影の炎(2)

第二部 修法

 三日目でございますから、十月九日のことです、師の御坊から知らせがあって、佐々木の殿と会えるように手配せよとのことでございましたので、その日の朝に会っていただきました。
 「浄念阿闍梨もご健勝のようで、なによりだ。なんでも、浄阿と一緒に魔を見に行ってくださったとか」
 その日は、殿だけでなく、ご家来衆が数人おられましたし、影の者の元締めの竹斎さまもおられました。師の御坊は丁寧にご挨拶をなさった後で、
 「魔の正体はほぼわかりました。あれは天竺渡りの邪法でございます。経文によりますと、修法をおこなう法主がどこかに籠っているはずでございます。そこで分霊を受けた小者が百姓衆を妖術で操るのでございます。先日、私どもを狙って呪をかけたのは、そういうものでございましょう。百姓の姿はしておりましたが、物腰から、侍ではないかと思われます。専門の修行者でなくても、分霊を受けると呪力がさずかるのでございます」
 とおっしゃいました。
 殿はすこしお考えになった後で、
 「どうすればよいのか」
 とお尋ねになりました。
 「百姓衆は操られているだけでございますから、相手にしても仕方がございません。呪力をつけた小者を倒せば百姓衆は魔から醒めましょうが、小者は一人ではございませんでしょうから、別の小者が次々と新たな百姓衆をたぶらかしましょう。ですから、どこかに籠っている法主を倒すのが、もっとも根本的な対策でございます」
 と師の御坊はおっしゃいました。
 「法主はどこにおるのか」
 と殿がおっしゃいますと、
 「おそれながら」
 と竹斎さまがおっしゃいました。
 「一揆衆の舟は堅田に入っております」
 「ほう、堅田か。ということは、堅田衆が一枚噛んでおるのだな」
 「そう思いまして、堅田におります仲間につなぎを入れました」
 「つなぎとはなんじゃ」
 「失礼いたしました。影の言葉でございます。連絡をとったのでございます。堅田であれどこであれ、主だった町には仲間が潜んでおりますので、つなぎを入れれば情勢はわかります」
 「ほう、それで何かわかったか」
 「堅田に瑞祥寺という寺がございます。そこでなにやら法会がおこなわれているような様子でございます。人の出入りがあり、読経が続いているのですが、どうも正体がわかりません」
 「それだな」
 殿は合点をされると、
 「その寺は探ってみたか」
 とおっしゃいます。
 竹斎さまは風采のあがらぬ小男でございます。鼻の下に髭をつけていて、いっそう貧相に見えます。頭が禿げ上がっていて、後頭部に小さな髷をつけておられて、いかにも滑稽に見えます。しかし手練れの中忍で、さまざまのものに変装するのがお上手でございます。殿の言葉をうけて、
 「堅田におります者は、そこまでの力はございません。ただ町の噂を聞き込んで報告する程度のことでございます」
 と申しました。
 「ふむ」
 殿は、師の御坊に向かっておっしゃいました。
 「僧たちの間で噂というのはないのか」
 「拙僧は世間に疎うございますので。一両日いただければ、尋ねてまいります。瑞祥寺なら臨済の寺でございます。臨済の知り合いがおりますので、尋ねると何かがわかるかもしれません」
 「ふむ、それでは明後日にもう一度寄り合いをしようぞ」
 と殿はおっしゃって、その日はそれで終りになりました。

