2.選択肢から

 昨日は神道の話をしたが、今日からは仏教の話もまぜてゆく。

 日本の魔法の根本にあるのは弘法大師の教え、なかんずく『即身成仏義』なのだと思う。それが現代でも日本人の文体の根柢になっていて、われわれの「現代思想」の背景になっている。「嘘でしょ」と思われるかもしれないが、ゆっくりと証明していく。

 『朝日新聞』の慰安婦報道を例に考える。妙な例だと思われるかもしれないけれど、あれは魔法なのだ。まず、戦前の状態を考える。兵隊のいるところには売春婦が集まる。それは、世界中どこでだってそうだ。日本の場合は、外国に駐屯している部隊が現地の「民間」の売春婦と関係することを好まなかった。それはそうでしょうね、敵の手が回って、とんでもない事件が起るに決まっているもの。敵は何しろ、権謀術数を何千年も鍛えてきた中国人ですからね。そこで、業者に委託して、基地の近くで売春宿を経営してもらうことにした。そこで働くお姉さんがたを「売春婦」という名前で呼ぶと印象が悪いので、「慰安婦」という名前で呼ぶことにした。このように、「慰安婦」という名前は、はじめは《よごと》だったのだ。もっとも、兵隊たちはそういう名前では慰安婦たちを呼ばず、もうすこし失礼な名前で呼んでいたようだが。

 戦争が終わって、いつのころからか、朝日新聞関係者が、「慰安婦」の前に「従軍」という言葉をつけ、しかも軍が強制連行したという《ものがたり》をくっつけた。「従軍」というのは、もともとは軍が雇用したり委嘱したりした人々のことで、「従軍看護婦」とか「従軍記者」とか「従軍画家」とかがいたが、慰安婦は軍が雇用していたわけでもないし、直接に委嘱したわけでもないので、「従軍」という接頭語をつけるのは、言葉の誤用だ。しかし、この接頭語をつけた結果、本来《よごと》であった「慰安婦」は、「従軍慰安婦」という《まがごと》に変身した。

 さらに、「性奴隷」という、ものすごく強烈な《まがごと》が発明されて、慰安婦は「性奴隷」という名前も持つようになった。慰安婦は、売春業者が募集した。まあ、そういう人たちのことだから、嘘をついて女性を集めたかもしれないが、それはなにも軍と関係する慰安婦だけでなくて、公娼(国が認めていた売春婦)の募集は一般にそんなものだった。中には親が給料を前借りして娘を差し出した例もあるようだ。これも公娼一般にそうだ。これを「身売り」というが、実際に人身売買をしたわけではなくて、給料を前払いしたので、その分の返済が終われば自由の身になる。ともあれ、たとえ「身売り」していても「奴隷」という名前で呼ぶのはふさわしくないのだけれど、「性奴隷」という名前は魔法のための《まがごと》だから、事実がどうであれ、それで魔力が発揮できればいいのだ。

 《よごと》だの《まがごと》だのを定義しないで使っているが、アドラー心理学風に、「人と人を結びつける conjunctive 言葉」を《よごと》、「人と人を切り離す disjunctive 言葉」を《まがごと》と考えておく。『朝日新聞』は、慰安婦という《よごと》を、「従軍」という言葉をつけて《まがごと》化し、さらに「性奴隷」という猛毒の《まがごと》まで使うようになった。呼ばれている対象は同じ人々、つまり戦場売春婦のお姉さんたちだ。ところが、名前が変わると、人々の頭の中にある像が変わり、それにつれて人々の行動が変わる。つまり、名前には《作用効果》がある。この名前の《作用効果》を系統的に使うことを《魔法》という。自然科学も魔法だ。自然科学は、数式という呪文を使って自然を記述し、物質を支配する力を手に入れた。しかし、いまはそれは置いておいて、呪文を使って人の心を支配する魔法の話をしよう。

 『朝日新聞』はどうしてあんなに《まがごと》の使い方が上手なのかというと、マルクス主義という魔法の教典を使っているからだ。マルクス主義は「階級闘争」という理論で、ある階級と別の階級とが競合的であると教える。《競合的》というのは、つまり「人と人を切り離す」ということだ。だから、マルクス主義を信奉すると、誰かと仲が悪くなる。そうして、仲が悪くなった相手に対して、さまざまの《まがごと》を投げつける。

