自然の結末、社会的結末、論理的結末とはそれぞれ何ですか? どう違うのですか?

Category: カウンセリングと応用

一般に人がものを学ぶ方法には、ことばを通じて学習する、親や先生などのモデルを見て学ぶ、試行錯誤をしながら体験を通して学ぶ、という3種類の学び方があります。人が子どもから大人へと成長していくには、このいずれの方法も大切となります。ですが、このなかで最も効果的に、子どもが自ら学び成長できる学び方は、試行錯誤をしながら行動の結末の体験を通して学ぶ方法に他なりません。アドラー心理学ではこうした教育法について、アメリカにおいてはドライカースが「自然の結末」と「論理的結末」から学ぶ技法を提唱し、日本においては野田俊作が「自然の結末」「社会的結末」「論理的結末」の3つから学ぶ技法を提唱しました。

 まずは野田のアイデアから説明します。「自然の結末」とは、「自然の法則」、すなわち物理学的な法則や生物学的な因果関係によって起こる結末のことです。たとえば、雨が降るのに傘を持たずに外に出れば、「自然の法則」によって服が濡れますから、「自然の結末」を体験することになります。さらに、そのために冷えて風邪をひくかもしれませんが、これも「自然の法則」によるものですから「自然の結末」です。子どもは「自然の結末」を自ら体験することで、学び、成長することができます。「自然の結末」の体験に際して、子ども自身と他人の身に危害がおよぶとか、取り返しのつかない結末とかでない限り、親などはできるだけ介入しないほうがよいとアドラー心理学では考えます。

 しかし、子どもの教育を「自然の結末」だけに任せていては、子どもは生きていくのに必要な、社会のルールや常識を学ぶことができません。人は社会的な動物ですから、子どもに社会と調和して生きる大人に育ってもらうことが大切です。子どもたちは社会を生きていくため、法律はもちろん、ルールや約束、さらに慣習や文化などに由来する「社会の法則」を学ぶ必要があります。「自然の法則」によって望ましくない「自然の結末」を体験することがあるように、もし「社会の法則」に反する行為を選択すると、なんらかの「社会的結末」を体験することになるでしょう。たとえば、他人のものを断りなく自分のものにすると、「社会の法則」によって叱られる、あるいは罰を受ける、といった結末を体験するのです。このように「社会的結末」を体験することによって、子どもは自らの行為に対する責任を学ぶことができます。

 では、3つめの「論理的結末」とはなんでしょうか。これは「論理の法則」によってもたらされる結末です。「論理の法則」とは、親も子どもも、それ以外の誰であろうと、話し合えばともに納得できる「筋の通った」法則性のことです。たとえば食事中に遊ぶのは、常識に照らして好ましくない行動ですし、まわりの迷惑にもなりますから、そのようなことをしてはいけないと子どもに学んでもらわなくてはなりません。「食事中は遊ぶのをやめてください」と親が子どもにお願いしても繰り返されているとしましょう。その場合、親は「食事をするなら遊ぶのはやめてください。遊ぶのなら食事をやめてください」と提案します。これに対して子どもが納得して「遊ぶのをやめる」と言えば、親子で合意したこの法則性によって起こる結末を、「論理的結末」といいます。つまり、それで本当に子どもが遊びをやめるなら食事が続きますが、子どもが遊びを続けるようなら、親は「遊ぶことに決めたようですから、食事は終わりにしましょうね」と言って食事を片づけるという結末になります。

さて、ドライカースの育児法においても、子どもに「自然の結末」を体験させることがなるべく重視されます。ただし彼のいう「自然の結末」とは、野田の言う「自然の結末」、すなわち物理学的な法則や生物学的な因果関係によって起こる結末ではありません。子どもが自らの行為によって自然と起こる結末のすべてを指します。ただし、育児において、子どもの行為の中には、取り返しがつかなかったり他者に危害が及ぶような結末を招くものもあり、そうした可能性は、親が「介入」し回避しなければならない、とドライカースは考えました。そこで、自然に起こる結末「自然の結末」のかわりとして、子どもの行為が原因となって起こるはずの出来事のなかで、危険がなく子どもにとって教訓的な結末を親が「演出」し、それを子どもに体験させることを「論理的結末」と呼び、提案しました。