 師の御坊は竹斎さまに、
 「影の者たちに隠形の術を授けたいのだが、寺へ来れるか」
 とお尋ねになりました。
 「それは願ってもないこと、いつがよろしゅうございますか」
 「いつでもよい。そちらで決めよ」
 「それでは、今宵暗くなってからということで、よろしゅうございますが。影の者ともあろうものが、昼間にゾロゾロと連れ歩くわけにはまいりませんので」
 こうして、その日の宵に、当番の者一人と他所に出張っている者一人を残して、三人の影の者が蓮華寺に集まりました。一刻ほどもかけて、師の御坊は隠形の術を詳しく教えてくださいました。
 「よろしいか、これで相手からは姿が見えなくなる。しかし、たとえば矢にあたれば死ぬ。わかりますか」
 とおっしゃいます。それはそうでございましょうな。
 「また、呪文を絶やすと見えてしまう。だから、息の切れるような動きをしてはならない。たえずゆっくりと呪文を唱え続けるのだ。これで終りだ。しっかり練習をしておくように」
 師の御坊がそうおっしゃると、竹斎さまが、
 「他の二人にも伝授いただけましょうか」
 とお尋ねされました。
 「あなたから教えられてよろしいでしょう。わからないことがあれば聞きにくればよい」
 と師の御坊はおっしゃいました。

 二日後、十月十一日の朝に、もう一度会合がもたれました。
 「何かわかったか」
 と殿がおっしゃると、師の御坊が、
 「不確かな噂でございますが、それでもよろしいか」
 とおっしゃいました。
 「おう、なんなりと言うてくだされ」
 と殿がおっしゃるので、師の御坊は、
 「堅田の瑞宝寺に養命蘭隆という禅僧がおります。元の人で、乙未(きのとひつじ)の年でございますから、文和四(1355)年でございますね、日本にまいりました。この僧が、天竺聖という名で呼ばれる西域人を伴っておりまして、これがどうも妖術師ではないかと思われます。先日聞きました梵語の呪文が、支那の訛りとも西蔵の訛りとも蒙古の訛りとも違うなと思っておりましたが、西域の訛りなのでございましょうな」
 とおっしゃいました。
 「ほう、それが妖術師なのだな」
 と殿はおっしゃり、
 「で、どうすれば妖術を封じることができるのか」
 とおっしゃいます。
 「されば、その妖術師の身につけた物があれば」
 「身につけた物とは、着物とかか」
 「さよう。さもなければ髪の毛などでもよろしゅうございます。それが手に入れば、妖術を封じられるかもしれません」
 「ふむ、竹斎、何か手に入れることはできるか」
 「心得ました」
 その日の話はそれで終わりました。

 翌日また会合が持たれました。竹斎さまが、
 「天竺聖と思われる者の髪の毛を手に入れました。このように金髪でございますので、間違いありますまい」
 と、紙に包んだ幾筋かの髪の毛を出しました。
 「ほう、天竺聖は金髪なのか」
 と殿は珍しそうにおっしゃいました。
 「見てまいった者によりますと、目は碧いそうでござりまする」
 殿は面白そうに頷かれました。
 「浄念阿闍梨、これで呪法は封じられるか」
 と尋ねられると、
 「やってみます。今日からはじめて、十五日の満月の夜までにはなんとかなりましょう。御殿の持仏堂をお借りしてよろしゅうございますか。私のところは荒れ果てておりまして、修法には不便でございます」
 とお答えになりました。
 「それはそうであろう。それに蓮華寺では食事を作るものもおらぬ。ここでなら精進の食事をさしあげることができる」
 殿がそうおっしゃいますと、
 「いえ、今回は精進食ではございません。日に一度でよろしゅうございますので、生臭を少々いただきとうございます。この修法は生臭をいただくのが作法でございます」
 と師の御坊はおっしゃいます。わたくしは驚いてしまいました。師の御坊が生臭物を召し上がっているなんて、想像もできなかったのでございます。
 「それと、侍者を一人貸していただきたく存じますが、浄阿でもかまいませんか」
 と師の御坊はおっしゃいます。
 「浄阿か。かまわぬぞ。竹斎、かまわぬな」
 と殿はおっしゃいました。こうして、否応もなく、師の御坊の侍者にされてしまったのでございます。

