影の炎’(6)

第六部 伊勢

 すこしずつ春になってきましたので、ある日、今後の作戦について話し合いをいたしました。
 「わかっていることは少ない。北畠殿のところに天竺聖が入ったというのは、確実だと考えてもよさそうだ。次にかの者がどのように動くかは予測がつかないが、この前のやり口から見ると、北畠殿をたぶらかして、どこかの荘園の百姓衆を扇動し、彼らに一揆を起させて、どこかを攻めるというやり方だろう。攻める先は、まず間違いなく伊勢の神領地であろうと思う。これ以上のことは、現地に入らないとわからない」
 と師の御坊はおっしゃいました。
 「問題は、伊勢に着いてから、どこを頼るかだ。われわれだけではなにもできない」
 と師の御坊はおっしゃいます。
 「度会(わたらい)はどうでしょうな」
 と光智さまがおっしゃいました。
 「外宮の神主の度会家ですか。それはよいかもしれません」
 と師の御坊はおっしゃいました。
 「宮川より東の伊勢神領地は守護不入の地で、北畠氏であれ誰であれ、兵を率いて立ち入ることができません。ですから、われわれも安全に通行できましょう。また、内宮の大中臣家は仏法を嫌いますが、外宮の度会家は仏法に寛容です。しかも、神宮寺である常明寺は、度会の一族が管主を務めています。修法のためにそこを貸してもらえるとすれば、大変都合がよい」
 と、師の御坊はおっしゃいました。
 師の御坊とすっかり仲良しになった海賊の清水余三郎殿も同席していましたので、
 「熊野本宮の九鬼さまに添え状を書いてもらうのはどうかね」
 と言いました。
 「おお、それは妙案かもしれない。九鬼殿と度会家とは深いつながりがあるでしょう。九鬼殿に添え書きをいただけば、話はかならずうまく進みます」
 と師の御坊はおっしゃって、それで話は決まりました。
 「伊勢に着いたら、私が度会殿と話をしている間に、北畠殿の様子を探って来てくれないか。無理をしない範囲でいいからな」
 と師の御坊がおっしゃいますので、
 「やってみます」
 とお答えしました。

 船出は二月の二十日前後がいいだろうということになりました。そのころになると、冬の北風もおさまって、海も穏やかになるだろうということです。清水殿や水夫たちは一緒に行くわけですが、女たちも交えて別れの宴をすることになりました。夕食を食べてはならない出家がいるので、昼前から始めて、いつものように千代が唄って私が舞って、酒を飲む者は飲み、菓子を食う者は食い、賑やかに祝宴をいたしました。その日をかぎりに、わたくしは女装をやめて、男の衣装に戻りました。男どもが残念がりましたが、実はわたくし自身がいちばん残念であったかもしれません。
 別れの宴はいたしましたが、かといって、翌日に出帆というわけではなく、風と汐の様子を見ながら、最適の日を待ちます。結局、二月二十二日に、勝浦の港を出て、伊勢の鳥羽に向かいました。途中いくつかの港に寄りながら、さまざまの荷を仕入れて、伊勢で売って、帰りは伊勢で品物を仕入れて途中の港で売ります。初めのうちは黒潮で揺れましたが、尾鷲の三木崎を過ぎたあたりから海はおだやかになり、春の光がさしてのどかな航海でした。左手に見える陸地は、まだ冬の色でしたが、所々に辛夷と思われる花が咲いていました。

