しい天子が立てられる可能性がないことはないからではないかと、わたくしはすこし思ってしまいましたが、それはわたくしの勘ぐりでしかないのかもしれません。
 「誰がそのような噂を流しているのでしょうかね」
 と女院さまがおっしゃるので、わたくしはすこし考えて申し上げました。
 「叡山は天子の御子である護良親王殿下が天台座主を勤めておられますから、天子さまに不利益な噂を流すはずがありません。そうであるとすれば、高野山でございましょう」 
 女院さまは小さな声で笑われた後で、
 「そなたは、律僧などよりは、よほど侍の方が向いていますね。六波羅探題で使ってもらえたかもしれませんよ」
 とおっしゃいました。それが本気でなく、わたくしをからかうためにおっしゃったことはわかりましたので、特にお答えはいたしませんでした。
 「浄念、そなたは、文観に会いに行って、噂の真偽を確かめることができますか?」
 と女院さまがおっしゃったので、わたくしはすこし驚いてしまって、
 「それはできますが」
 とお答えすると、女院さまは、
 「わたくしの退屈しのぎの手伝いにすぎないのですが、文観に会いに行って、なんであれ様子を教えてもらえませんか」
 とおっしゃいました。
 「承知いたしました」
 とわたくしはお答えしましたが、そういうことにどういう意味があるのか、すこしとまどっておりました。

2.

 文観さまにお会いするには、すこし時間がかかりました。昼夜ご祈祷をしておられるので、お会いできるのはご祈祷が一段落したときだというのです。ともあれ、十日ほど後に、泉湧寺で文観さまと、ほんとうに久しぶりにお会いいたしました。
 「三郎ではないか、元気なようだな」
 と文観さまはいきなりおっしゃいました。
 「いまは浄念と申します。西大寺で得度をいただきまして、比丘でございます」
 とお答えいたしました。
 「いまはどこにおるのか?」
 とお尋ねになるので、
 「京の浄住寺に掛塔(かた)しております」
 とお答えしますと、
 「ほう、掛塔か。このごろの律僧は禅宗の言葉も使うのだな。まあ、対立しているよりはよろしい」
 とおっしゃいました。掛塔というのは、たしかに禅僧が使う言葉ですが、最近は禅宗から律宗に来るものも増え、律宗から禅宗に学びに行くものも増え、自然に両方の言葉が混じり合ってきているのでございます。仲が悪いのは、浄土宗と日蓮宗でございますが、これはこちらの問題ではなく、向こうが勝手にこちらを嫌っているのです。

 「中宮の祈祷は、もう三年目になりかけているが、さっぱり効果がない。効果がないと月の障りが起こる。そうなると私は休みをいただける。月の障りが終わると、また祈祷を始める。毎月毎月そうして暮らしているので、世の中のことにはすっかり疎くなっている」
 文観さまは、疲れたようにおっしゃいました。
 「どのような法式を使っておられるのですか」
 とお尋ねしてから、これは聞いてはならないことだったかと思いましたが、文観さまは屈託なく、
 「最初は叡尊さまもよく使われたという愛染明王法を使っていたが、あまりに効かぬので、いまは阿闍梨さまに習った荼吉尼法を使っている。しかし効かぬのは同じだな」
 とおっしゃいました。
 「荼吉尼法に懐妊を願う功徳がございますのでしょうか」
 とお伺いすると、
 「工夫次第だな」
 とおっしゃいました。
 「数日すると、次の祈祷が始まるので、その前の準備を見に来ないか」
 とおっしゃるので、それはありがたい機会だと思い、
 「ぜひとも見せていただきとうございます」
 と申し上げました。文観さまは、以前にお仕えしておりましたころと同じような、澄んだ眼とよく通る声をもっておられて、わたくしはすこし安心をいたしました。このような方が、邪悪な呪詛などをなさるはずがないと、この時点でわたくしは確信したのでございます。

3.

 修法は御所の中の護摩堂でおこなわれておりますが、わたくしは御所に入るのはもちろんはじめてでございましたので、たいへん緊張いたしました。堂内に入ると、正面に荼吉尼さまの画像がつるしてありますが、阿闍梨さまのとはすこし違って、狐に乗っておられます。
 「荼吉尼さまが狐に乗っておられます」
 と申し上げますと、
 「阿闍梨さまの荼吉尼像は、魔鬼を踏んでおったが、宮中であの姿はおそれおおいので、阿闍梨さまに相談したのだ。さいわい、伏見の稲荷神社が狐に乗った荼吉尼像を祀っておったので、その模写を持って行って、これに似たものを使ってもよいかどうかお尋ねしたら、心の中の荼吉尼像さえしっかりしておれば、図像はなんでもよいというおおせだったので、このような絵を絵師に描かせた」
 とお答えになりました。阿闍梨さまのお許しを得ているというので、すこし安堵いたしました。文観さまは、工夫の優れた方で、ときどきそのために行きすぎることがあるように思っていたからでございます。
 正面に護摩壇があり、右手に護摩木が積んであります。護摩壇の中を見ますと、護摩木が三角に組んであります。
 「三角に組んでありますが、これはどうしてでございますか?」
 とお尋ねいたしました。と申しますのは、護摩木を三角に組むのは、呪詛の場合だからでございます。文観さまは、
 「荼吉尼法で内護摩(ないごま)を焚くであろう。下腹部に三角の輪を観想し、そこから火が立ち上るのを観想する。荼吉尼法には外護摩(げごま)はないが、外護摩を焚くとすれば、やはり三角に組むべきであろうと考えた」
 とおっしゃいます。
 「それも阿闍梨さまにお尋ねなさいましたか?」
 とお尋ねすると、
 「お尋ねしたが、阿闍梨さまは、外護摩は焚いたことがないとおっしゃった。南蛮には、外護摩を焚く法式はないのだそうだ。しかし、日本では、祈祷というかぎりは外護摩を焚かざるを得ない。そう申し上げると、三角でもよかろうというお答えであった」
 とお答えになりました。
 「日本の僧が見ますと、これは呪詛の壇に見えてしまいます。阿闍梨さまはそのことはご存じなのでしょうか」
 とわたくしが申し上げると、
 「阿闍梨さまは日本の法式にはお詳しくない。しかし、三角の護摩壇については、各宗の僧に来てもらって、南蛮渡来の荼吉尼法で、敬愛法でも三角の護摩を焚くのだと説明しているので、わかってもらえていると思う」
 と文観さまは屈託なく答えられました。いえ、世の中はそんなに甘くはございませんよ。文観さまがあまりにも天子さまのご寵愛を一身に受けているので、嫉妬している者がいるに違いありません。その者たちが陰でどのようなことを申すか、想像もつきません。そう申し上げようかとも思いましたが、文観さまは修法の準備にお忙しくて、そのお話はできずじまいに終わりました。