 持仏堂は一丈四方ほどの小さなものでございます。師の御坊は、蓮華寺からいくつかの法具や経文を持ち込まれ、仏壇の手前に小さな祭壇を作られました。そして、全裸で真っ赤な荼吉尼の絵を飾られ、その前に小さな白い法螺貝などを並べられました。そして最後に、荼吉尼の絵の前に天竺聖の髪の毛を置かれました。
 「これでよいだろう。美紗、お前の仕事は、ひとつは外との連絡だ。使者が来たら応対せよ。ひとつは灯明の番だ。灯明が絶えそうになったら油を注げ。それと、ときどき私に水を持ってきてくれ。経文を読み続けるので、咽が渇くのだ」
 と師の御坊はおっしゃると、深い瞑想に入られました。やがて、低い声で経文を唱え始め、次第に声は大きくなり、やがてわたくしの知らない真言を繰り返し繰り返し大きな声でお唱えになりました。始まったのが未の刻(午後1時)ごろでございましたでしょうか、それから亥の刻(午後10時)ころまで、ときどきすこしの休みを取られるだけで、ひたすら修法を続けられました。
 「今日はここまでにする。明日は夜明け前から始める。食事は辰の刻(午前8時)ころにいただく。私はここで眠る。美紗は帰ってよい」
 とおっしゃいました。

 翌日は十月十二日でございます。夜明け前に参りますと、師の御坊はすでに起きて、堂内を掃き清めておられました。
 「おう、来たか。それでは始めよう」
 そうおっしゃって、仏前に座られ、昨日と同じように深い瞑想に入ってから、経文を始められました。一座が一刻ほどでございますので、終わるころに朝食の時間になりました。わたくしは厨へ行って食事を頂いてまいりました。もったいないことに、わたくしの分も作ってくださっていました。厨の方々に御礼を申し上げて、持仏堂に持って帰りました。
 「阿闍梨さま、わたくしの分まで食事を作ってくださいました」
 と師の御坊に申し上げますと、
 「修法の間は、そなたは影の者ではなく、私の侍者だ。釈迦牟尼仏にお仕えする阿難尊者のようなものだ。だから、食事を作るようにお願いしておいた。遠慮なくいただくがいい。ただし、一日一食だぞ」
 とおっしゃいます。師の御坊は箸をつけられましたが、私がとまどっておりますと、
 「一緒に食べよう。そなたは今は私の侍者だ。釈迦牟尼仏も阿難尊者と一緒に食事をされた。だから、そなたも一緒に食べるのだ」
 とおっしゃいます。それで、畏れ多いことでございますが、一緒にいただくことにいたしました。湖でとれた小魚と野菜の煮付けでございましたが、それはそれはおいしゅうございました。
 それから亥の刻まで、ひたすら修法をなさいました。一刻ほどで一座が終わりますので、厠に立たれ、後はひたすら読経をしておられました。

 翌日の十三日も同じことでございます。いじましいことでございますが、食事についてよく覚えております。小海老でございました。わたくしどもも、小魚や小海老をいただきますが、このようにおいしく美しく調理したものは初めてでございます。そのように師の御坊に申し上げますと、
 「美味であるとか美味でないとかにこだわってはならぬ。それは分別である。これはな、生類の命をいただいている。生類の命とは、すなわち仏のおん命だ。仏のおん命が分かれて、おのおのの生類の命となるのだ。そのことがわからぬと、これは殺生になる。美味であるとか美味でないとか、魚であるとか魚でないとか、そういう分別を一切捨てたところに、空性がある。空性とはすなわち仏のおん命だ。仏のおん命と一体になるからこそ、生類をいただく業は浄化されるのだ。わかるかな」
 と、微笑みながらおっしゃいました。
 「よくわかりません」
 と正直に申し上げますと、
 「そうか。それでは、食べられる生類に感謝し、それを美紗が食べられるように調理してくれた人々に感謝していただけば、それでよい」
 とおっしゃいました。私は不覚にも涙を出してしまいました。それがどうしてなのか、よくわかりません。師の御坊のおやさしさのためなのか、天地と衆生の恵みを思ってか、仏のおん命に触れたのか、それはよくわかりません。ただ心の底から喜びが湧き上がって、泣いてしまったのでございます。

