国の中継ぎ

 一昨日「国のはじまり」という題名で、史書に書かれている日本の国のはじまりについて書いた。中身はもちろん神話・伝承のたぐいで、考古学的な事実ではない。しかし、事実にもとづいていないことがあきらかな神話・伝承のたぐいをわざわざ大切に伝えてきたのは、事実以上に大切な側面もあるからだ。それは、ちょっと保守的に聞こえるかもしれないけれど、「日本人のたましい」というものだ。

 今日は「国のおわり」を書こうかなと思ったが、まだ終わっていないので書けない。そこで、竹田恒泰『中学歴史』(令和書籍)の最後の項目「震災と世界のなかの日本」から引用する。

  平成七年(1995)は阪神・淡路大震災、そして平成二十三年(2011)には東日本大震災が起きました。東日本大震災は、関東から東北にかけて巨大津波が襲ったため、死者・行方不明者は二万人近くになりました。また福島第一原子力発電所が事故を起して広い範囲に高濃度の放射性物質が拡散されたため、長期にわたる避難生活を余儀なくされている人が大勢います。

  しかし、東北で厳しい状況にいながらも、助け合いながら秩序だって行動する人々の姿は、世界の人々に感動を与えたそうです。世界の常識では、大災害になると無秩序になり、略奪や暴動が相次ぐものですから、日本の被災者の様子は世界の注目を集めました。

 さいわい日本は滅びず、いまも元気に生き残っている。滅びそうな気はあまりしないので、きっとこれからも生き残っていくだろう。どのようにして生き残っていくかというと、竹田氏の教科書では、古い歴史を重んじつつ生き残っていく、ということだ。明治以来今日までの150年間を思い浮かべても、政治や経済について改革すべきものは次々と改革しつつ、しかも必要があれば古い制度を残してきた。竹田氏のご意見は、全体としてすこし急ぎすぎではないかということらしいし、私もそうかもしれないと思わないでもない。この『中学歴史』の教科書がそういう雰囲気を漂わせていて、それが私にとっては心地よい。一方にこういう教科書があって、一方に「過激派」の教科書もあって、国民がその中から自分たちの未来を選びとっていくということなんだろうな。どうかいまの教科書よりは一歩進んだ(「遅れた」かもしれない)教科書が学校で公式採用されるようになればいいと思っている。