 われわれとしてはどうすればいいかというと、まず、言葉を《よごと》か《まがごと》か分別することだ。そのためには、まず自分は《よごと》を使って暮らそうと決心をする。自分で《まがごと》を使っていると、感覚が鈍くなって、他人の《まがごと》に気がつきにくくなるし、そうなると他人の《まがごと》の影響を受けて、魔法にかけられてしまう。

 人間は自由でいることが好きだ。子どもを見ていると、つくづくそう思う。たとえば、実家の祖父母が来たとする。父親が小さな息子に「ちゃんと挨拶をしなさい」と言うと、息子は「しない」と言う。もし母親がアドラー心理学ズレしておれば、「お祖父ちゃんとお祖母ちゃんに、お利口なところを見てもらいますか、お馬鹿なところを見てもらいますか?」と言うと、息子は「お利口なところ」と言って、祖父母に挨拶をするだろう。自分で選択できれば、普通の子は適切な行動を選ぶものだが、適切な行動を強要すると、独立心旺盛な子は、拒否して不適切な行動をする。かくのごとく、人間は自由でいることが好きだ。

 魔法使い(以下「術者」と呼ぶ)は魔法をかけられる人(以下「被術者」と呼ぶ)に対して呪文を唱えて、あることを感じさせたり行為させたするのだが、被術者が、「自分は自由に選択できている」と感じている方がうまくいく。だから、「目を閉じて、山の風景を思い浮かべなさい」と言っても、「浮かびません」と言われるのがオチだ。そこで、「目を閉じたら、どんな風景が思い浮かびますか?」と尋ねることにする。被術者は、初めは術者が望まないような風景を言うかもしれない。たとえば、「駅前のパチンコ屋の入り口が見えます」くらいのことを言うかもしれない。術者は「それは心の落ちつく風景ですか?」と尋ねると、被術者は「落ちつきません」と言う。術者が、「あなたとしては、心を落ち着けたいと思いますか、それとも落ち着けたくないと思いますか?」と問うと、たいていの被術者は「落ち着けたいと思います」と言う。ここでもし術者が「あなたとしては、心を落ち着けたいと思いますか?」とだけ問うと、被術者は「別にそうも思いませんが」と言うかもしれない。これは「閉じた質問」で、閉じた質問にはノーを言うことに決めている人がけっこういるからだ。ところが、「心を落ち着けたいと思いますか、それとも落ち着けたくないと思いますか?」というように選択肢を提示すると、「心を落ち着けたくないと思います」と決然と言うのは面倒なので、どっちでもいいなら、より面倒でない「心を落ち着けたいと思います」の方を選ぶ人が多いだろう。被術者が「心を落ち着けたいと思います」と言えば、術者は「パチンコ屋の入り口の風景よりも、心が落ちつく風景はなんですか?」と尋ねる。被術者は「喫茶店の中ですかね」と言う。術者は、「どんな風な喫茶店か、説明していただけますか?」と問うと、被術者は、喫茶店を思い浮かべて、説明してくれるだろう。…と、このようにして、30分後には、白蓮の上に座っている真っ白な観音菩薩のお姿をありありと思い浮かべさせることだってできるだろうし、1週間もすれば胎蔵界曼荼羅の全体像をありありと思い浮かべていることだってあるかもしれない。カーリングというスポーツがあるけれど、ちょうどあんな風にして、小さな変化を連続的に作ることで、結果的に大きな変化を作る。

 これは別に、真言密教の魔法使いだけが使う方法ではない。阿含教典を読んでいると、お釈迦さまは、外道の修行者が議論にやってきたときに、まさにこのようにして、相手の考えを聞いてからほんのすこし修正して返し、あるいは相手の意見のある部分について質問し、あるいは選択肢のある質問をして、相手の考えを少しずつ少しずつ修正していかれる。最終的に外道の修行者は、「ゴータマ尊よ、すばらしいことです。ゴータマ尊よ、すばらしいことです。たとえば、ゴータマ尊よ、倒れたものを起こすかのように、覆われたものを取り除くかのように、迷った者に道を教えるかのように、『眼の見える者たちは、もろもろのものを見るであろう』と暗闇に燈火を掲げるかのように、まさにそのように、ゴータマ尊は多くの方法で、法を説いてくださいました。この私は、ゴータマ尊に、また法に、比丘僧団に帰依いたします。今より以後、生涯、ゴータマ尊は、私を帰依する信者として、お認めくださいますように」ということになる。大魔法使いだ。