 出発前に、光智さまは、
 「また船に乗るのですか。陸路というのは無理ですか」
 と泣き言をおっしゃいました。師の御坊は淡々と、
 「陸路は戦乱がありますので無理です。船に乗るか、ここに留まるか、どちらかしか選べません」
 とおっしゃいました。それで、光智さまは、しかたなく船に乗る方を選ばれました。
 師の御坊は光智さまに、
 「船酔いをしそうになったら、この丸薬をお服みなさい」
 と、緑色の粒を渡されました。
 「これはなんでございますか」
 光智さまが尋ねられますと、
 「秘伝の妙薬です。『不空羂索神変真言経』という経文に書かれておりました。名前は書かれていなかったのですが、神変丸とでも呼びましょうか」
 とおっしゃいます。
 「ちゃんと、不空羂索観音の加持も込めておきました。霊験あらたかであろうと思います」
 ともおっしゃいます。
 後で、光智さまがおられないところでお聞きしたところによると、なんのことはない松葉を乾かしてすりつぶして固めたものなのだそうです。けれども、この丸薬のお陰で、光智さまは今回は船酔いに苦しまずにおれました。松葉が効いたのか、不空羂索観音のお加持が効いたのか、それとも師の御坊のおっしゃりようが効いたのか、海がおだやかだったからか、わかりません。いえいえ、そんなことを申してはいけませんね。観音さまのご加護でございましょう。

 やがて船は、伊勢の鳥羽の港に入りました、三月二日の朝のことでした。大汐の日でしたので、汐の流れが速く、しかも急に方向が変わることがあって、手練れの海賊たちでも、港につけるのがなかなか難しかったようでございます。ようやく港に入りますと、わたくしは皆に暇乞いをして、船を離れました。ここから北畠氏の本拠地である多気の霧山城へ行って様子をうかがいます。
 鳥羽から宮川までは二里半ほどですから、走れば二刻あまりで着くのですが、昼間は人目があるので、行商人のような格好をしてブラブラと歩くしかありません。隠形の術はどうかというと、走るとどうしても息があがるので難しいのです。伊勢本街道を西に進んで、やがて宮川の橋が見えました。そこを渡ると、北畠の領地です。渡ってすぐに関所があるのが見えましたので、やっかいだと思い、すこし上流まで行って泳いで渡りました。それからまた伊勢本街道にもどって、行商人の格好で歩きましたが、笠をかぶって顔が見えなかったこともあり、不審がられずに済みました。鳥羽から多気の霧山城までは十二里ほどあります。歩いているうちに、日が暮れてしまいました。しかもその夜は闇夜でした。月夜だと夜に走るのですが、さすがに影の者でも闇夜では道が見えません。森の中で落ち葉にくるまって寝ましたが、三月になったばかりの夜は、影の者にも寒うございました。
 翌日の朝早くに霧山城が見えました。その手前にまた関所がありますので、今度は山の中に入って、尾根の木こり道から近づきました。城はかなり高い丘の頂にある館で、麓に城下町が広がっています。ものものしい警戒ぶりで、城にはそう簡単には近づけそうにありません。しかし、町には人が普通に歩いています。まだ臨戦態勢というわけではなさそうです。望気をすると、町の一部に妙な邪気があります。
 「ははあ、あれだな」
 と思い、隠形の術を使ってそこまで行ってみると、金剛座寺という寺があって、その奥でなにやら物音がしています。隠形のままで中に入ってみますと、堂内に天竺聖と思われる白衣の行者の姿が見え、そのまわりに何人かの僧侶と侍が控えています。向こうを向いておりますので顔は見えませんが、たしかに金髪であることを確かめて、これだけ見れば十分と思い、また山の中に潜り込んで関所をやりすごし、伊勢本街道に戻って宮川まで行って、また泳いで渡り、三月三日の午後に外宮に着きました。師の御坊は常明寺で待っているとおっしゃったので、山門を入り、庫裏で聞いてみると、一人の僧侶が出てきて、僧坊の一室まで案内してくれました。そこに、師の御坊と光智さまがおられました。
 「ただいま戻りました」
 とお二人に挨拶しますと、
 「ご苦労であった。さて、様子はどうか」
 と師の御坊はおっしゃるので、霧山城の金剛座寺にたしかに天竺聖がいること、警戒は厳重であるが、まだ臨戦態勢ではないことなどを伝えました。話が済んで、
 「千代はどこにおりますか」
 と尋ねますと、
 「お願いして、隣の部屋も貸してもらった。そなたもそこで休むがよかろう」
 とおっしゃいました。
 「そうそう、ひとつ頼みがある。明日の朝から修法を始めようと思う。千代と一緒に市に行って、花と菓子を買ってきてくれまいか」
 となりの部屋に行きますと、千代はおりません。外へ行ったのかなと思って、境内に出ると、山門のところに腰掛けておりました。わたくしが山門を入ったのと入れ違いに出てきたのでしょう。私を見つけると、喜んで手を振って、話しかけてきました。
 「ねえねえ、お姉ちゃん、どうだった、どうだった」
 「なにがさ」
 「ええとね、まず霧山城」
 「山の上にある城で、山の上が砦で、麓が町になっている。なかなか堅固な城だな。あれはなかなか攻め落とせないよ」
 「ふうん、それで、天竺聖はいたんだ」
 「いたいた」
 「どんな風なの」
 「髪の毛が金色なんだよ。それに目が碧い」
 「へえ、そうなんだ。そんな人間がいるんだねえ」
 と、こんな風で際限がありません。まったく子どものおしゃべりです。いつまでもつき合ってはおれないので、
 「阿闍梨さまに、供え物の花やお菓子を買いに市に行くようにいいつかったんだけど、一緒に行く?」
 と尋ねると、喜んで、
 「行く行く」
 と言いました。
 「伊勢の町をゆっくり見たかったんだ」
 とも言います。物見遊山気分でいるようです。