 翌日の十四日の昼すぎに、仲間の影の者がわたくしを呼びますので、持仏堂の外ですこし話をしました。その内容を、修法の合間に師の御坊にお伝えしました。
 「堅田では特別の動きはないようでございますが、坂本の一揆衆は、今朝は動いていないようでございます。なにやら集まって座っておりますが、腑抜けたようになっておりますそうな」
 と申し上げると、
 「ほう、効果が出て来たようだな」
 とおっしゃいました。
 その日は、焼いた魚が出ました。湖のものではなく、川でとれる鱒だと思います。塩だけでなく、小皿に酢がすこし入れてありました。ほんとうにいじましいのですが、食事のことはよく覚えているのでございます。師の御坊に申し上げると叱られるかもしれません。

 その日、暗くなってから、不思議なことが起こりました。荼吉尼像の上のあたりが薄明るくなって、なにやら人影のようなものが見えたのでございます。師の御坊は、わたくしの知らない言葉で、その者に語りかけられました。その者も答えているようでしたが、わたくしには声は聞こえませんでした。小半時も対話は続いたでございましょうか、師の御坊がある真言を唱えられると、光は消えました。
 戌の刻(午後八時)にその一座の修法を終えられて、
 「これで終りだ。話はついた。明日の朝、殿にお目にかかりたい」
 とおっしゃいました。
 「満願成就でございますか」
 とお尋ねいたしますと、
 「そういうことだ」
 とおっしゃいました。

 翌朝、殿にお目にかかりました。竹斎さまもおいでになりましたし、主だった侍衆も来ておられました。
 「浄念阿闍梨、修法は成就したのか」
 と殿がおっしゃると、
 「今日、堅田へ行って、邪法の行者と話をしてみようと思います。すでに念力で話はしておりますが、直接会った方がいいでしょう」
 と師の阿闍梨はおっしゃいました。
 「では、舟を出そう。供は誰をつけようか」
 「浄阿一人で十分でございます。お侍衆が来られると、向こうが用心しましょう。僧とその侍者としてまいるのが得策と存じます」
 「わかった、用意ができたら呼ぶ。今日も修法があるものと思って、朝食を用意してあるそうな。食べてから行くがよい」
 「心得ました」
 そうおっしゃって、師の御坊は私を伴って持仏堂へ行かれました。竹斎さまも一緒においでになりました。
 「美紗、食事をもらっておいで」
 と師の御坊がおっしゃるので、厨に行くと、今朝は鯉の甘露煮でございました。ものすごいご馳走でございます。師の御坊のところに持ってまいりますと、
 「私は今日は精進だ。厨にお願いして、握り飯と味噌をすこしいただいてきてもらえまいか。これらは、そなたがいただきなさい。竹斎殿も、よろしければ召し上がってください」
 とおっしゃいました。それで、竹斎さまとわたくしとで、そのご馳走をいただくことになりました。師の御坊は握り飯を食べながら、
 「これらは米と豆とでできているが、そういうものも命のあるものだ。鯉をいただくのと何も変りがない。すべては仏さまのおん命を、甘露としていただいているのだ。そうして人としての身を養っている。人として生まれることは難しい。またこの生は速やかに過ぎ去る。この人の生をゆめゆめ疎かに使ってはならない」
 と、私たちに向かうのではなく、独り言のようにおっしゃいました。