 いきなり俗っぽくなるが、世論操作も、これと同じ原理で行われている。大衆は、自分たちは自由に選択できていると思っている。しかし、実際には、選択肢が示されていて、その一方を選ばされている。古いところから始めると、占領軍は、「民主的」と「封建的」を対語にして、「どちらを選びますか?」と言った。なぜ「封建的」という名前を対語として選んだのかだけれど、たまたまではなくて、じゅうぶん考えた上でのことだと思う。「独裁的」や「軍国主義的」や「天皇絶対主義的」だと、ついこの間までそういうことを信じていた人たちと全面対決になるじゃないですか。ところが、「封建的」だと、「へ?」っていう感じで、「なんでそんな変なもの出すのね」と思って、なんとなく「民主的」を選ぶ。ここが魔法なのだ。そうして、短い期間の間に、日本国民のほとんどが「民主的」を選んだ。しかも、押しつけられて選んだのではなくて、自由意思でもってみずから選んだと感じていた。

 あるいは、「人権」と「差別」を対語にして、「どちらを選びますか?」と言った。ちょっとまってよね、「人権」と「差別」は対語じゃないですよ。「差別」の反対語は「平等」でしょうが。「人権」の反対語はね、「市民権」ですよ。でも、「人権」と「市民権」を対語にしたのだと、「人権」と「市民権」の違いについて説明しなければならなくなって、そうなると「市民権」の支持者が増えて、「人権」を選ぶ人が減るだろう。しかし、「人権」と「差別」だと、「差別」は《まがごと》だから、「人権」を選ぶ人が増えるだろう。これも魔法なのだ。日本国民のほとんどは魔法にかけられて「人権」は良いことだと思い、「差別」は悪いことだと思い、ついでに「市民権」については考えたことがない。しかも、自由に選択した結果、そのような結論に到達したのだと、大衆は思い込んでいる。

 一事が万事、このようにして、大衆は、「自由に選んで」、戦後民主主義国家(←軽蔑をこめて言っている)を作った。しかし、「民主主義」は《よごと》では、かならずしもない。特に、西洋式の、与党と野党が対立していて、最終的に多数決で決める民主主義は、どちらかというと《まがごと》だ。『十七条憲法』に、

  ものごとを独断で決めてはいけません。かならず人々と話し合いなさい。小さなことは必ずしも人々と話し合わなくてもかまいませんが、大きなことについては、間違いを起こす可能性がありますので、人々とお互いに話し合って、道理の通った結論を得るようにしてください。

  夫事不可獨斷。必與衆宜論。少事是輕。不可必衆。唯逮論大事。若疑有失。故與衆相辨。辞則得理。

と書かれているのは、現在の会社のようなシステムが想定されていて、管理職がいて、部下がいる。管理職は、小さなことは自分で決めていいけれど、重大なことについては部下と相談するなり別の部門の管理職と相談する。そうして、最終的には管理職が責任をもって決定する。これって、「独裁的」の対語としての「民主的」でしょう。こういう意味でなら、日本は1500年も民主国家をやってきた。こういう民主制は、《よごと》だと私は思っている。なぜなら、人と人を結びつけるからだ。もっとも、《穢れ》がくっついてしまった「民主」という言い方を使わない方がいいと思う。もっと美しい名前を考えるべきだろう。「合議制」かな?

 「人権」と「市民権」についても、説明しておいた方がいいかもしれない。市民権というのは、法律や伝統が個人に権利を与えるという考え方で、人権というのは、神が個人に権利を与えるという考え方だ。いいですか、人権は「神さま」がくださったんですよ。私は仏教徒だから、そういう神は信じませんね。私の権利は、日本の法律と日本の伝統が保障してくれているものだと思う。だから、日本の国がなくなると、私の権利もなくなる。世界の国々は、パスポートを持っている外国人の権利を保障する条約を結んでいるので、私が外国へ行っても、日本のパスポートを持っている限りは、私の権利は保障される。パスポートを失うと、場合によってはその場で射殺されても文句は言えない。しかるに、人権論者は、個人の権利を国法や伝統とは関係なしに考える。それは非現実的だ。日本国がなくなれば、日本人の権利もなくなるだろう。「人権」は《まがごと》である以前に、狂った思想だ。「市民権」を「人権」の対語に持ち出さなかった大魔法使いの手並は見事だが、感心していてはいけないので、市民権思想を《よごと》として普及したいものだと思っている。選択肢を考えなければ。