 このあたりは年中市が立っております。いまは戦乱がひどくて客が少ないので開いている店も多くないのですが、それでも花と菓子とは揃えることができました。千代は大喜びで、なんだか自分用に櫛のようなものを買っておりました。
 そうして二人が常明寺に帰って境内に入ると、山門の上から黒いものが降ってきました。また例の影の者です。今日は折悪しく刀をもっておりません。千代を後ろにかばって身構えますと、
 「戦いに来たのではない、話をしに来た」
 と言います。
 「なんだ」
 と尋ねますと、
 「先ほど、お前たちがしゃべっているのを、この山門の上で聞いていた」
 と言います。まったく用心せずに大声でおしゃべりしていたので、この男の気配に気がついていませんでした。向こうに殺す気があれば、殺されていたところです。
 「お前たちのあるじは、どうしようとしているのだ」
 「ここで祈祷をしようとしている」
 「それでどうするんだ」
 「北畠殿の陰謀を食い止めようとしている」
 「ほう、北畠に敵対するのか」
 「まあ、そうだな」
 「じゃあ、味方だ」
 「味方?」
 「そうだ。おれは、光厳院が南朝に味方しないように見張っていた。北畠は南朝方の武将だ。それに敵対するなら味方だ」
 「あるじは誰だ」
 「将軍家だ」
 わたくしは驚きました。しかし、考えてみると、驚くことは何もなかったのです。将軍家だって影の者を使うでしょうし、その影の者に命じて上皇たちの様子を見晴らせるくらいのことはするでしょう。
 「わたくしのあるじは佐々木道誉さまだ」
 「なんだ、それではまったくの味方ではないか。はじめからわかっておれば、ここまで手間をかけることはなかった。あの坊さんたちに会わせてくれないか」
 と言います。目を見ると大丈夫そうなので、承知しました。

 師の御坊の部屋へその男を連れて行きますと、男は挨拶をして、
 「田代弥五郎と申します。将軍家に仕えております。光厳院さまを見張っておりましたが、お味方とわかりましたので、その旨、将軍家に報告をいたします。なにかご伝言があれば、お伝えいたします」
 と言います。師の御坊は驚いておられましたが、やがて、
 「北畠殿が、天竺聖という異国の行者と組んで、伊勢の神領地を攻めようとしておられます。できれば、背後を脅かしていただけると、こちらへの力が弱りますので、助かります。将軍家おんみずからは難しうございましょうから、近江の佐々木氏に命じていただければ、道誉さまは動いてくださると思います」
 とおっしゃいました。
 「戦はいつごろ起こりますか」
 と弥五郎が尋ねますと、
 「早ければ今月の十五日」
 とおっしゃいます。
 「心得ました。将軍家へはわたくしから申し上げますが、佐々木殿への書状をお願いできますか」
 と弥五郎は言いますので、師の御坊は佐々木の殿にあてた手紙を書かれました。弥五郎はそれをいただくと、簡単な礼をして、風のように去って行きました。