 舟で湖を渡ると、堅田はそう遠くはありません。港には堅田衆の舟がいて、検問をされましたが、佐々木殿の手形を出すと、問題なく入れてくれました。瑞宝寺は湖沿いにあります。山門をくぐって、中に入り、庫裏で、
 「頼もう」
 と師の阿闍梨がおっしゃると、
 「どおれ」
 と若い禅僧が出てまいりました。師の阿闍梨は丁寧に挨拶をなさり、
 「真言律宗の僧、浄念と申します。養命蘭隆禅師にお目にかかりたい」
 とおっしゃると、
 「お待ちください」
 と若い僧は言って、奥に入っていきました。しばらくして、
 「お待ちしておられたそうです。どうぞ」
 と不思議そうな顔で言って、わたくしたちを招き入れました。
 庫裏の奥に方丈があって、そこに椅子があり、四角い顔の禅僧が座っておりました。その隣に、痩せた男が床に座っているのですが、髪の毛は金色で、目は碧色でございました。話には聞いておりましたが、本当にそんな人間がいるのだなと、内心びっくりしてしまいました。
 師の御坊は唐語で話しかけられました。養命蘭隆禅師と思われる僧が勧めると、師の御坊も床に座られましたので、わたくしもその隣に座りました。それからしばらく唐語での話し合いが続きました。やがて、師の御坊はご挨拶をなさって、瑞宝寺を辞しました。

 どういうわけか、一人の禅僧がついてきて、わたくしどもを堅田衆の頭である殿原殿の館に案内しました。座敷に通されて、しばらく待たされました。先ほどの禅僧は、別のところに行ってしまいましたが、やがて幾人かの侍を連れてあらわれました。上座に座ったのが、どうやら殿原の当主であるようです。
 「話は妙源から聞いた。修法の邪魔をしたそうだの」
 と当主は言います。妙源というのは、先ほどの禅僧の名前でございましょう。師の御坊は丁寧に挨拶をしてから、
 「拙僧は真言律宗の僧、浄念と申します。現在は佐々木殿に供養していただいております。縁あって元に渡ったことがあり、西蔵の仏法を学びました。先日の坂本での騒ぎを見にまいりましたところ、天竺渡来の呪法が使われているのを見まして、これは危ないと思い、とりあえず呪法の妨げをいたしました」
 とおっしゃいました。
 「なぜ止めるのか。佐々木殿の差し金か」
 と殿原殿はおっしゃいます。
 「いや、そうではございません。あのままでまいりますと、殺生が起こることは確実だったからでございます。先ほど、養命蘭隆禅師と話をしてまいりました。禅師がおっしゃるには、合戦を避けるために呪法を使われたのだとか」
 「そうだ。合戦になると、たくさんの死者が出る」
 殿原殿は、すこし怒った風におっしゃいます。中肉中背の、いかにも湖賊の頭目らしい引き締まった体で、腕などの筋肉もきわめてたくましいのです。顔つきも精悍で、女ならみんなが好きになってしまうであろう面立ちをしておられます。歳は、そう、二十歳をすこし過ぎたくらいでございましょうか。
 「呪法は、もっと死者が出るかもしれません。そのことについては、禅師にもご説明申し上げました。禅師も納得しておられました」
 「それはどういうことだ」
 「西蔵では、あのような法は、仏法を深くきわめた者にだけ伝授されます。それは、煩悩があればかならず悪用するからです。悪用せずにはおれません。いまはそうでなくても、かならずそうなります。現に、殿のご家中の方と思われますが、私どもに呪縛の法を使おうとされました。もし合戦のときにあの法を使うと、どうなると思われますか。呪縛された敵を斬るのは、立木を斬るよりも簡単です。ご家来衆は、その誘惑に勝てますか。いや、そもそも殿が、その誘惑に勝てますか」
 師の御坊がおっしゃると、殿原殿は考え込んでしまわれました。

