『令和』という元号は、私が知るかぎりでは、きわめて評判がよい。まあ、公表された直後に悪い感想を言うわけにはいかないんだがね。いや、それは「外衆の勘ぐり」にすぎなくて、実際によく考えられた元号なんだと思う。
神道的に考えるなら、天皇陛下は年号でもって次の時代を浄化なさるのだろう。いまはどうだか知らないが、江戸時代以前は実際にそう考えられていたのだと思う。『令和』という年号をそういう『呪符』だと考えると、なかなか奥ゆかしい名前ではある。つまり、新しい年号は、次の『時代』と即応して使われる。私が『時代』と言っているのは、「平成」とか「昭和」とかいう意味での年号のことだ。本当はもっとよい名前があるのかもしれないが、急に言われて思いつかないので、さしあたって『時代』ということにしておく。
令和という年号で呼称される時代がどんな時代になるのかは、実際にやってみないとわからないのだけれど、多くの国民は「よい時代」になるだろうと思い込んでいる。いまのところは思い過ごしだが、実現するかもしれない。
もし実現しなくて、令和がひどい時代であったとすれば、「よい時代」を期待していた論者はどうするだろうか。もちろんある人たちは「よい時代」でなかったことを嘆くだろうが、それは少数派で、多数派は、「他の名前の時代になったよりはよかった」と考えるのではないだろうか。つまり、年号とそれに即応する『うらない』は、人々に楽観性を与えると思っている。「令和は変な時代だったけれど、他の年号だったらもっと悪い時代になっただろう」と考える人の数の方が、「令和はひどい時代だった」と考える人の数よりは圧倒的に多いの思うのだ。
というわけで、令和はよい時代になるでしょう。すくなくとも他の年号を持つとか、あるいは年号を廃止するとかよりも、よほど楽観的な時代になるのではないかと思っている。