アドラー心理学理論は、「個人の主体性・目的論・全体論・社会統合論・仮想論」という、5つの基本前提を持っています。これは、アドラー心理学がどこを取っても、これら5つの理論的特徴を備えていることを示します。したがって「目的論」についても、アドラー心理学でのそれは、あくまで個人の主体性を前提とした、全体論的で、仮想論的で、社会統合論的な「目的論」なのであり、「目的論」と呼ぶことのできる何もかもがそこに含まれるわけではありません。ご質問で想定されているような、いかなる「目的」であろうと追求して構わないとする「目的論」があったとしても、直ちにそれがアドラー心理学に整合するわけではないのです。
そもそもアドラー心理学は、「欲求」に関して独自の見解を持っており、あらゆる欲求を肯定しているわけではありません。たとえば「個人の主体性」の観点では、人間を、外部の刺激や内部の本能的な衝動によって動かされる、欲求にたいして受動的な存在だとは捉えません。欲求とは、個人が何らかの目的を達成するために主体的に創り出して活用する、「道具」に他ならないと考えます。したがって、自らのコントロールを超える「抗いがたい欲求」などといったものは、自己欺瞞に過ぎないと考えます。
あるいは全体論的な観点では、生理的欲求や心理的欲求といったものが個々に働くことで、その人全体を動かしているとは考えません。アドラー心理学において、人間とは「これ以上分割できない(Individual)全体」であり、そのすべての動きは、個体としての統一性を保ち、生命の恒常性を維持しようとする一つの方向性、すなわち「ライフスタイル」へと統合されています。そのためアドラー心理学では、たとえば理性と葛藤する欲求というものを認めません。そのようにみえる場合、そのどちらも選ばないことで達成しようとしている別の目標がその人にあると考えます。
また「仮想論」は、私たちが持つ「自分には価値がない」という劣等感と、その補償である「私はこうでなければならない」という優越目標は、主観的に意味づけられた「仮想(フィクション)」に他ならないと教えます。それらの仮想に根ざした、自分を過剰に強く見せようとしたり、過剰に飾り立てようとするような「欲求」は、蜃気楼を追いかけるような終わりのない不毛な努力に陥りがちだと考えられ、アドラー心理学ではそのような「欲求」を健全なものとは見なしません。
そして「社会統合論」は、人間行動が常に対人関係上の目的を持つことを指摘します。人間は社会的な動物であり、そのすべての行動は他者との関係性のなかで行われます。そのため、社会とは無関係に存在するようにみえる「私的な欲求」についても、アドラー心理学では対人関係上の文脈からその目的を理解します。先述の「こじれたコミュニケーションの5つの段階」はまさにそのような理解のための類型であり、さまざまな行動の目的が持つ社会的な意味合いを説明するものです。
さらに思想的見地からいえば、個人の「欲求」とは、人々と協力しあって暮らすことを望むものであるかも知れませんし、あるいは他者を押しのけて競合的に進もうとするものかも知れません。共同体感覚を提唱するアドラー心理学の立場は、あくまで前者を推奨するものであり、後者については否定的です。アドラー心理学は、人々がただ自分のことだけに専念し好き勝手に動けばいい、とするものではなく、よく話し合ってお互いの長所を活かしながら共存していく道を探ろうとするものです。
このように、アドラー心理学とはむしろ、個人の行動の「目的」を問う心理学なのであって、したがって『アドラー心理学は「目的論」だから目的を持つ行動はすべて許され、あらゆる欲求の追求も肯定される』などといった受け止め方は、全く間違っていることがお分かりいただけることと思います。