 「どの道を通っても、京への道は南朝方のど真ん中を突っ切りますから、そう早くは効果は出ないでしょう」
 とわたくしは申しました。
 「そなただと、どれくらいかかるか」
 とおっしゃいますので、
 「ここからだと、亀山から甲賀に抜けて草津に出る道と、伊賀から大津に出る道とがありますが、弥五郎殿は伊賀者ですから、伊賀を通る道を選ぶのではないかと思います。もっとも、伊賀も今は北畠氏の領地になっているようですから、ちょっと大変かも知れません。そろそろ月が明るくなりますので、夜も走るとすると、伊賀までが一日、伊賀から都までが一日というところでしょうか。ただしこれは、昼間の警戒が緩い場合の話です」
 と申し上げました。
 「ほう、ここから都まで二日でいけるのか。われわれが歩くと、七日から十日はかかるだろう」
 と、師の御坊は感心なさいました。
 「影でございますし、それに弥五郎殿は中忍でございますから」
 と申しますと、
 「中忍とはなにか」
 とおっしゃいます。
 「わたくしは下忍でございます。佐々木殿のところだと竹斎殿が中忍でございます。普通は、中忍は、大名家に仕える忍者の取り締まりをしております。上忍は甲賀あるいは伊賀の里にいて、全体の差配をしております」
 「なぜ中忍とわかるのか」
 「姓を名告ったからでございます。わたくしにも姓はありますが、人前で名告ることはいたしません」
 「なるほどなあ。で、中忍だとどうなのだ」
 「術の熟達が違います。それに、自分で決められる範囲が広いのです。弥五郎殿が阿闍梨さまに会おうと決めたのは、中忍だからできたことでございます。わたくしでしたら、そんなに大きな方針の変換は、すくなくとも阿闍梨さま、ひょっとすると佐々木の殿に伺いを立てなければできません」
 と申し上げると、
 「なるほどなあ。影の世界も大変なのだな」
 と、妙な感心のされかたをしてしまいました。

 「それはそれとして」
 と、師の御坊はおっしゃいました。
 「清水殿の船はまだ鳥羽にいると思う。ちょっと行って、出帆を待ってもらえるように頼んでもらえまいか」
 「ええ、また走るのでございますか」
 と申し上げますと、
 「すまないな」
 とおっしゃいます。ちょっと考えまして、
 「度会さまに赦免状を書いていただくというわけにはいかないでしょうか。昼間に道を走っていて不審に思われて尋問されたときに見せるためです。伊勢の神領地の中であれば、度会さまの赦免状は効果があると思います」
 と申し上げました。
 「心得た」
 と言って師の御坊は出て行かれ、しばらくすると帰ってこられました。
 「度会の本家ではなくて、常明寺の赦免状だが、これで十分だろう」
 と言って、畳んだ書状をくださいました。正面に常明寺の印が押してあります。
 「これがあれば、人々は常明寺の使者だと思うので、走っておろうが何をしておろうが、怪しまないだろう」
 「これで簡単に鳥羽を行き来できます。ところで、いつごろまで待っていただけばいいのですか」
 とお尋ねすると、
 「一揆は満月の晩に起こる。だから、三月十五日だ。今日は四日だな。佐々木殿が間に合ってくれればいいのだが」
 と師の御坊はおっしゃいました。さらに付け加えて、
 「よいか、一揆が起こってから動くのだ。だから、三月十六日以後だ。しかもここは神領地だから、熊野の海賊も武装しては入れない。もしここで血を流したら、とんでもない災厄が起こる。だから、船を津の方へ回して、北畠殿の領地を直接に攻撃してほしいと伝えてくれ。なに、本気で攻撃することはない、敵の勢力を散らせばそれでいいのだ」
 とおっしゃいました。