 そのとき、侍がひとりやってきて、殿原殿に耳打ちをされました。殿原殿がうなづかれると、侍は下がって、養命蘭隆禅師ともう一人の禅僧を伴って帰ってきました。禅師は挨拶をなさったのち、語り始めました。もう一人の禅僧は通訳で、禅師の言葉を和語で説明しました。
 「天竺聖が出奔いたしました。浄念律師のお話を聞いて、天竺聖に魔法を禁じましたところ、黙って聞いておりましたが、その後、寺を出てどこかに去っていったという報告がありました。あの男は危険であるかもしれません。私には、ただ人の心を操る呪法だけを使うと言っておりましたが、浄念律師によると、呪縛法を使ったりしていたそうでございます。人の心を操ると申しても、思いのままに操るわけではなく、その者が心の底に望んでいることをするようにさせるだけだから、安全だと申していたのですが、そうでないものも使ったようです。そのことについても申しました。あの碧い目で拙僧をにらみ返しましたが、口では何も申しませんでした。その後、出奔したのでございます」
 師の御坊は、「それは危険でございますな」
 とおっしゃいました。
 殿原殿は、すこし青ざめて、
 「捜索させよう」
 とおっしゃいました。師の御坊は、
 「おやめになった方がよろしゅうございましょう。危険でございます。あの男は、どんな術を使うかわかりません。さいわい、紅毛碧眼でございますから、どこへ行っても噂が伝わってまいりましょう。将軍家に話を通しておけば、なんとかなるのではないかと思います」
 とおっしゃいました。

 その日の話はそれで終りになり、師の御坊と私は舟に乗りました。
 「阿闍梨さまは唐語がお上手でございますね」
 と申すと、師の御坊は、
 「あれは唐語ではない、蒙古語だ。唐語は方言が多いので、地方によって通じない。元代になってからは、共通語として蒙古語を使うことが多いのだよ。それなら、蒙古人はもちろん、唐人でも西域人でも通じ合える」
 わたくしは感心してしまいました。師の御坊は続けておっしゃいます。
 「先ほど、蘭隆禅師と通訳が使っていたのは、唐語のどれかの方言だ。私にはほとんどわからなかった」
 「へえ、そのようなものでございますか」
 そうわたくしは申しながら、もう修法は終りなので、師の御坊と一緒にいることも少なくなるのだと、すこし寂しく思いました。
 「阿闍梨さまは、これからどうなさいます。ずっと蓮華寺に住まわれますか」
 とお尋ねしますと、
 「いや、蓮華寺での用は済んだ。あそこは、鎌倉幕府の最後の侍たちが亡くなった場所だ。六波羅北方探題であった北条越後守仲時が、花園院・光厳院・後伏見天皇のお三方を擁して、鎌倉に逃れて幕府と一緒になって再起しようとしたのだが、あそこで足利勢に追いつかれ、全員が切腹をして果てた。攻め手には佐々木殿もおられたんだよ。尊き方々がご無事であったのが、せめてものことであった。私は、鎌倉の武士たちの弔いがしたくて、あの寺にいたんだよ。それも終わったので、また旅に出ようと思う」
 とおっしゃいました。
 風がありませんでしたので、櫓を漕いで進みましたので船足が遅く、坂田の港に着く前に日が暮れて、伊吹山の方から満月が出てまいりました。その光が湖面に映えて、美しい夜でございました。

 翌朝は非番であったのですが、殿からの呼び出しがあって、御殿に伺いました。すでに師の御坊が来ておられました。殿と師の御坊にご挨拶をすると、殿がおっしゃいました。
 「浄念阿闍梨殿は旅に出られるそうな。先日の魔法使いを見つけ出し、もう一度話をなさるそうだ。この国に、浄念阿闍梨以外に、あの魔法を封じることができる者はおるまいと、私も思う。天下泰平のためには、あの魔法はなんとしても封じなければならぬ。南朝はまだ元気でおる。そちらの手に渡れば、どのように悪用されるかもしれぬ。ついては、浄阿、阿闍梨殿のお供をしてくれまいか。旅先には甲賀者が潜んでいる場所があろう。そこから私に連絡がほしいのだ。また、私からの連絡も、それらの甲賀者を通じてそちらに伝えることができるだろう。竹斎には、私から申しておく。甲賀者の代わりが必要なら、竹斎から佐治殿に言ってくれるだろう」
 こうして、わたくしは師の御坊と旅に出ることになったのでございます。