ドライカースの「論理的結末」は、「自然の結末」のかわりに親が結末を「演出」するわけですから、子どもの行為と結末との間には、「自然の法則」の場合と同様の、誰であろうと納得できる原因とその結果という、厳密に論理的な関係がなくてはなりません。なぜなら、行為と論理的に結びつかない結末を子どもに課すことは、親の恣意的な罰に過ぎず、子どもはそこから、どのように行為すればどのような結果に至るのかといった物事の道理を学ぶことができないからです。しかしながら、親が自分では「論理」と思い「演出」しているつもりでも、実際には単に親の私的感覚に基づくものであったり、社会の共通感覚に反していることがあります。そのため残念なことに、アメリカではこの技法が子どもを支配する技術として悪用される、あるいはそのように意図しなくとも使い方を誤って罰や支配の道具となってしまう、等の問題が起こりました。

それに加え、日本人は親も子どもも、そもそも欧米人ほど論理的ではありませんし、欧米のように、情よりも論理に価値を認める文化ではありません。また私たちが思考とコミュニケーションに用いる日本語それ自体が、英語ほど明確な論理的構造を持っておりません。にもかかわらず、親が「論理的結末」を「演出」し、平然とポーカーフェイスで子どもに経験させる、というアプローチは、はたして日本で可能でしょうか。

 そのため野田俊作は、アドラー心理学による育児を日本に導入するなかで、日本人が分かりやすく、なおかつ安全に実践できるように、「自然の法則」「社会の法則」「論理の法則」に基づく結末をそれぞれ「自然の結末」「社会的結末」「論理的結末」と名づけて定義し直しました。このように、ドライカースのアイデアと日本で教えている「結末」との間に大きな違いがあるのは、臨床上の問題点に配慮しながら、各国の文化的な特性に対応するため工夫を重ねた結果です。ただし、どちらにしましても、賞罰とは決定的に異なる、子どもが自ら学び、成長を促す技法であるという点には変わりありません。

 なお、親子の関係が成熟しないままで「論理的結末」の技術を使うと、ハラスメントやDV、あるいは病的な親子関係となってしまうことさえあります。

 たとえば、他の子どもを叩いてしまう子どもと、その親の間で、次のような約束をしたとします。「もしあなたがお友だちを叩いたら、私はあなたを家に連れて帰ります。もしあなたがお友だちと仲良く遊ぶなら、ここで遊ぶことを許します」。これは直ちに「論理的結末」といえるでしょうか。もし親が冷静に、そもそも友達とは叩いてよいものではなく、叩かないのが世の中の常識であり、お互いに叩かずにいてこそ友達同士として仲良く一緒にいられる、と子どもに伝え、子どもがそれを理解して、その結末として上記のような約束を交わしたのであれば、それは紛れもなく「論理的結末」といえるでしょう。しかし、子どもと冷静に話し合うことをせず、子どもが納得しないまま「あなたはどちらを選びますか」と選択肢を提示し、無理やりどちらかを選ばせたのなら、これは押し付けられた罰にほかなりません。子どもはいったんは親の言うことを聞いて叩くのをやめるかもしれませんが、人と仲良くするためにはどう行動すればよいかという、最も学んでほしいことを学ぶことができないでしょう。ましてや、連れ帰られた場合には、不平不満だけが残るでしょう。

 このように、親子が仲間でない状態で使おうとすれば、「論理的結末」という技法は100%失敗します。「論理的結末」は、親子の関係が成熟してはじめて使える技術なのです。AIJでは、子どもがそのような悲劇に陥いることのないように、「論理的結末」は『パセージ』の上級編である『パセージ・プラス』で扱うこととし、『パセージ』では、理解しやすくリスクも比較的低い「自然の結末」と「社会的結末」について、練習を交えながら丁寧に学んでいただきます。