 赦免状を木の板に結びつけ、さらにそれを仕込み杖に結びつけて、それをかついで走りました。道行く人は振り返りましたが、常明寺の印を見ると、何でもないような顔をして、そのまま立ち去って行きました。効果絶大です。
 熊野水軍の船はまだ港におりました。
 「清水さま、阿闍梨さまから伝言がございます」
 と言って、三月十六日ごろから津のあたりで騒ぎを起してほしいという旨を伝えると、
 「戦かい。それは面白いね。帰るのは延期しよう。しかし、熊野水軍も形式上は南朝方だ。北畠さまに弓を引くと、後でやっかいなことになるかもしれないな。ま、いいか、後は誰かがなんとかするだろう」
 と言って、引き受けてくれました。
 「じゃあ、頃合いになったら船を適当なところへ回すから」
 と言って、面白そうに笑いました。真っ黒な顔の真ん中で白い歯が目立ちました。

 翌日の未明から、師の御坊と光智さまは修法を始められました。それから七日目のことでございますから、十二日のことです、
 「験(しるし)があらわれない。敵に気づかれているのかも知れない」
 と不安そうにおっしゃいます。
 「験というのは、どういうものでございますか」
 とお尋ねしますと、
 「小さなものとしては、たとえば夢がある。大きなものとしては、たとえば雷がある。もっと大きなものとしては、地鳴りなどがある。別に雷や地鳴りまではいらないが、せめて吉夢を見たいものだ。しかし、そういうのがまったくない」
 とおっしゃいました。
 「どうしてなんでございましょうね」
 とお尋ねすると、
 「わからぬ。とにかく修法を続けるしかない」
 とおっしゃいました。以前に近江国で修法をなさったときはわたくしが侍者を勤めましたが、今回は光智さまが侍者を勤めておられます。みずから願われたということです。この寺の僧たちも何人か手伝いに入っています。その結果、かなり大きな修法会になっています。

 十三日の夕刻に、田代弥五郎殿が帰ってこられました。
 「将軍家にもお伝えしましたが、やはり兵を動かす力はないということで、佐々木殿にお願いにあがりました。いや、実は、そんなことだろうと思って、先に佐々木殿に参りました。それが五日のことでございます。佐々木殿は、ただちに出陣すると言っておられました。おっつけ伊賀の方へお出まし下さるでありましょう」
 「間に合えばよいが」
 と師の御坊はおっしゃいました。かなりお疲れのご様子でした。今日からは不眠不休で祈祷するとおっしゃって、堂内に入ってゆかれました。

