アドラー心理学はいじめやハラスメントについて、「被害者の課題」として被害者の被った暴力やその苦痛を無かったことにするものではありません。また「自分の受け止め方次第」などと、全ての責任を被害者に背負わせて、加害者側の暴力を免責するものでもありません。寛容の名のもとに、不寛容の極致ともいえるいじめやハラスメントが許されるようなことは、決してあってはならないと考えます。
結論から先に申します。アドラー心理学はいじめやハラスメントについて、それは加害者側の課題だからと、被害者の被った暴力や、それに伴う苦痛を無かったことにするものではありません。また「自分の受け止め方次第」などと全ての責任を被害者に背負わせて、加害者側の暴力を免責するものでもありません。寛容の名のもとに、いじめやハラスメントが許されるようなことは、決してあってはならないと考えます。
まず、ある出来事が誰かの課題なら、他の人にとっては課題ではない、もしくは他の人の課題にはなり得ない、という考え方は間違っています。ひとつの出来事は、それに関係する人々の、様々な課題となり得るのです。
この場合、被害者側には、たとえば現在の状況から速やかに抜け出して、ふたたび安心して人々との関わりに参加できるようにする、といった切迫した課題があることでしょう。加害者側は、いずれ他者を害したことによって自身に降りかかる「結末を体験」するでしょうし、それに向き合うという課題を避けるべきではありません。いじめやハラスメントを見聞きした周囲の人々も、「身近な方が被害を受けた事に対してどう考えどう行動するか」といった課題に直面することでしょう。そして出来事の舞台となった場の管理者、責任者にとっても、それらは看過できない課題であるはずで、為すべきことは多々あるように思われます。
また、いじめやハラスメントが現在も進行中であったり、被害がさらに拡がっていたり、再発のおそれがある場合には、その抑止のため、また加害者が自分の起こした行動の結末を充分に体験するためにも、コンプライアンスの担当部門や、警察等行政機関への通報と連携などが、被害を受けた側の課題に含まれてくることと思われます。
アドラー心理学は、他者に寛容であれとするものですが、いじめやハラスメントなどの暴力は不寛容の極致といえる行為であり、アドラー心理学は不寛容に対して寛容ではありません。そうした行為については、当事者だけの課題として傍観するのではなく、周囲の人々も自分にできることを考え、協力して解決することが求められます。
ただし、周囲の人々が被害者を思うあまりに、被害者自身の感情や考えを確認せずに動いたとしたら、それは、被害者を援助することにならない場合もありえます。物理的には同じ被害であっても、主観的にどのような「被害」であるかが異なるからです。むやみに踏み込んで、被害者の考えを無視した安易な助言をすることなどは、被害者を二重に苦しめてしまうことになりかねません。
もし、私たちがそうした問題についてご相談を受ければ、「話を聴く」ことを大切にします。じゅうぶんに話を聴いたあとであれば、被害者の求めに応じて「助言する」こともあります。それらを通じて、「私は能力がある」「人びとは私の仲間だ」と思える方向へ、そして自立して社会と調和して暮らせる方向へと向かえるように、時間をかけて勇気づけを重ね、援助しようと努めます。被害の状況次第では、同時に、または心理的対応よりも優先して、医療的対応を含む専門的な支援にもつないでいけるよう充分に配慮します。