 十四日も験はなかったようです。師の御坊はずっと堂内で祈祷をしておられます。とうとう十五日になりました。昼間は普段と変わらなかったのですが、夜になって月が出ると、町中がざわつき始めました。わたくしは町に出てみました。宇治の町も山田の町も、道という道に人が溢れています。ひとつの群についていきますと、神社に入っていきます。すでに境内には多くの人が集まっています。間違いなく一揆です。
 月が高く昇ったころですから、戌の刻くらいでしょうか、人々の前にひとりの男が進み出ました。全身白装束で、白い鉢巻きをして、髪を後ろでくくって長く足らしています。右手に六尺棒を持っています。伊勢の神人(じにん)です。寺でいうと、僧兵にあたるものです。なにやら呪文のようなものを唱えています。やがて人々も一緒にその呪文を唱え始めました。
 「おん、ふるふる、てたてた、ばんだばんだ、はなはな、だはだは、あむるて、ふん、ぱっ」
 大津で聞いたのと同じ呪文です。人々の多くは長い棒を持っています。その棒で、一節終わるたびに地面を突きます。地響きがするほどの猛々しさです。そのたびに、呪文の声は大きくなります。
 「おん、ふるふる、てたてた、ばんだばんだ、はなはな、だはだは、あむるて、ふん、ぱっ」
 突然、呪文がやむと、前に立っている神人が、なにやら紙を取り出して、意味不明の呪文を読み上げました。
 「あんなん、わあ。あたああ、わあ。ぱあなん、やあ。きんちい、ばしゃいぇ、てい」
 という風に聞こえました。すると人々は、
 「おおっ」
 と叫んで、一斉に棒で地面を突きました。
 「うぃんむう、たあ。まあなあ、さあ。よおげん、やあ。うぃでわあ、ぱりかあ、やあ」
 「おおっ」
 というように、しばらく同じことが続きました。
 呪文が終わると、神人は紙に火をつけて燃やし、その灰をそばにあった瓶の中に水にとかしました。それを柄杓で汲みだして、みんなに振りかけています。
 「おおっ、おおっ」
 と人々は叫び、その都度棒を地面に突き立てました。そして、
 「おん、ふるふる、てたてた、ばんだばんだ、はなはな、だはだは、あむるて、ふん、ぱっ」
 という呪文を、いっそう声高に唱え、歩き始めました。

 これは大変なことになったと思い、常明寺にとって返しました。あちこちの神社から叫び声が聞こえてきます。伊勢の町々が完全に占領されている感じです。師の御坊が修法をされている愛染堂に行きました。前に真っ赤な愛染明王がおられ、その前で護摩火を焚きながら、師の御坊と数人の僧が修法を勤めておられます。
 「一揆が起こりました」
 と申し上げると、真言をやめられ、
 「だめだったか」
 とおっしゃいました。
 「今回は、敵がこちらの存在を知っていたのがいけなかったんだろうな」
 とおっしゃって、どっと崩れて、その場で眠ってしまわれました。文字どおり不眠不休で修法をなさっていましたから、お疲れが一気に出たのでしょう。

 やがて、
 「おん、ふるふる、てたてた、ばんだばんだ、はなはな、だはだは、あむるて、ふん、ぱっ」
 という呪文が町中にこだまして、人々が度会家の米倉などにおしかけ、中のものを運び出していきます。度会の家人は、
 「血を流してはならん」
 と声を掛け合いながら、一揆衆を止めようとしていますが、まったく手に負えません。そのうち、神人がやって来て家人を見つめて呪文を唱えると、目が死んだように変わり、一揆衆に混じって、
 「おん、ふるふる、てたてた、ばんだばんだ、はなはな、だはだは、あむるて、ふん、ぱっ」
 という呪文を唱えながら、掠奪に参加します。
 一揆衆は米や布を車に積んで、宮川の方へ運んでいきます。後をついていきますと、橋の向こうには、北畠の軍勢が勢揃いしています。一揆衆は車を引いて北畠の軍勢に荷物を引き渡すと、空になった車を牽いて戻ってきます。そうしてまた次の掠奪をするのです。しかし、刀も抜かれませんし、火もつけられません。月明かりの下で、いわば粛々と、掠奪がおこなわれています。奇妙な風景でございました。
 一揆衆は常明寺へもおしかけました。見ておりますと、ただ蔵へ行って米や布を集めるだけで、その他の物には手を出しません。抵抗しない人間は、まるで存在しないかのように無視して通ります。神人がいても、一揆衆の指図に忙しくて、わたくしどものことは気にしません。それはきわめて不思議な風景でございました。
 愛染堂に行って、師の御坊をお起こしして、そのように申し上げますと、
 「静観するしかないのだろうな。しかし、次はどのような手に出るのだろうか」
 とおっしゃいました。そのようにして、その夜は過ぎました。千代だけは元気で、
 「ねえねえ、お姉ちゃん、次はどうなるの」
 とはしゃいでいました。